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転性のノスタルジア  作者: 都森メメ
高校三年生
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避妊薬

 

 2ヶ月後にセンター試験を控えた11月のこの日、私はレディースクリニックを受診した。避妊薬を処方してもらうためである。


「こちらの問診票に記入をお願いします」

「わかりました」


 清潔感の溢れる、やや桃色の壁に囲まれたレディースクリニックの待合室で、渡された問診票にボールペンで丸を付けていく。過去の病歴や現在の生理周期など、凡そ人に語ることが憚られるようなことをひたすら聞いてくる問診票である。

 すべての質問に答えてから、受付の看護婦に渡してしばらく待つと、診察室に呼ばれた。


「ええと……桜田さんはとくに問題は無さそうですね」

「はい」

「避妊薬、所謂ピルには保険が効きません。種類もいくつかありまして、大雑把に言って、低用量ピルと中容量ピルになります。副作用が少ないのは低用量の方です」

「低用量でお願いします」

「わかりました」


 私の伝えた希望を、椅子に座った女医がパソコンに打ち込んでいく。細い指先でキーボードを叩いた後、女医は液晶画面をこちらに向けてきた。


「現在の生理周期はこれで間違いありませんか?」

「はい」


 パソコンの画面に表示されたカレンダーに、私の生理周期の大まかな予想が記されている。カレンダーは2月の下旬まで表示されていて、生理周期は赤色で1週間ずつ各月が塗りつぶされ、それとは別に1月の17、18日、2月の1日と25日に青色でマークがなされている。


「センター試験、私立入試、国立の二次試験、全て受けられるのであれば……、この日から薬を服用してください」

「わかりました」

「21日間毎日服用したあと、7日間偽薬を飲んでください。そうすればその時に生理が来ることになりますので、入試の日取りと生理が被らずに済みます。このカレンダーの日程表は印刷して、あとでお渡ししますね」

「ありがとうございます」

「今回処方するのは最初の1ヶ月分です。続けて処方を希望する場合、来月にまた来診してください。体調に異変が起きたときもすぐに来てくださいね」

「はい」

「診察は以上です。待合室でお待ちください」

「ありがとうございました」


 軽く会釈して診察室を出る。待合室に戻って空いているソファーに座る。周りの年配の方々にやや視線を向けられている気がする。私のような未成年は珍しいのかもしれない。


「桜田さん」

「はい」


 受付の看護婦に呼ばれて席を立つ。保険の効かない会計を済ませて、低用量ピルを1ヶ月分処方してもらう。薬の詰められた袋の中には先程の生理周期カレンダーと、避妊薬ハンドブックも入れられている。


「ありがとうございました」

「副作用が酷ければ、すぐに来診してくださいね」


 看護婦に念を押されるようにそう言われてから、私はレディースクリニックを出た。秋の終わりかけの外は少し寒く、そろそろマフラーが要るな、と高校最後の冬に思いを馳せながら帰宅した。





 生理周期を調節するために避妊薬を服用し初めてからしばらくのある日、日本に上陸したばかりの台風は私たちの地域を足早に通りすぎた。窓を揺らす強風の煩さに苛まれながら就寝し、翌朝起きると濡れた地面が嘘であるかのように晴れ渡る青空が広がっていた。夜のうちに私たち学生を期待させた台風は、学校を休みにはしてくれなかった。


「ああ、しまった」


 起床して時計を見ればすでに6時過ぎ、航平のお弁当を作る時間はもうない。避妊薬の副作用のせいか、ぼんやりする頭を枕から無理やり起こして、制服に着替えた。


「ごめん、お弁当作れなかった」

「全然いいよ。ていうか美咲、体調悪いのか?」

「ちょっとね」


 避妊薬を飲んでいることは航平には言っていないので、私の眠気や怠さの原因を彼は知らない。いつもより重い頭を抱えながら、電車に乗り、学校に向かう。


 学校に着くと、校門の付近に人だかりが出来ていた。何かあったのかと思い、それに近づいて人の隙間から見えたものは、折れた桜の木であった。幹の半ばで折れた桜は、痛々しく地面に臥せっている。昨夜の台風に耐えきれなかったのだろう、コンクリートに押し付けられ、折れ曲がり歪む枝が切ない。絡み合う灰色の枝は老人の白髪のようにも見える。今は初冬なので花も蕾もつけておらず、それがまたこの木を一層惨めなものに至らしめていた。


 毎年の春に美しい花を咲かせて、新入生や進級した生徒を迎えてくれたこの桜は、もう来年以降見ることはできない。しかし、思えば私たち三年生の卒業は二月の末であり、どのみちこの桜を拝むことはなかっただろう。そう考えると、三年間この桜を楽しんだことによる、仄かな優越感を覚えてしまう。次の新入生は、この木を見ても、桜だとすら思わないだろう。


 そんなことを考えながら、折れた桜を見ていると、横たわる幹の穴から、一匹の毛虫が這い出てきた。不自然な程に白いその毛虫は、遠目では桜の木に巣食っていた蛆虫のように見え、また老人の髪に涌く虱のようにも思える。


 咄嗟に、その毛虫を踏み潰したい衝動に駈られたが、隣の航平や人だかりを思うと結局実行出来なかった。





 またある日、それは避妊薬の偽薬を飲み、時期の調節された、人工的とも言える生理が訪れた日の翌日のことである。喫茶店でアルバイトをしていると子連れのお客が来店した。


 五十過ぎの父親に連れられたその子供は、二十歳くらいに見える。どう見ても成人しているのに私が彼を子供だと断じたのは、それが知的障碍者であったからだ。両目は常に斜め上を凝視し、顎はだらしなく、右足の爪先は何故か横を向いている。凡そ健常の人が絶対にしないような歩き方で、父親に連れられながらそれは席に着いた。その子供は開いたままの口で、不定期に喉の奥から、う、う、と音を出している。


 私がその二人のオーダーを聞いたとき、座る子供が突如叫び、私の左手に唾が飛んだ。その父親は子供だけを見ており私の不快には気づいていない。やや潔癖症の気がある私は、手の甲に付着した水滴を必死に意識の外に追いやって、カウンターまで笑顔を保ったまま歩いた。


 キッチンの蛇口から静かに水を出し、石鹸で入念に手を洗う。音を立てないように配慮したのは、あの父親に私の不快感を見抜かれたくなかったからだ。


 執拗なまでに両手を洗う私を、店主は何も言わずに見つめてくる。

 落ち窪んだ眼孔に嵌め込まれたその瞳は、ガラス玉のように思えて、手を洗い終えた私は、それから逃げるように茶を運んだ。



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