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転性のノスタルジア  作者: 都森メメ
中学二年生
10/42

父親

 

 Amazonで下着とスカートを注文したところで、玄関からガチャリと鍵の開く音がした。

 その音にビックリしながらも、すぐに気持ちを落ち着かせる。慌てるのは下策だから。


 パソコンを閉じて玄関に向かうと、スーツを着た男が革靴を脱いでいるところだった。

 私の父親、桜田晴彦だった。


「おかえりなさい」

「……ただいま」


 セリフだけ見ればごく普通の家族のやり取りに見えるが、父は私と頑なに目を合わせようとしない。私もそれにならってネクタイの結び目のあたりに視線をあわせる。


「急でびっくりしました。教えてくれればいいのに」


 そういいながら父に近づき鞄を持とうと然り気無く手を差し出したがスルーされる。


「何かつくりましょうか?」

「……構わん」


 私の提案はことごとく拒否される。

 そのまま私の横を通りすぎて、父は書斎に入っていった。







 桜田晴彦は哀れな男である。

 仕事熱心でありながらも、きちんと家庭をかえりみる彼は立派なサラリーマンだった。

 そんな彼の妻が不貞を働いたのは、彼の一人娘が小学二年生の頃だった。

 会社の飲み会が終わったあとの繁華街で、彼は見知らぬ男とホテルから出てくる自分の妻を目撃してしまったのだ。


 当時小学生だった私が部屋に引きこもりながら、リビングから聞こえる金切り声の混じった会話から得られた情報はそんなところだった。夫婦喧嘩を止めるために子供らしい一芝居を打つことも考えたが、演技なんてやったことがないのであきらめた。


 両親が夜中に二人一緒に帰って来て、なぜかお互いに一切会話をしなかった、あの夜は鮮明に覚えている。

 その後、数日間つづくことになる夫婦喧嘩とその果ての離婚劇も、物心のつきまくっていた私はしっかりと覚えている。


 彼らが離婚届に判を押したとき、小学二年の私はどちらについていくのかと聞かれた。頬を綻ばせながら「当然私よね」と尋ねてくる母親に向かって、私は父親を選ぶと言った。

 綻んでいた表情を一瞬で引き戻し、冷たい目でこちらを睨む母の顔は忘れられない。




 そして現在のマンションに引っ越してきた。

 それから私は、シングルファザーとなってしまった父の負担を減らそうと、頑張って家事に取り組んだ。小学生の小さな体では不便なことも多々あったが、それでも私は頑張った。


「ありがとうね、美咲」


 そう優しく言ってくれる父の顔が見れて幸せだった。この哀れな男を、少しでも救ってあげたいと心の底から思った。

 その気持ちは今でも変わらない。



 けれど時が経つにつれ、私を見る父の表情がひきつっていることに気がついてしまったのだ。最初は気のせいかとも思ったが、すぐに見当はついた。

 私の顔が、成長するにつれてかつての母親に似てきたのだ。母親似の私を見ると、父は決まって苦しそうな顔をした。徐々に口数が少なくなる食卓で、ある日私はこんなことを言ってしまった。


「そんなに似ていますか?」と


 悲劇の主人公ぶるつもりは毛頭なく、平坦な声でそう聞いた私を見つめる父の顔には色んな感情が渦巻いていた。


 その日からだ、父と私がまともな会話を放棄したのは。お互い家に居ても何も話さず目も会わせない。晩御飯の時すら対面の席には座らず、斜め向かいの席につくようになった。


 そんな凍りついたような私達の生活に変化が訪れる。父の転勤が決まったのだ。また引っ越すことになるのかと身構えた私に父はこう言った。「単身赴任にする」と。


 冷静に考えると、小学生の娘を一人で暮らさせるなんてどうかしている。だが父も気づいていたのだろう、私が普通の子供じゃないことに。


 どこか子供っぽくない一人娘で、おまけに離婚した妻に似ている。そんな少女と二人で暮らすのは、父にとっても辛いことだったに違いない。


 桜田晴彦は哀れな男だ。

 妻には裏切られ、おまけに引き取った娘は母親似の変な子供。本当に、心底彼に同情する。彼ほど哀れな人間を、私は知らない。





 目の前の鍋にはポトフが煮えていた。料理中にぼうっと考え事をしてしまったらしい。味は大丈夫かと思い、お玉から小皿にスープを注いで味を見る。


「うん、大丈夫かな」


 半ば無意識にやっていた調理だが、そこまで味は悪くなかった。自分一人で食べるなら、味はあまり気にしないが今日は違う。

 十分に具材へ火が通ったところで一旦火を弱め、紙袋からフランスパンを取り出してそれを切り始める。

 まず最初にそれを半分になるようにパン包丁を差し込む。パンくずを撒き散らしながらガリガリと音を立てて分かたれたそれを、今度は斜めの楕円形に均等に切っていく。均等に切っていくと端の丸い部分が中途半端な大きさで残ってしまったので、それを摘まんで口に入れた。

 硬く、丸みを帯びたそれを舌で捕らえながら奥歯で噛み崩していく。自然な流線型を破壊する快楽を己の舌で味わいながら、切ったばかりのパンをオーブントースターに並べて温める。オーブンからは小麦の香ばしい匂いが漂ってきて食欲をそそる。きっとポトフに合うだろう。


 そう思いながらキッチンでお皿の準備をしていると、父が書斎から出てきた。


 なんて声をかければ一緒にご飯を食べてくれるだろうと考えているうちに、父はさっさと廊下に向かって歩いていく。慌ててそれを追いかけて呼び止める。


「あ、あの! ご飯は……」

「構わんと言っただろう」

「でも……」


 スーツを着たままの父はそのまま革靴を履きはじめる。玄関に座る父のスーツ背中の部分にはしわがよっていて、アイロンをかけないといけない。革靴だってよくみると少し汚れている。

 けれども父は私を無視して家を出ていこうとする。またしばらくは帰って来ないのだろう。


「次はいつ頃帰ってきますか?」


 そう聞いた私を無視して、靴を履き終わった父は鞄を持ちあげてドアの外に行ってしまった。ガチャンとドアが閉まり家の中が途端に静まりかえる。何の音もしない、まるで最初からそうであったかのような静かな空間。玄関で私は何もせずドアを見つめていた。



 静かな空間には、キッチンから鳴るオーブントースターのチンという音がよく響いた。





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