崩れた日
あけましておめでとうございます。
その日は、朝から冷たい雨が降っていて、薄暗かった。
まだ寝ているお母さんに多少イラッとしつつ、バイトに出かけた。
傘は高級品なので、私のようなお金のない一般人は、藁をまとめて作ったカッパのようなものを着て雨をしのいでいる。蓑?といったものだろうか。日本昔話の挿絵とかで見たようなやつ。藁は油分が多いので水をはじくとか何とか、前の私だったとき、何かで見た記憶がある。
靴が汚れないように、水たまりを避けつつ、まだ短い足でできるだけ急いで歩く。藁カッパは雨を完全に防げないので、ぐずぐずしていると濡れてしまう。
店の前に来て、あれ、と思った。
何か雰囲気が違っているように感じた。
とりあえず、店に顔を出しつつ、挨拶をする。
「おはようございまーす。今日も一日よろしくお願いしまーす。」
…返事がない。そして暗い。
いつもならおかみさんが「はいよっ!」って答えてくれるし、雨戸だって開けられている。
違和感の正体にも気付いた。
においがしない。おいしそうないつものにおいがしない。
今日は休みなんて聞いてない。
(何かあったのかも?!)
慌てて店の奥、おかみさんたちの居住スペースに向かう。
ドアを開けつつ、大きな声で呼びかける。
「おかみさん!大丈夫ですか?!」
…また返事がない。そしてこちらも何だか暗い。
本当に何かあったのかもしれない。
「入りますね!おかみさん、どこですか!」
声を掛けながら、中に入っていく。
と、おかみさんと旦那さんの部屋のドアが開いて、おかみさんが出てきた。
「おかみさん、大丈夫ですか?具合悪いんですか?旦那さんは?」
駆け寄って、矢継ぎ早に質問してしまった。
おかみさんはいつものようなピシッとした格好ではなかった。本当に具合が悪いのかもしれない。
心配になって俯いたおかみさんの顔を下から見上げると、おかみさんがすっと顔を逸らした。
そして、のどを痛めたような、ガラッとした声で言った。
「もう、仕事は終わりだから、明日からは来なくていいから。」
「え?」
「今月の分、今日までの分の給金はこれだよ。」
そういって、小さい布袋を差し出してきた。
私は袋を受け取ることができずに、ぼけっとしてしまった。
急すぎて、頭が真っ白になってしまっていたが、何とか口を動かして質問する。
「どうして、ですか?私、何か、やってしまったんですか?」
涙が出そうになるのを必死に堪えつつ、おかみさんを見つめる。
おかみさんは、くしゃっと音がしそうな感じに顔をゆがめると、苦しそうに言った。
「あんたのせいでは、ないんだよ。あんたは、何にも悪くないんだよ…。」
「じゃあ、何で…。」
「あんたのせいじゃない。あんたのせいじゃないのは分かってる。」
「おかみさん?」
様子がおかしいおかみさんの腕に、思わず手を伸ばした。
「触るんじゃない!!」
ばしっと、強い力でその手を払われた。
強い拒絶に、私はおかみさんを見たまま固まってしまった。
おかみさんは、すごく痛そうな顔をしながら私に言う。
「あんたのせいじゃないのは、分かってるんだ。分かってるんだけどね、無理なんだ。ごめんよ、無理なんだよ。」
半分泣いているような状態で、おかみさんは続ける。
「顔をね、見ていられないんだよ。あれとは違うって、分かってはいるんだけどね、許せないんだよ。同じ空間にいるのに耐えられないんだよ。だから…。」
言葉を切ったおかみさんが、今日初めて私を見た。
そして給金の入った布袋を差し出す。
私がそれに手を伸ばすと、おかみさんはぱっと手を離す。私に少しでも触れることのないようにしているかのようだった。
受け取り損ねて床に落ちた布袋を私が拾い上げたタイミングで、おかみさんが声を掛けてきた。
「それを持って、出て行っておくれ。もう、来なくていいからね。」
「はい…。」
「すまないね…。」
「いえ…。」
私は振り返らずに、数か月間お世話になった店を出た。
そして、私に出せる全速力で家に向かった。濡れるのも、水たまりも気にしていられなかった。
(あの女っ)
多少鈍くとも、原因は確実にアレだろうと分かるだろう。
何をしやがったかもうっすら予想はできるが、本人に問いただしてやりたい。
この怒りを、ぶつけてやりたい。
(やっと、やっとまともに生活できるようになっていたのに。あんなにお世話になったのに。それをアレが壊しやがった!)
私の生活の助けになってくれないことについては、もう諦めていた。
けれど、やっと落ち着いてきた私の生活を壊してくるようなことは、許せない。
家にたどり着き、怒りに任せてドアを開け、濡れたまま、泥だらけのままで寝室に入り、母親を叩き起こして叫ぶ。
「あんた、何したっ!!この、恥知らずがっ!!」
全速力で駆けてきたせいで息切れしてしまう。
そんな私をにらみつつ、気怠そうに頭をさすりながら母親が言う。
「寝起きに何なのよ、あんた。いったいわねぇ。」
「とぼけるな!食堂の、おかみさんたちに、だんなさんに、何した?!」
肩で息をしながら再度問いただすと、母親がにんまり笑って言った。
「やーねー、あんたが紹介してくれたんじゃない。優しい人だって。」
「は?」
「確かに優しい人だったわよー。困ってるって話したら助けてくれるっていうし。何気に上手いし。」
「は?」
「ちょおっと歳は離れてるけど、まあ許容範囲だし?」
「何言ってるの?」
「だからー、新しい彼としていいかなーって。あんたもいい人だって言ってたじゃない?」
私が、私が悪いの?
いや、おかしいよね?不倫は犯罪だよね?普通しないよね?
「だんなさんは、おかみさんの、だんなさんで、しょうが!!」
「えー、私の方がいいって本人が言ったんだしー。」
「そういう問題じゃない!」
倫理観とか欠片もないのかこの女!
というか旦那さん、おかみさんと仲良さそうだったのに…。
ショックを隠しつつ、元凶の女をにらんで怒りをぶつける。
「おかみさんが、ショック、受けてて、旦那さんも、店にいなかったし。私も、クビになったじゃない!」
「えーあんたクビにされたのー?小さい女ねー。」
「おかみさんが、悪いんじゃない!全部、あんたのせい、じゃない!」
いつもしっかりしていた、おかみさんの、あんな顔は初めて見た。見たくなかった。
それなのに、そんな顔をさせた張本人が、欠片も悪いとおもっていない様子なことに本当に腹が立つ。
自分をにらみつけている私を、小首をかしげて眺めつつ、母親が聞いてくる。
「あんたは、何に怒っているの?」
「は?」
「私があんたのおかみさんの旦那さんと付き合っているから?
あんたのおかみさんを傷つけた?から?
あんたがクビになった原因になったっぽいから?」
「それは…。」
とっさに言葉が出てこなかった。
はじめは、おかみさんの様子を見て、おかみさんを傷つけた、おかみさんと旦那さんの中を壊した母親に対して怒っていた。
けど今は、自分が仕事を失ってしまったこと、やっと落ち着いた生活が壊れてしまったことに対する怒りが半分以上ある気がする。
結局、私も自分がかわいいだけだったのだろうか?
「ま、どうでもいいけどねー。とりあえず、昨日の夜頑張ったから疲れてるのー。おやすみー。」
黙り込んでいる私にひらひら手を振ると、母親は再び布団に潜り込んでしまった。
追及する気が削がれてしまい、私は黙って部屋を出た。
母親は昨日の夜遅くに帰ってきたようだったが、何をしていたのかは聞きたくもなかった。
何だか、どっと疲れた。
母親がどうしようもない存在だということは変わらない。
でも、私も結局、自分のことしか考えていないのかもしれない。
生活していくため、余裕がないから、と言い訳できるかもしれないが、自分のことは好きになれそうもないな、と思う。
「疲れたな…。」
椅子に座り、テーブルに突っ伏した状態でつぶやく。
命の危機があるとか、誰かに暴力を振るわれるとか、奴隷にされるとか、食べ物が少しもないとか、もっと苛酷な状況はいっぱいあるだろうし、それに比べれば今の生活は全然恵まれているのかもしれない。
それでも。前世の記憶があるせいか、今が十分苛酷に感じてしまう。
がんばって、やっと落ち着いた生活が崩れてしまったことで余計にそう感じる。
そもそも、私が母親に食堂の話をしなければ、今回のことは起こらなかったのかもしれない。
実行犯が母親だとしても、きっかけは、元凶は、私だった。
「ごめんなさい…。」
私はしばらく、身動きできなかった。