夜の電車にて
夜の電車の中、向かい側の席の窓に、スーツ姿の俺が映っていた。人がいなくなり、電車が鳴らすガタンゴトンという音ばかりが酷く際立つ静かな車内、死んだ魚のような眼をしたその男をなんとなく見つめ続ける。
同じような眼をした人達を俺はこの電車の中で何人も見た。限界まで疲れ切って、この先には夢も希望も無いといったような表情をした大人達だ。あの人達はきっと家に帰っても自分のために特別な何かをするわけではなく、明日の仕事のためのルーチンワークをこなすんだろう。それを思うと、胸の真ん中を木枯らしが通り抜けていくような感じがした。
「この時間まで残業ですか?」
急な声掛けに驚いたせいで、目に見えて体がびくついてしまった。声がした方を向くと、二つ右隣に座った二十代半ばくらいの女性が俺を見つめていた。スーツの上からベージュのトレンチコートを着ている。本当に驚いた。この車両からはもう俺以外の乗客は降りたと思っていたのだ。
「あ、いや、俺は大学生です」
動揺しながらも勘違いは訂正しておく。すると彼女は眼を微かに見開いた。
「え?そうなんですか?すみません。服装や雰囲気が会社帰りの人みたいでしたので」
「はは、確かにそれっぽいですよね。俺けっこう間違えられるんですよ」
とりあえず無難な言葉を返してみたが、なんだか暗めの声になってしまった。そもそも今の俺は誰かと会話する気分ではなかったのだ。
「大学生でその格好ってことは、もしかして就職活動中かな?」
彼女が今度は少し言葉を崩して話し掛けてきた。服装や雰囲気から察するに彼女は社会人なのだろう。この時間の電車にいるということは、それこそ先ほど彼女が言った残業帰りの会社員なのかもしれない。同じ境遇らしい人間を見つけてシンパシーを覚えていたのだとしたら申し訳なかった。
「はい。就活の帰りです」
「わぁー、懐かしいなぁ。そんなに時間は経ってないはずなのに、すごく昔のことみたいに思えるよ」
彼女はしみじみとそう言って、さっきの俺がしていたように、向かい側の窓に映る自分を見つめ始めた。
それからしばらくの間、俺と彼女は無言だった。車内に俺と彼女以外の客はいない。これほど乗客が少ないのは珍しい。終点に近いとは言え、普段なら彼女のような残業帰りのサラリーマンがある程度残っているはずだ。それが今日は目が届く範囲に俺と彼女しかいない。なんだか変に意識してしまう。
横目で彼女の顔を窺ってみた。彼女は依然窓に映る自分を見つめている。よく見ると目の下に濃い隈ができていた。彼女もまた疲れ切っているように見えた。
「ねぇ」
前を向いたままの彼女が急に声を発した。「はい?なんですか?」
「就職はもう決まったの?」
嫌な動悸が鳴った。それは最近色々な人からよく訊かれることだった。俺はいつも同じ返事しかできない。同じ返事しか言えない自分が情けなくて仕方なかった。
「……まだ、決まってません」
「内定は一つでももらった?」
「……もらってません」
途端、何かに押し潰されるような感覚に陥った。頭が自然に前へ傾いて、自分の体しか見えない。
「そっか。苦労してるんだね」
彼女の声だけが頭に響く。彼女は俺を視て話しているのか、それとも窓を視て話しているのか。何故か俺は頭を上げられなかった。
「頑張ってね。応援してるよ」
その言葉を聞いた瞬間、さっきの動悸よりも大きな動悸が鳴った。さっきの動悸とは別物の動悸だった。
「……あの!」
気付けば俺は、頭を傾けたそのままの姿勢で、彼女に話し掛けていた。無意識に声が大きくなってしまい、ほとんど叫び声だった。
「な、何かな?」
彼女の声には驚きが多分に含まれていた。近くに座る男が急に声を上げたのだから当然だろう。完全に不審者の動きをしてしまった。
「えっと……あのですね……」
俺は言葉に詰まった。話題が決まっていた訳ではないのだ。俺はただ、彼女に突き放されたような気持ちになってしまって、彼女との繋がりがそこで切れてしまうのを感じて、どうしようもなく惜しくなっただけだった。それでも俺の口は、俺自身の戸惑いとは関係なく、勝手に動いた。
「お姉さんは今、楽しいですか?」
いまいち要領を得ない問い掛けが出てきた。
「楽しいか、って、今の会話が?それとも人生が、ってこと?……やだ、私、そんなに暗い顔してたかな?」
彼女も俺から急に妙な問い掛けをされて、戸惑っているように聞こえた。俺は慌てて、今になって自分の問いの意味を考えながら、彼女に説明をした。
「いや、暗い顔してたからどうって訳じゃなくて……俺、就活が上手くいかなかったので落ち込んでて、そんな時に、電車で疲れきった顔してる社会人の人達を見ていたら、より一層空しい気持ちになってしまって……」
「……うん」
俺のたどたどしい語りにも、彼女はしっかりと耳を傾けてくれているようだった。それが嬉しくて、口が自然に言葉を紡ぐ。
「この人達は毎日身を削って生きていて、何を支えにしているんだろう、って思ったんです。それで、社会人のお姉さんに訊いてみたくって……」
「……あー……うーん……」
彼女は考え込むような声を発した後、わずかな沈黙を挟んで、応えた。
「社会人になってからのことを、今の時点で不安がっても辛いだけだし、そういうのは働き出してから見つけるものなのかもしれないけどねぇ」
それはもっともな言葉だった。自分の甘えを見抜かされたような気分だった。それ故に、また突き放されたような気持ちになって、そんな自分が嫌になった。
その時、電車の扉が開いた。それと同時に彼女が席を立った。そのまま電車から出て行ってしまうのかと思った俺は無理矢理顔を起こしたが、彼女は俺の向かい側の座席に腰掛けた。窓に映る俺の像と彼女が重なった。
「なんて、そういうのだけで終わるのも寂しいし、もうちょっと話そうか。私が偉そうに言えたことじゃないし」
彼女はそう言って、俺の瞳を真っすぐ見つめた。俺の瞳もまた、彼女の瞳を見つめていた。
「私ね、今日、会社を辞めてきたの」
「え?そうなんですか?」
俺はあまりの驚きに素っ頓狂な声を出してしまった。
「あっ、やっぱり気付いてなかった。そりゃそうだよね。最初、そこまで見抜かれたのかと思って、びっくりしちゃった」
彼女は目を細めて俺を視ている。全く気付かなかった。見た目は他の社会人と大差ないのだから気付くはずもない。俺は彼女のことを何も知らないのだ。
「色々あって辞めちゃって。だから、私はもう社会人じゃないの。いや、会社を辞めてもこの歳だと社会人なのかな?まぁ、とにかく」
彼女は一旦そこで言葉を区切って、一瞬思い返すように遠くを見ていた瞳を、改めて俺へ向けて、話し始めた。
「君と同じように、私もすごく落ち込んでて、自分の支え、みたいなものを見失っちゃった状態でこの電車に乗ってたの。これからの自分がどうなるか不安で、でも何もする気が起きなくて、ただボーっと周りのものを眺めてた」
彼女の言葉は自分自身に言い聞かせるようでいて、なおかつ俺という対象から目を離すことなく、紡がれていた。
「見覚えのある人が何人かいるなぁ、ってはじめに思ったの。毎日同じ時間帯の電車に乗ってたから、無意識に顔を覚えていたみたい。それで、この人達は明日も働きに出るのに、私は耐え切れずにドロップアウトして……この人達と私は何が違うんだろう、って思ったんだ」
「何が違うか……ですか」
俺は頭を前へ傾けて考えたが、いくら言葉を反芻しても、何も見えてこなかった。
「俺には、分からないです。俺はあの人達のことを、何も知らないから」
「うん。私もあの人達のことは何も知らない。いつも疲れた顔してるなぁ、ってくらいにしか思わなかった。でもね、今日はね」
彼女はそこで顔をほころばせた。
「笑ってる顔も見たんだ」
「笑ってる顔?」
彼女は俺の一つ右隣の席を指差した。
「そこに座ってた男の人、ケータイの画面見ながら笑ってたんだ。こっそり覗いてみたら、奥さんと連絡取り合ってた。旦那さんの帰りを待ってたのかもしれない。男の人、嬉しそうだったよ。それを見て、私とこの人達の違いはこれだ、って思ったんだ」
俺は彼女が何を言いたいのか分からなかった。俺が黙っていると、彼女は「いや、恋人とか結婚相手とか、それだけじゃなくてね」と慌てて補足して、話を続けた。
「私、それを見て気付いたんだ。楽しそうにしている人だって、いつも楽しい訳じゃない。同じように、苦しそうにしてる人だって、いつも苦しい訳じゃない。楽しくなれる何か、笑顔になれる何かを持ってるんだって」
途端、視界が明瞭になった気がした。彼女の顔がよく視える。
「人生って、常に楽しくなくちゃいけない訳じゃないんだよ、きっと。一日に、ほんの少しだけ笑顔になれる時があれば、それで良いんだよ。私もこれから、そういうものを見つけたいな」
そう言うと彼女はゆっくりと立ち上がった。車内アナウンスが、まもなく電車が停車することを知らせている。停車駅は俺が降りる駅の一つ手前だった。
「今日、君と話せて、私は楽しかったよ。君も、笑顔になれる何かを見つけてね」
電車が停車して、扉が開く。彼女は軽くジャンプして、駅のホームに降り立った。
扉が閉まる直前に、俺は跳ぶように立ち上がって、今日一番の大声で彼女に向かって叫んだ。
「俺も楽しかったです!」
お礼も言おうと思ったが、電車の扉に付いた窓から彼女の微笑みが視えたので、止めた。頭を下げなくて本当に良かったと思った。
電車が動き出すと、窓の外が真っ暗になり、俺の顔が映し出された。彼女との別れ際に、今と同じ顔を彼女に見せることができていたら良いと思う。
自分の最寄り駅に電車が停まった。扉が開くと同時に、一歩を踏み出す。不思議と体が軽かった。
俺は歩き続ける。