●第百四十四話 and more...
【61】
広い広い草原を、一人の男の子が走り回っていた。
空は青く、雲は白く、大地は緑に覆われていて――尊いまでに美しい。
いうなればそこは、どこまでも果てない理想郷。
この世には絶対に存在しない世界を、夜空色の髪の男の子が、楽しそうに走り回っていた。
オレは彼の後を歩く。
彼が勝手にどこかへ行ってしまわないように。
同い年のくせに、保護者目線で、無邪気に駆ける男の子を追っていた。
男の子の目は、輝いていた。
見るものすべてに興味を持って、動くものすべてを目に焼き付けようとしている。
…………いいや。
目に、記憶に焼き付けていたのだ。
だって男の子は、現実世界では目が見えなかったから。
だからこの仮想世界で見えるものが、男の子が見ることのできるすべてだった。
低空を舞うモンシロチョウも。
大空を飛ぶ雁の群れも。
地を這うミミズも。
どれもこれも、データの塊でしかない。
決められた行動を取るデータでしかないのに、男の子は、興味津々に見つめていた。
それが、オレには不思議で不思議でしょうがなかった。
それとなく教えたことがある。
全部が全部、データでしかない。
この世界は偽りでしかないのに、どうしてお前はそんなに楽しそうなんだ、と。
すると男の子は、さらりとこう答えたのだ。
「だって、ぼくにはこの世界しか『見えるもの』がないんだもの。だから、本物とか偽物とか関係ないんだよ。ぼくにとってはこの世界が本物なんだから」
なるほど、とオレは笑った。
男の子が満足そうに微笑むから、オレは少し意地悪がしたくなった。
「……じゃあさ、もしオレが現実世界と仮想世界じゃ外見が違うって言ったらどう思う?」
「え?」
「例えばの話だよ。仮想世界じゃお前と同じ九歳の外見だけど、現実世界じゃ十五歳かもしれないぞ」
「んー、よくわかんないけど、それがウソだってのはわかるよ」
しかしオレの意地悪は通用せず、男の子はそんなことを言った。
「げ、なんで嘘だってわかんだよ」
「だってキミは、ぼくにウソをついたことがないんだもの。現実でも仮想でもね」
「どうだかね。何個かは嘘かもよ?」
「それは『やさしいウソ』ってやつでしょ。そういうのは数えてないの」
「…………あー、お前には敵わねぇな」
クソッタレと毒を吐くと、夜空色の髪の男の子はくすくすと肩を揺らした。
そんな彼の横を、トンボが通り過ぎる。
流れるように目で追った男の子は、その先に広がる大地を見つめた。
「ねえ優樹君。現実世界にこういうキレイな風景がないってホント?」
「少なくともオレは知らないな。地球中探し回れば、どこかに残っているかもしんねえけどさ」
「そっか」
瞳に宿る、泡雪のような儚い想い。
この仮想世界で彼と会うたび、オレはこの瞳と出会ってきた。
事情があって現実世界を視覚することのできない、盲目の男の子が抱く何かと。
「なあさ、お前ってやっぱり現実世界を見たいとか思うのか?」
「ぼくは目が見えないから、こうして仮想世界だけでも見れて、幸せだよ――っていうのは建て前」
「ほう?」
「見れるなら見てみたいよ、優樹君と同じ景色。ビルとかクルマとかジハンキも見たい。ヒトゴミってやつも見たいし、あとゴハンも目で見ながら食べたいかな。オコメって白いんでしょ?」
「………………」
「……ってあ、ごめんね優樹君。返事しづらいよね」
男の子は気遣うように笑顔を作った。オレは自分の心の弱さを呪いながら、パンと頬を叩く。
「こっちこそ悪い。変なこと聞いたわ」
「平気だよ。でも本当に、何かのひょうしで目が見えるようになるといいね」
「だな。そうだ、奇跡でも起こるよう毎日お参りしてやるよ」
「神様なんて信じてないんじゃないの?」
「頼る時は頼るべ」
調子いいなあ、と男の子はケラケラ笑った。
コイツはよく笑う。明るく前向きで楽観的で、そして強かだ。
そんな笑顔は暖かい。
仮想世界でも現実世界でも変わりない、陽だまりのような笑みが好きだから、オレは調子いいと承知の上でも、奇跡が起きるよう神様にお願いするのだ。
彼の目が光を取り戻しますように。
そんな彼と一緒に、世界中を旅して回れますように。




