●第百三十九話 天皇波瑠の信じていたい人間愛
【49 新宿区~(オフィス街)】
現在時刻
2132年4月26日土曜日 午前5時21分
「………………殺す、か」
背中に道路の冷たい感触があった。
五十嵐龍神は数十手に渡る格闘の末に、『彼』によって地面に伏せられていた。
しかし、全身を使って器用に龍神を抑えつける『彼』の身体状況を見れば、もし他の相手であれば龍神に分があったとわかるだろう。
右腕喪失。左眼球破壊。あばら骨の露出をはじめ全身の皮膚は何か所も破け、筋肉や骨が空気に触れている。
なぜこの状態で生きているのか――なぜ肉体を動かし、意識を保てているのか。
龍神の中で一つの結論が出ている。
『彼』はおそらく、痛覚が消えているのだ。完全に痛みを感じないから、肉体が無茶苦茶な状態で挙動をしていること自体に気付いていない。
「あそこまで威勢よく飛び出してきたわりに、オレはまだ生きている。やはりテメェは甘い。殺すなら素早く確実に念入りに殺すべきだ」
龍神の首に左手を当てる『彼』の言葉は、もはや妄言のようだった。
「……ぐ、ぁ……」
片手とは思えない握力が龍神の首を絞める。骨が軋み、気道がつまり、脳が焼けるように痛い。涙も出ない。必死に――みっともないくらい必死にその手を解こうとするが、『彼』の押さえつける力が強すぎる。
「息の根を止めた後に心臓を抉り、腱を断った上で動脈を引き裂く。それくらいの残忍さがあってもいいだろう。ああ、スマートな殺し屋なら『毒入りの針を首に刺すだけ』とかできるんだろうが、オレは生憎技術がない」
「……ぅぇあ、かぁ……」
「首つり自殺をする者はあまりの苦しみに己の首元を掻くため、遺体の首に掻き傷ができるというが……他者に首を絞められても同様の行動をとるのか」
「……ぁ。こ、の……」
「唾による目潰しなんざさせないよ。こっちだっていい気分じゃないんだから、早く息の根を止めてくれ」
「……この、え……」
酸素が消える。血の巡りが止まる。視界が白く染まっていく。自分という意識が霞んでいくのがわかる。どれだけ生を渇望しようとも『彼』の冷酷な眼差しを見ればわかる。五十嵐龍神はここで終わる。何の成果も残せず、行橋このえの居場所を守れず――――
「……まさか、テメェに殺されるとは、な。天堂、佑真……」
「……。……。……。
…………てんどう、ゆうま?」
――――最後の言葉を、せめてもの格好をつけて言い捨てた途端、異変は起こった。
首を絞める拘束が、突然緩んだのだ。
『彼』の瞳が異物でも見るように左手を見下ろしていたが、龍神は自分の身を最優先して拘束を外すと、全力で後方へ飛びのいた。
「……なんだよおい。テメェも結局殺しきれてねェじゃねーか……」
大きく息を吸い、心臓の動悸やパニックに陥りかけた脳を落ち着けていく。その間も『彼』を視界にとらえ続けていた。『彼』の突拍子もない仕草を。
まず右腕がないことを確かめるように肩口に手を添え、恐る恐る露出したあばら骨を見下ろして、太ももの露出した筋肉に視線を落とす。そんな行為の最中でも流れ続ける大量の血が赤い水たまりを作っていて、『彼』はその中央にぱしゃりと崩れ落ちた。
「………………オレは今、何を、していた」
『彼』が呟く。
「もしかして、オレは、人を……子供を殺そうとしていたのか……?」
あるいは、殺そうとしていた対象に問いかける。
少し前までの言動と真逆を行くその思考は、まるで二重人格のようで。
「……。……」
「――おい、なんなんだよ。急に冷静になったと思えば、動きを止めやがって……!?」
龍神が呼びかけても微動だにせず、『彼』は、広がり続ける赤の中央に座り尽くす。
「…………。…………」
唯々、静寂の中で。
「………………。………………」
右の眼は虚ろを眺め。
「……………………。……………………」
【50 新宿区~(オフィス街)】
現在時刻
2132年4月26日土曜日 午前5時23分
『ここにいる子達はね、ちょっとトクベツな動物さんたちなんだ。「強化兵創造計画・能力付与実験」のじっけんで――「動物に超能力をあたえることはできるのか?」っていうカイゾウをされた子達なの』
――――もしも、その言葉が本当ならば。
『わたしの「原典」は《絶対親和》で……生まれた時からずっと、動物さんの気持ちがわかる能力者だったんだ』
――――もしも、その言葉が真実ならば。
「……私がどうするべきか、なんて。最初から悩む必要なんてないよね」
蒼いポニーテールがふわりとなびく。
周囲にいるのは改造動物たち。そして巨大な針を手にした行橋このえ。
いわゆる四面楚歌。絶体絶命のピンチでありながら――波瑠の顔には、微笑みが訪れていた。
「波瑠お姉さん、随分とヨユウみたいだね?」
「余裕ってわけじゃないよ。全員で一斉に襲い掛かられたら勝てないだろうし、私にはあなた達を攻撃できない理由ができてしまった。正直なところ、妹とそう歳の変わらない女の子が、こんな形で私を無力化してくるなんてビックリだよ」
「えっと、波瑠お姉さんの妹って桜さんだっけ。二才もちがうんだけどなー」
「たった二歳だよ」
桜よりたった二年だけ生まれるのが遅かった女の子が、動物どころか自らを人質に仕立て上げることで波瑠を無力化した。そのくせ動物たちが波瑠を、人間を殺す正当な怨讐があることまで理由づけた。
波瑠は発言通りビックリしたし――――だからこそ。
「……桜と二歳しか違わない子が間違った道を進んでいると知って、お姉ちゃんが無視できるはずなかったんだよね」
「波瑠お姉さん?」
「なんでもないよ、このえちゃん」
「…………ふうん。なんかたくらんでそうだけど、まいっか」
このえは眉をひそめたが、そう言うと針を交差するように構えて腰を低くした。
「ムダバナシがすぎちゃったね。もうすぐ時間になっちゃうし、そろそろコロすね」
あくまで笑みを絶やさずにこのえがそう言うと、どこからともなく白い霧が立ち込めてきた。鴉に交じって何羽か飛んでいた鳩たちによるものらしい。上空から降り注ぐ冷気が波瑠の視界を不明瞭に染め上げる。
エネルギー変換で消そうと思えば消せる程度の霧。
波瑠はわざと、それらを放置した。
「……?」
このえは波瑠に先手を打たせるつもりなのだろう。何もしない彼女に小首を傾げた傍らより、二匹の虎が牙をむいた。口元より放射される雷撃を――今度は対処。
電気エネルギーを電気エネルギーで迎え撃ち、弾いて軌道を逸らす。
地面を雷撃が殴りつけた頃に、象からの火炎放射が彼女を囲った。前後左右を覆う炎の籠の中で、唯一残された頭上という逃げ場を断つようにこのえが針を構えて飛び込み、周囲の動物たちが一斉に続いた。
波瑠の『全員で一斉に襲い掛かられたら』なんて発言をわざわざ拾い、本当に実行してきたのだ。その言葉が真実だとこのえは理解していたから。
全方位を覆ってしまえば、波瑠は彼らの攻撃に対する逃げ場を失う。
今の波瑠はこのえによって、動物を傷つけられないよう思考を誘導された。それも攻撃はおろか、防御のための超能力行使だって気安く行えない方向性で。
だから波瑠は、全員で一斉に襲い掛かられたら勝てないと言った――――
「《氷結地獄》」
あらゆる熱源を封殺する超能力が、世界を一瞬で凍り付かせる。
――――行橋このえの、致命的な見落としを突くために。
「な――っ!?」
波瑠を取り囲んでいた炎が一瞬で沈下した――どころか、視界を埋め尽くすほどの霧が一瞬で消え去った。
同時に起こったのは、猛烈な速度での凍結。
今度は波瑠を中心として、周囲が一斉に凍り付いたのだ。空気中の水蒸気が一瞬で凍り、このえと共に飛び込んだ動物たちは空中で氷塊に絡めとられる。宙で静止する動物たちだが、一の例外もなしに気道が確保されていた。
「傷つけずに拘束するのはね、私の得意技なんだよ」
氷で足止めすることで、勝利も敗北もせずただ逃げ切る。誰かを傷つけない戦い方はむしろ波瑠本来の戦い方であり――だからこそ、朝比奈との戦いでは佑真に無茶をさせたのだ。今はその『誰か』が人間から動物に切り替わっただけ。
勝てないとは言ったが、負けないとも言ってない。
なまじ人間の心が読めるこのえだからこそ、この戯れ言が効力を発揮する。
「っっっ!」
何故か一人だけ氷漬けにされなかったこのえは、驚愕を呑み込んで刃を振るう。
二本の針が、猛獣の牙の如き鋭利さで肉体を貫いた。
「…………え?」
このえの方が、思わず声を上げていた。
針が突き刺さったのだ――波瑠の両肩に。
波瑠はその上で、このえの体を抱き留めた。
長い針が背中を貫通したにもかかわらず、波瑠はこのえを抱きしめた。
「…………もう、戦わなくていいよ、このえちゃん」
このえの耳元で囁いた波瑠。
頭と背中を優しい手が撫でおろし、小さな体をギュウと抱き寄せる。
「……な、んで? どうして? どうしてわたしをコウゲキしなかったの……?」
「わかってるくせに……私はあなたを攻撃しない。あなた達を傷つけない。そう誘導したのは、このえちゃんの方じゃない」
「……でも、そうしたら、波瑠お姉さんの方が、死んじゃうかもしれないんだよ……?」
「でも私は生きている……確かに、無事じゃ済まない傷かも、しれないけどさ……どうして私は、殺されなかったと思う……?」
このえの耳元に、波瑠の心臓の音がした。
肩を射抜かれた衝撃のせいだろう、ドクンドクンと加速していく心音が騒がしい。
「このえちゃんが、最後の最後に、私を否定できなかったから、だよ……あなたは動物の心が読める……人間が『同じ動物』なら、このえちゃんには、きっと、私の気持ちだって届いていた! あなたと戦いたくないっていう気持ちが、あなたを助けたいっていう気持ちが届いていたから、あなたは私を殺さないでくれたんでしょ……?」
抱きしめる力が強くなる。このえの手はとっくのとうに、針から降りていた。
「…………ちがう。ちがうよ、お姉さん」
だれんと垂れた少女のちっちゃな拳に、グッと力がこもる。
「……本当は、最初っから聞こえてたんだよ……お姉さんがわたしとは戦いたくないって、心の中で、ずっとずっと、何度も何度も、さけんでいた声が」
じわり、と蒼玉のような瞳が潤んでいた。波瑠の手が、溢れんばかりの慈しみをもって栗色の髪を撫でおろす。
「……最初から、ぜんぶ聞こえてたんだよ! お姉さんは、わたし達とコロしあうのをイヤがってた! つらくて、さびしくて、かなしそうな声が聞こえてたのにわたしは、お姉さんをコロさないとダメだからって、耳ふさいでガマンしてコロそうとガンバったんだ!」
「……」
「わたしだって知ってるもん! 人間が、みんながみんな悪い人じゃないってことくらい知ってるもんっ! りゅーじんがいた! 結城ちゃんも、朝比奈くんも、わたしにやさしくしてくれた! 波瑠お姉さんの心の色は、そういう人たちと同じだったから! だからわたしだって、本当はコロしたくなかったのに……っ!」
だけど、と。
まだ十一年しか生きていない女の子は、初めて胸の内を明かした。
「金城様に『コロせ』って言われたから、どうしたってお姉さんをコロすしかなくて……! でないと動物たちがサッショブンされちゃうから、どうしようもなくてぇ……!」
「だから、私から悪意を引き出そうとしたんだよね。私も今までこのえちゃんが殺してきた人たちと同じで、本当は悪い人なんだって、覚悟を決めたくて」
子供のように泣きじゃくりながら、このえはコクリと頷いた。
「それで私が動物たちを傷つけるか試した。心の中に悪意を見つければ、殺す理由として、自分に言い訳ができるから」
きっと、今まで暗殺してきた間もずっと、言い訳を繰り返してきたのだろう。
この人は悪人だから、殺しても大丈夫だと。
けれど波瑠は動物を傷つけなかった。このえ達の攻撃に対して常に『最小限の被害』を選んでいた彼女の心を読み続けたこのえの限界が、波瑠の体を貫く針だったのだ。
本当は脳天を突くはずだったのに、どうしてか肩に刺さっているけれど。
「……このえちゃん。あなたはね、昔の私に似ているの」
「え……」
「動物の声を聞いて、苦しんで。そんな動物を守る為に、一人で頑張ろうとしちゃうところが」
波瑠は自分の傷をお構いなしに、このえの頭をくしゃくしゃと撫でた。柔らかな頬に手を添えて、泣きじゃくる瞳を真っ直ぐに見つめた。
――【ウラヌス】のみんなを守る為に、一人で逃げ出してから。
《神上の光》を狙う世界中の人達の悪意を、真正面から眺めた。
妹の『原典』を利用しようとした悪とだって、対峙した。
私だって、人間なんてろくでもないと思ったことはある。
みんながみんな、争わずに仲良く生きれればいいのになって。
この世界には悪意が存在する。
だけどその分だけ――悪意を塗りつぶすほどたくさんの善意に、満ち溢れている。
私はそう信じている。
このえちゃんに、そのことを教えなきゃいけない。
私たちが生きる世界の素晴らしい部分を、ちゃんと見てもらわなきゃいけない。
人間を嫌いになったまま、生き続けてほしくないんだよ。
だから――――
「このえちゃん、もう一人で頑張ろうとしないで。
もしも世界中で、誰もあなたの味方になってくれなかったとしても――私は。
私は絶対に、あなたの手を放さないから」
波瑠はそう微笑んだ。
彼女の腕の中で、十一年間我慢し続けた涙がすべてあふれ出す。
ありとあらゆる悪意を聞き続けた女の子が、ずっと堪えていた涙はなかなか止まらなくて。
そして。
【51 新宿区~(オフィス街)】
現在時刻
2132年4月26日土曜日 午前5時30分
制限時間だ、と。
少女達の前に現れた白い髪の大男は、告げた。




