●第百三十七話 行橋このえの相容れない動物愛
【44 新宿区~(オフィス街)】
現在時刻
2132年4月26日土曜日 午前5時07分
波瑠は子供が好きだ。
より正確に言うなら、可愛い子供が好きだ。
桜という無邪気な妹が傍にいたこと。何より大人が持つ無数の悪意と接してきたこと。
波瑠自身としては、後者が無意識に強く働いて子供好きになったんだと思っている。
子供には悪意がないから接していて安心できる、みたいな打算が働いているのだと。
だけどまあ、そんな原因をとやかく考える必要はない。
とにかく、波瑠は子供が好きなのだ。相手が子供であるだけで強く出れないし、手を上げるなんてもってのほか。彼らには愛情を注ぐのが当たり前で、つい甘い態度をとってしまう。
だから。
「わたしの名前は行橋このえ。よろしくね、波瑠お姉さん」
波瑠にとって彼女みたいな敵は、一番やりにくい。
狼の上でにっこりと微笑むこのえ。波瑠の手には汗がにじんでいた。
「……あなた、本気で言っているの? 本気で私を殺すつもりなの!?」
「うん、本気だけど……どうかした?」
「どうかした、じゃないよ! あなたまだ子供じゃない。なのに人を殺すなんて、そんな」
「今まで百人くらいコロしてきたから、だいじょうぶだよ?」
このえは笑顔で返してきた。駄目だ。きっと彼女は、子供が『暗殺者』として使われている歪さを理解していない。受け入れた上で目の前にいる。
波瑠はその歪みを無視できるような姉じゃなかった。
「大丈夫、じゃないでしょ! おかしいよ、そんなの絶対に間違ってる!」
「なんで? 何がまちがってるの? わたしがまだ十一才だから?」
「ううん、子供かどうかが重要じゃないの! 人間として、人間を殺すなんて間違ってるって言ってるんだよ!」
「……」
このえは笑顔から一転、冷めた顔で波瑠を睨み返した。
「ふうん。お姉さんもそういうこと言うんだ。お姉さんならわたしの気持ち、わかってくれると思ってたんだけどな」
「え?」
「まーいいや。あなた達にとっておかしいのはわたしだもんね、知ってるよ。だからわたしはチュウチョなくお姉さんをコロせる。ニンゲンをコロすことができるんだから!」
周囲のビルを一斉に蹴る音が鳴った。このえの声を合図として、ビルの屋上に潜んでいた動物たちが一斉に飛びかかってきたのだ。一瞬見渡すだけで確認できたのは、ゾウ、サイ、イノシシ、オオカミ、ライオン、ゴリラ、ヒョウ、オットセイやシロクマまで。
上空は鳥が囲んでいて逃げ場はない。波瑠は一気に急降下して難を逃れるも、頭上で互いに衝突し合う重い音、そして何か所かでの血しぶきが波瑠に降り注ぐ。反射的に振り返った波瑠の視界で、五十頭以上の動物がそのまま自由落下を開始する。
「……!?」
「オフィス街って言うんだっけ、この辺って。何十階もあるビルの屋上から飛び降りたらぺしゃんこになっちゃうねー」
「ふざけ……!」
言葉を発する余裕はなかった。波瑠は自分や動物たちの落下エネルギーを利用して上昇気流を辺り一帯に生み出し、落下の衝撃を全力で和らげる。大きな空気のクッションがなんとか死を免れる程度の威力まで削いだが、
「なんて、お姉さんならみんなを助けてくれるって信じてたよ」
波瑠の真横で、このえの声がした。
彼女を乗せた狼が、上昇気流を利用してここまで跳んできていたのだ。
狼が何本もの牙を尖らせた大口を剥く。波瑠はとっさに氷の鎧で身体を守り、大きく回旋した。狼を振り払うと、休む間もなく殺気が背後に出現する。直感だけで頭を横にずらした次の瞬間――ガウン! と。
上空に待機していた鴉の群衆から、何匹かが弾丸のような速度で突っ込んできた。
目視できない速度による衝撃波が、波瑠の頬を撫でた。何匹も何匹も直下する鴉の弾丸の豪雨を前に、波瑠は必死に空中を逃げ回る。
すると、下の方からカァー、と変な鳴き声が聞こえた。
まるで悲鳴のような鳴き声が――。
「お姉さんがよければよけるほど鴉さんはつっこんでくるけど、みんながみんなキチンと止まれないから地面にぶつかっちゃう子もいるんだよ」
このえの手の中に、嘴の折れた一羽が抱かれていた。
「っ、もう!」
波瑠は動きを止めると、両腕に水流を生み出した。大きな水の渦で鴉の弾丸を受け止め、その激流を以て勢いを削ぐことで、彼らを助ける一手に変える。
「ふうん、まだ助けるんだ。じゃ、次はこうかな」
このえは少しびっくりした風に瞬きした後、小さな指を鳴らした。
先ほど不時着した象達が鼻を波瑠に向けていた。今も尚渦を維持し続ける波瑠の隙だらけの背中に、象が一斉に火炎放射を放った――!?
「な、にそれ!?」
波瑠は熱源を感知するなり、発火を抑え込む《氷結地獄》の演算を並行展開。能力演算が同時に進み、象の撃つ火炎放射を抑え込む。
彼女の意識が二方向に削がれていた間に、虎やゴリラが器用にビル壁を駆け上がっていた。
虎が稲妻を纏い、ゴリラが両腕を銀色に輝かせる。
「《雷撃能力》と《鋼鉄装甲》……!」
波瑠は水流の渦を諦め、それらを水の鞭に変形させると飛びかかる虎やゴリラを絡めとった――冷静に考えて、ビル群の中央のスペースに浮く波瑠とビル壁の間は少なくても五メートル近い。跳躍距離は規格外だ。
手加減している余裕などない。そのまま虎やゴリラを地面へ投げ飛ばした波瑠は、中空が最も面倒であると判断。突風を撒き散らしながら、強引にでも鳥の包囲網を脱しようと試みる。
超急上昇しながら構えるは、両腕に炎と氷。
《霧幻焔華》を放とうとした、その時。
「なんだ。けっきょくお姉さんもみんなと同じで、この子たちをコロそうとするじゃない」
波瑠は動きを止めた。止めさせられた、といった方が正確かもしれないが。
演算が停止され、炎と氷が収束する。それを隙と言わんばかりに鴉たちの猛追が襲い、波瑠の身体を鋭いくちばしが掠めた。
「ぁあっ……」
神経を貫く激痛に歯を食いしばるも、そう簡単には割り切れない。波瑠の身体を空中に保っていた気流の演算まで途切れ、彼女は自由落下を開始する。
「――ふうん。ジカクすれば、ちゃんと止められるんだね」
「っ、この……!」
波瑠は必死に気流操作だけに専念して、無様ながらも着地した。勢い余って数歩よろめき、円を描く動物たちの中央に躍り出てしまう。
波瑠は血が流れる腕を押さえながら、このえを見据えた。
「……別に私は、鴉を殺そうだなんて……!」
「うん、お姉さんの気持ちはそうだったね。『にげみちを作らなきゃ』って考えて、きちんとコロさないくらいの力で鴉さんたちをどかそうとした。だけどさ、お姉さん。コウゲキしたら鴉だって『痛い』って思うんだよ?『痛い』って思うのはお姉さんもイヤでしょ? 自分がされてイヤなことなのに、なんで鴉さんにはしても平気なの?」
今も尚抱いている嘴の折れた鴉を撫でるこのえ。
「……でも、抵抗しなければ私が痛い思いをすることになるんだけどな」
「うん、そうだね」
「それでも、動物たちを傷つけるなって言うの?」
「うん、そうだよ」
「無茶苦茶なこと言ってるって自覚ある!?」
「うん、あるよ」このえは笑顔だった。「だってムチャクチャなこと言わないと、大人は気づいてくれないもん。この子たちだって、わたしたちとおんなじように生きている。ニンゲンも動物なんだよ。ニンゲンがニンゲンをコロすのがまちがってるなら、ニンゲンが動物をコロすのだってまちがいじゃないの? 波瑠お姉さんもムチャクチャなこと言ってるよね?」
首をこてっと傾げるこのえに、波瑠の言葉は喉元でつっかえていた。
このえが口にしたそれは、人類史が始まって以来存在する『人間』という単語の意味を捜索するに等しい。
『人間』と『動物』の差は文明であり、知能である――現在地球を支配する人類は、何の違和感も覚えずに自然を破壊し、都市を築き上げてきた。
そこで駆逐される動物がいるとも知らず。その影響で絶滅した動物がいるとも知らず。
或いは家畜という問題だ。人類は動物を育てて食料とする知恵を身に着けたが、果たしてこの構図は『人間』が『動物』の自由をはく奪しているに等しくないか? 食べるための『動物』達を生ませて育てて殺し続けている構図は、果たして『同じ動物』という観点からすれば狂気を感じる行為に見えてこないか?
なぜ『人間』が『動物』を支配することが許されているのか?
大袈裟というかもしれない。そんなことを考えたらキリがないと思うかもしれない。
だけど――けれど、だからこそ。
波瑠は答えを出せなかった。
『人間の死』が許容できない波瑠だからこそ、そう簡単に割り切れる話ではない。
「ね、気づいたでしょ、波瑠お姉さん」
このえは笑っていた。どこか寂しそうな笑顔で。
「わたしたちがフダン食べてるお肉ってね、牛さんや豚さんを殺したから食べれてるんだよ。わたしたちがお薬を使えるのってね、たくさんの鼠さんがくるしんだおかげなんだよ」
「……」
「わたしたち『人間』は、たくさんの『動物』をコロして今まで生きてきたの。なのにフシギだね。お姉さんは『動物』をコロしちゃダメって言うのに、『動物』には超能力を向けられるんだ?」
「……じゃあ、なんであなたは、このえちゃんは私を攻撃するの!? 私だって人間なんだよ、あなたの言う通りなら、私を傷つけるのは間違ってるでしょ!」
「うん。その通りなんだけどぉ、わたし達にはお姉さんたち『人間』をコウゲキしたいって思う理由がね、ちゃんとあるんだよ」
瞬きしたこのえの瞳が、これまでとは違う明確な殺意を宿して波瑠を映した。
このえが両手を広げる。
「ここにいる子達はね、ちょっとトクベツな動物さんたちなんだ。『強化兵創造計画・能力付与実験』のじっけんで――『動物に超能力をあたえることはできるのか?』っていうカイゾウをされた子達なの」
「……『強化兵創造計画』……」
「知らないなんて言わせないよ? この前『たかおさん』でカイゾウされた『人間』たちとたくさん戦ったんでしょ?」
まだ『高尾山襲撃事件』の記憶は新しい。人間でありながら、人間とはかけ離れた外見と能力を付与された挙句の果てに『失敗作』の烙印を押された者達が、波瑠と千花を狙う【月夜】に利用された事件だ。
「マウスじっけんと同じだよ。オロカな『人間』たちは、同族をカイゾウする前に、動物さんたちにキョカを取らないで、勝手にこの子たちをカイゾウしたんだよ。その中でも、ここにいるのは『成功例』としてちょっと前までホゴされていた子達だけ」
失敗作となった動物たちの末路は、言うまでもないということか。
「この子たちにとって『人間』はにくい。ギャクシュウをしたくなるくらいにね」
「………………そっか。だから、このえちゃんは私を殺すんだね」
「うん。わたしはこの子たちをダイヒョウして、オロカな『人間』に言葉を伝えるの。『動物』だって生きているって伝えるのが、わたしの役目なの」
狼から飛び降りたこのえは手を背中に回し、ようやく彼女自身の得物を手に取った。
巨大な針が二本。まるで彼女の爪であり牙であると言わんばかりの凶器を、それぞれの手に握りしめると、このえは波瑠に向かって告げた。
「いちおう、ちゃんとなやんでくれるお姉さんには、わたしが動物側にいる理由を教えるよ」
そして戦闘は再開する。
あるいは、一方的な虐殺とでも呼ぶべき何かが。
「わたしの『原典』は《絶対親和》で……生まれた時からずっと、動物さんの気持ちがわかる能力者だったんだ」
【45 新宿区~(オフィス街)】
現在時刻
2132年4月26日土曜日 午前5時14分
蒼髪の『彼』の拳が加速する。
五十嵐龍神は身長差を利用して滑り込むことでギリギリ躱すが、即座に切り返した『彼』の瞳は龍神を逃がさない。
裏拳のように薙がれた左手が龍神の襟首を掴み取り、腕力だけで強引に引き戻した。
軽い吐息とともに繰り出した鉄拳が鳩尾を抉る。
「ふぐ……ぁあ!?」
ライフル弾さえ通さない特殊繊維でできた衣装にダメージはないが、拳の圧力が強引に龍神を吹っ飛ばした。
「勢いで強引にかよ……!?」
鳩尾の衣装を押さえながら足を滑らせた龍神は、三度ポケットに手を突っ込んだ。
パチンコ玉を周囲に投擲する。彼が無線起爆リモコンのスイッチを入れようと指を動かすより前に、『彼』が何の躊躇もなく龍神の方向へ跳躍した。
動き出した指を止められず、パチンコ玉が爆発する。
猛烈な爆風を追い風として、『彼』が無理矢理距離を詰める。
「意趣返しのつもりか!」
「――」
無論、爆風の威力は強大で『彼』の体は弓ぞりしていた。着地さえままならないだろうと思われた接地の瞬間、『彼』は左足だけで強引に地面を踏みしめ、弾丸のように再度跳躍して完全に間合いに入った。
右腕を利用したラリアット。
龍神の無防備に晒されている首元を抉り、自分諸共地面に叩き付けた。
「……ッ、テメェ正気か!?」
「ああ、言われてみりゃ頭ん中のネジぶっ飛んでる気がするな」
着地の衝撃でグシャリと潰れた右腕を気にもせず、『彼』は龍神のマウントを奪ったまま真顔で見返す。
龍神から見てその姿は、端的に言ってブッ壊れていた。
「しかし滑稽だな、小僧。喧嘩を売ってきた側が敵の心配をするなんて」
「心配なんざしてねェ」
「してるだろ。殺すと決めたなら温情を一切挟まず殺すことに専念しろよ。でないと敵に付け込まれる隙を与えるぞ、こんな風に」
『彼』は全身を使い、龍神を力づくで抑えつける。本来の天堂佑真であれば火道寛政に習った絞め技や関節技を行使してきてもおかしくないはずだが、ただ純粋に、力だけで抑えてくるからこそ、龍神はそれを解けない。
「……まさか、天堂佑真に殺し方を教わるとはな」
「……先からテメェが誰を指して言っているのかはわからないが、オレが殺しについて語るのはおかしいことなのか。どうやら今のオレは相当にイカれているようだな――まあ、自分の名前を聞かれて思い出せなかった時点で当然か」
「あァ、首を締めながらソイツを言う時点でネジ切れてやがる……ッ!」
龍神はやり方を変えた。真正面から歯向かって拘束を解くのではなく、他の方法で『彼』の意表をついて力を緩めさせればいい。彼は口を一旦閉じると、勢いよく唾液を飛ばした。
「っ!」
『彼』の拘束が緩んだ一瞬を逃さず、龍神はまずヘッドバッドで『彼』の顔面を思い切り殴りつける。呻き声を上げる隙なく腹部を蹴り上げ、できたスキマを縫って後方へ。距離を取るなり爆薬を取り出し、投げつけながらさらに距離を置く。
背を向け道路に伏せるようにヘッドスライディングしながら、起爆。
逃げる隙を与えない爆発の風が周囲を席巻した。
しかしそれらは、龍神の意図しない方向からの爆風。
「……あの短い瞬間に、正確に蹴り飛ばして範囲を拡散させたのか! いいやそれだけじゃねェ、自ら右手でいくつかを握りしめることで――――腕が爆発で吹っ飛ぶのをお構いなしに爆発の衝撃を抑え込みやがった…………ッッッ!?」
思わず振り返った龍神の前に立っていた人間を、龍神は人間と呼ぶことに拒絶した。
右肩より先の部位が消し飛び、その返り血を浴びた全身もどこかおかしな方向に捻れている。そこに立つのは鬼か悪魔か。それでも尚戦意を失わず、冷徹に、冷酷なまでに龍神を捉え続ける眼が蒼髪の隙間から覗いていた。
「…………………………」
「ああ、そういうところだよ、五十嵐龍神」
『彼』は日本語を口にする。
「今にも死にかけのオレを見て、殺害を躊躇っている。こんな状態になる前にだって幾度となく殺す機会はあったが、テメェは不自然なまでに殺すことを躊躇った。そんな甘く弱い心では、オレは殺せないぞ」
「……ハッ、放っておいても死ぬような傷を負った奴が今更、何言って」
「そう考える時点で周回遅れだと言っているんだ」
どこに言葉を発する余裕があるのかもわからない『彼』が、左腕を持ち上げる。
「何か理由があるのだろう――オレを殺すのを躊躇いたくなるテメェなりの理由が。だが殺し合いを吹っ掛けたのはテメェの方だぞ、五十嵐龍神。そんな油断を晒すなら、オレが先にテメェを殺すぞ」
『彼』の殺気は留まるところを知らなかった。威圧感だけで龍神を一歩引き下がらせる。
物理的に一歩下がった自分を客観的に認識した龍神は、己の頭を掻きむしった。
「…………だったら、油断も情け容赦も捨てきって、完膚なきまでの死体を創り出すまでだ」
十一歳の無辜の怪物は、覚悟を以て天堂佑真だったものを睨み返す。
「殺す。次の激突でテメェを殺戮してやんよッッッ!!!」
その心中に、映すものとは――――。




