意外な事実
この物語に隠されている謎のひとつが判明します!
ほんの一部分くらいですが。
夕方になって窓を開け放すと、低空飛行をしていたツバメが部屋に迷い込んできた。そのまま部屋の中を自由にかき回して、また何事もなかったかのように窓を抜けていった。
その直後に一瞬の静寂。
セミの鳴く声がして、静寂が解かれる。
再びピアノに向かい合うと、思いきり強く鍵盤を叩いた。
いくつもの音が部屋の中に汚く響く。
心の中を表す、絶望にも近い音が。
次の日にたまらず鍵をかけると、初めてチャイムの音を聞いた。何度も何度も鳴り続け、そのうち鉄筋が音を鳴らした。聞き慣れた岬さんの足音がした。
18℃に設定したクーラーを朝からずっとつけていた。
1時間ほど経って、体の芯から冷えてしまっているのは分かっていた。そのうち頭が割れるように痛み出して、耐え切れず夏用のタオルケットに包まってもまだ寒くて震えていた。
それでもクーラーは止められなかった。
窓を開けると涼しい風が入り込んでくるはずの時間になっても、なお。
目が覚めたときクーラーは止まっていて、少し暑かった。
太陽がちょうど顔に当たる高さまで上がっていた。目を開けようとすると眩しくて、また閉じる。
窓側から顔を背け、花瓶に顔を向けると、ヒマワリが私を見ていた。遠目にその綺麗さが、やけに目立っていた。
ベッドから起き上がると頭の中がぐるんと回って、気持ち悪くて吐いた。
ようやく吐き気が落ち着いても頭痛は引かなくて、むしろ悪化しているようだった。
よつんばいになっていた体を起こし、ふらふらとピアノに向かった。
両手でピアノを探り、よろめきながら前進する。
まるで妖怪みたいだった。あてのない手は、見えない何かと戦っているようにも見えた。
右手がピアノを捉えると、私はもう一度その上の花瓶を見た。
朝日に照らされたヒマワリは真新しく、元気だった。
たしか、前(といっても何日前か分からないが)見た3度目のヒマワリは花びらが丸まって、少ししおれていたはずだった。
ここにあるのはそれではない、というのは明らかだった。
そうなるとこれは、4度目のヒマワリだろうか。
つまり、岬さんが来たということだ。
鍵がかかっていたはずのこの部屋には(たぶん昨日)一度来て、確かに帰っていったのに。
「不思議な人」
思わずそう呟いた。椅子に座ってヒマワリを小突くと、自然と心が温かくなった。
それはヒマワリの力か、岬さんの力か。
* * *
額がひんやりしたのを感じて目を覚ますと、ぼやっとした膜の先には岬さんが映った。
「あ、起こしちゃいましたか」
額には冷たいタオルがのせられたばかりだった。
私は椅子に座ったまま、鍵盤の扉に被さっていた。右手はヒマワリの花瓶に伸びたままだった。4度目のヒマワリを確認したあと、そのまま眠ってしまったらしい。
起き上がると冷たいタオルは額からずり落ちて、足の上に落ちた。足の甲がひんやりとして、気持ちいい。
「岬さん、どうして」
岬さんはタオルをひょいとすくい取り、またそれを私の額にのせた。けれどそれはまたすぐに落ちて、今度は目の上に被さった。
「昨日部屋に鍵をかけたでしょう。気になって夜にもう一度来たら、中からすごい冷気を感じたんで、管理人さんに言って開けてもらったんですよ。そしたらめちゃめちゃ寒いしノンさんは震えながらうなされてるしで、もうびっくりしましたよ。夏に暖房つけたのなんて、初めてですよ。どうしてあんな無茶なことしてたんですか。風邪引きたかったんですか?」
岬さんは少し怒っていた。
私がくすっと笑うと、「なに笑ってるんですか」とまた怒りながら言った。
「なんだか岬さんがいつもと違って余裕ない感じだったから、思わず」
私がそう言うと、岬さんもそんな自分に気づいたようで、上がり調子だった眉毛と肩がみるみるうちに落ちていった。
「普段の僕は余裕なんてないんですよ。ノンさんの前でだけです」
「なんで私には普段の顔を見せないんですか」
「・・・・・・」
岬さんは黙っている。なんだか言いにくそうに、私を見たり下を見たり、目をキョロキョロさせている。
「なんでですか」
私はさらに念を押して聞いた。
すると岬さんはハァ、とため息をついてもう一度私を見た。
まるで自らの罪を告白する覚悟を決めた罪人のようだった。何かを訴えかけるような、そんな目をしていた。
「普段の僕だったら、ノンさんは家に入れてくれないと思ったんですよ」
「どうしてですか」
「年下は相手にしないでしょう」
「年下? 誰がですか」
「僕です」
「僕って、岬さんのことですか」
「僕しかいないじゃないですか」
「ちょっと待ってください」
頭の中が混乱して、忘れかけていた頭痛が戻ってくる。
そういえば確かに岬さんのことはその名前しか知らなくて、年齢や下の名前、もちろんその他のことは何も知らなかった。
それでも私よりは年上だろうと最初から思っていた。
なぜなら私が覚えている岬さんは最初から、落ち着いた口調に優しい話し方、空気の読み方なんてものまで完璧だったのだ。
けれど、だからこそ岬さんの言ったとおり、家にも入れていたのかもしれない。
もし年下だと分かっていたら・・・・・・。
「岬さん、何歳なんですか」
「22です」
「え?!」
実際は2歳も下だった。岬さんの分からないことが増えていく一方で、初めて分かった彼の素顔だった。
そのはずが、逆に岬さんという人を分からなくさせた。
「初めてじゃないですか?」
と岬さんは言った。
私の返事を聞かないまま、岬さんはまた言った。
それが彼を特別にさせた、最初の言葉だった。