来客
人生はもう狂っている。
これから先どんなことが起きようと、私は悲しんだりしない。
絶望はすでに経験した。
この生活が始まって1年が経った。とても長い、変わり映えのない毎日だった。
姉と岬さんにしか会っていない。
けれどそれは、対人恐怖症になったんじゃない。
人との関わり合いは苦手だけど嫌いではない。
姉と岬さんは誤解している。同じようで違うその意味を、きっと間違えている。
私は外に出なくなったんじゃなく、家に閉じ籠もるようになったのだ。
* * *
また寝苦しくなって目が覚めた。
暑さにはもう慣れた。原因は夢だろう。
同じ夢を見てはいつも同じ場面でその先を拒み、耐えられなくなって目を覚ます。それがもう、去年からずっと続いている。
夢の続きを見ることはできない。それはそのまま絶望への下り道になっている。うっかり片足でも乗せてしまったら、あとは他愛もなく転げ落ちるだけだ。
「ノンさんとお姉さんって、全然違うんですね」
昨日、姉が帰ったあと、岬さんは言った。
「・・・・・・はい、よく言われます」
私は少し怪訝な顔をして言う。
「陰と陽っていうのかな、お姉さんは明るい人でしたね」
「じゃあ、私は暗い人間ですね」
「いや、そんなことありませんよ」
岬さんは慌てて否定する。私はそれをあしらうような、また気にしていないような表情で言った。
「いいですよ、本当にそうだから」
「全く正反対の違った魅力があるってことです」
そんなフォローはいりません、と言おうとした。
けれど、そのあとの岬さんの言葉にかき消されてしまった。
「僕は初めてノンさんを見たとき、ものすごい勢いで心を掴まれましたからね」
と岬さんは言った。
それはどんなふうに。
どうして。
私は何をしていたの。
聞きたいことが多過ぎたが、そこまで聞く気はなかった。
なんとなく、ただ面倒だった。
だから私は、どうしても知っておきたいことだけを聞くことにした。
「いつのことですか? あんまり覚えてなくて」
別のことでいっぱいになってしまった岬さんとの出会いの記憶は、未だ思い出すことができないままだった。
「さぁ、いつでしたっけね」
「教えてくださいよ。思い出すかもしれない」
「ノンさんは、僕と初めて会ったときのことは覚えていませんよ」
「なんでですか」
「なんででしょうね」
そう言って岬さんはふっと笑った。
また分からないことが増えてしまった。
そろそろ私の心は容量オーバーで、近いうち記憶の全てが張り裂けてしまいそうな不安を感じた。
ただでさえ私の道は傾いてしまっているというのに、下り坂はさらに角度をつけていく。
片足を滑らす日は、もう近いのかもしれない。
* * *
今日はクーラーをつけることにした。
好きじゃないなどと言っている場合ではなくなった。
暑さでピアノが狂って岬さんにもう一度調律してもらうのもなんだか悪い。
そしてこないだ姉が言ったように、あのひとが調律しに来ようものなら、それこそ坂は直角にでもなってしまいそうだ。そうなったらもう絶望まで落ちるのを止めることはできない。それだけは避けたかった。
絶望はもう経験したが、もう経験したくない。
また玄関のドアの開く音がした。岬さんは昨日来たばかりなので、今週はやって来ないだろう。そうすると、姉しかいなかった。
私はピアノの前の椅子に座って、ヒマワリを見ていた。
ドアの音には反応しない。どうせ姉か岬さんだろうから、「どうぞ」などと気を使うことはしない。姉も岬さんもそれを知っている。だから2人はいつも部屋に入ってきて、それぞれが勝手に行動する。姉なら料理・洗濯・掃除を。岬さんなら花の入れ替えを。
今日はなぜかドアの開く音がして、それから音が止まっている。
少し不思議に思った。けれど、たいした不思議ではなかった。
もう一度ドアの開く音がした。直後に「あっ、いいの。勝手に入って」という姉の声が聞こえた。
何を言っているのだろう、とまた不思議に思った。今度はだいぶ不思議だった。
「おじゃまします」
それは姉の声ではなく、男の人の声だった。
――聞き覚えがあった。
「あ、クーラーがついてる。珍しいね」と姉が言った。
「最近の暑さは異常だからね」と男の人は言った。
「でも望ったら、こないだまでクーラーなしの生活だったんだよ。部屋の中がサウナ状態だったんだから」と姉が言った。
「それはピアノだけじゃなく、体にも悪いなぁ」と男の人は言った。
「うん、私もそう言ってるんだけど」と姉が言った。
私はヒマワリから目を逸らさない。
逸らせない。逸らすことができない。
姉と、その隣にいる男の人が誰だか分かっているから。
次回は10月13日午前中に更新です。