特別編第2夜・岬さんの決断〈後編〉
次回は姉の物語を描きたいと思います。
左手には桜の枝を持っていた。
ここに来る途中、歩きながら桜の木を眺めていたら、持ち主の老人が分けてくれたものだ。
「花が好きなのかい? 男の人には珍しいね」
と、枝の間からひょっこり顔を出して、老人は言った。
「家が花屋をやっているんで」
と僕は返す。
「花屋かい。そりゃあいい。1枝分けてあげようか」
老人はそう言って、枝にハサミを入れた。
「いや、いいですよ。せっかく咲いてるんだし」
「ここの桜は今年で終わりなんだよ。ワシにも息子がいるんだが、一緒に住むことになってね。ばあさんと長年暮らしたこの家とも、お別れになるんだ。だから見てくれる人には見てほしいんだよ。この桜が長いこときれいに咲いていたってことを」
老人は惜しむことなくハサミに力を入れた。そして僕に、それを差し出した。
「きれいですね」
「そうだろう? 今年は一段ときれいに咲いたんだ。分かってるのかもしれないねぇ、自分の運命ってやつを」
老人は桜の木を、愛でるような瞳で見つめていた。
洸、おまえも、自分の運命を分かっていたのだろうか。
ウィーンから帰国してしばらく経ったころ、洸の主治医が、僕だけに言ったことがある。
「洸くんが音楽の学校に通いたいって言い出したときがあるだろ? あのころから少しずつ、病気が進行していたんだ。お父さんとお母さんには、話していたんだけどね。病院を抜け出したときで、1ヶ月もつかどうかだった」
僕だけが、それを知らなかった。
「病院を抜ける3日前くらいかな、洸が『あと何日生きられますか』って聞いてきたときは、一瞬何も言えなかったよ」
と、懐かしそうに思い出していた。
――ねぇ先生。俺、あと何日生きられる?
――・・・・・・ははっ、何言ってるんだ。そんなことは分からないよ。せめて何ヶ月とかいうだろ、普通は。
――1か月は切ってると思うんだよね。あと3日、生きれるかなぁ。
――おいおい、そんな弱気なこと言うなんて、洸らしくないぞ。生きろよ。3日でも1か月でも、何年でも。
――ずっと生きられるなら、それが一番いいんだけどさ。でも、ちょっと無理っぽいから、あと3日。
――3日後になにがあるのか分からないけど、結局は『生きたい』っていう気持ちが大事なんだぞ。
すると洸は笑って、「そっか、最後は俺次第かぁ」と言ったのだ。
洸の人生は、すべてノンさんのためだったように思える。
彼女がいなかったら、洸はもっと早くこの世を去っていたかもしれない。
彼女は、それを知らない。
自分が洸を、救っていたこと。
そして、洸に愛されていたことを。
あるアパートの、階段を登って、一番奥。
そこが、彼女の部屋だった。
見つけるのがそんなに難しいことではなかったのは、ここが彼女の親の持つアパートだったからだ。
ここまで来たら、もう引き返せない。
自分にそう暗示をかけて、僕はチャイムを押した。
「・・・・・・」
反応がない。
もう一度チャイムを鳴らしながら、さすがにアポなしで来たのはまずかったか、と思う。
けれど、電話なんてもっとできなかった。チャイムを1回押すより、番号をひとつひとつ押すほうが、ずっと勇気のいることだった。
「・・・・・・」
もう一度、もう一度、と押していたら、いつの間にか10桁の電話番号と同じ数になっているのに気づき、はっとして、ボタンに触れた手を離す。
それでもやっぱり反応がなかった。
「また明日にしようか・・・・・・」
そう呟いて、引き返そうとしたとき、不意に玄関のドアが開いた。
僕が振り向くと、怪訝そうにした彼女と、目が合った。
「・・・・・・どちらさまですか」
そこにいる彼女は、別人のようだった。
10歳のころの、そしてウィーンで見たころの面影が、なにもなかった。
まるで絶望の淵にいるような、少し前の僕と、同じ顔。
あなたと出会う前の僕と、同じ絶望。
僕はそのとき、彼女を救いたい、思った。
彼女が、洸を救ってくれたのと、同じように。
彼女の後ろにひっそりと見えた、グランドピアノ。
あれに、彼女のすべてがある。
僕は、彼女に伝えたい。
洸の愛と、「ノンさんのピアノを応援する」と書き残された、叶わなかった洸の願いを。
僕は左手に持った桜の枝を、彼女の前に差し出した。
「お花をお届けに参りました!!」
* * *
さっきまで泣いていたはずのノンさんが、ふふっ、と笑った。
「どうしたんですか?」
「岬さんが初めて家に来た日を、思い出してました」
「やっと思い出してくれたんですか」
「あのときもこんな風に、無理やり私に渡したんですよね。桜の枝を」
ノンさんは僕が渡した1輪のヒマワリを、太陽にかざすように見た。
「何なのこの人って思いながら、私は桜を受け取ったんですよね。あれは、自分でも無意識だった。たぶん、洸と重なって見えたんだと思うんです。洸のこと、忘れてしまったように思えたけど、心のどこかに、ちゃんと、あったんですよね。私が洸と過ごした記憶は」
そう言って、彼女は優しく笑っていた。
「洸はヒマワリが好きだったけど、やっぱり私にとっては、桜の精霊だよ」
空と海の向こうに、そんなことを言っているのが聞こえた。
「岬さん。洸に“これ”、あげてもいいですか?」
と言って、僕のほうを振り返り、ヒマワリを見せた。
「はい。洸、喜ぶと思います。1週間前ウィーンに手向けたヒマワリは、もう枯れてしまっただろうから」
僕がそう言うと、彼女は再びくるっと背中を向けた。
そしてヒマワリを、海に投げた。
「空と海の向こうまで、洸のところまで、届きますように」
ヒマワリは流れ、そのうちに見えなくなった。
言葉が足りないところもあったと思いますが、これで岬さんの物語は完結になります。
次回はついに、最後の物語になります。
お楽しみに。