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響く  作者: 綾瀬タカ
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演奏

 狂ったピアノを仕方なく弾くのは嫌だ。

 だから私は、その狂いを計算して弾く。

 心をとうとう埋め尽くしてしまったものたちを、消し去るとまではいかなくても、少しの間でも忘れたくて、重たい鍵盤の扉を開いた。

 

 岬さんの言葉。姉の言葉。

 

 昔から、ピアノを弾いている間は何もかもを忘れることができた。

 その時間だけは、私は本当の自分でいれたような気がした。

 そしてもう一度だけ、あの幸せな空間に浸りたい。

 

 いつも叩くだけだった白い鍵盤に、そっと指を配置した。ほんの少し力を加えれば、あとは体が覚えている通りに鍵盤をなでるだけだった。

 

 けれど、何度かためらった。

 

 ためらって、指を鍵盤から離した。

 

 やっぱり弾きたくて、鍵盤に触れた。

 

 ためらって、ためらって、今だけはピアノを弾いていいか、と、自分に許しを得た。

 応えが返ってこないのは当然だった。

 でも私は分からないフリをして、沈黙を「YES」と判断した。

 

 ピアノは弾かないと決めた自分への罪悪感があって、一番難易度の高い曲を弾いた。1年間のブランクはそう簡単に取り戻せるものじゃないと言い聞かせるために。

 

 ひとつ目の音を弾く。

 

 そうすると、あとは何も考えなくても指が動いた。

 

(あぁ、覚えているものなんだ。体は心よりもずっと素直で、いくら忘れたいと思っても、ピアノに触れるだけで過去の感覚が甦ってくるんだ)


 しばらくの間、時間にするとほんのの少しの間。私は過去に感じていたものと同じ快感に浸っていた。

 

 けれど、楽譜でいう3ページ目に差し掛かったところで、演奏をやめた。

 指が止まってしまったのだ。

 幸福感の背後に、もう二度と演奏はしないと誓った、過去の自分の気配がした。

 

 楽譜はこの先20ページは続いている。

 

 

 



 鍵盤の扉を閉めようとして、突き当たる視線を感じた。

 その先を向くと、そこには岬さんが立っていた。

「こんにちは」

 岬さんはいつも通りの明るい挨拶をした。

「お邪魔だったかな」

 私は鍵盤の扉を閉めた。「そんなことないです」

 岬さんの手には、下を向きながらもはみ出したヒマワリが握られている。

「ヒマワリ、相当人気があるみたいですね」

 私が目線を落として言うと、岬さんはその手のヒマワリを見た。

「そうですね。でも、人気があるから持ってきてるんじゃないですよ」

 岬さんは続けて言った。「ノンさんにはヒマワリがいいなと僕が思うから、持ってくるんです」

 そして私は現実に返り、いつかの姉の言葉を思い出す。

「岬さんには私がどんな風に映ってるんですか」

「え?」

「ヒメヒマワリを持ってきたとき、私にはこういう花がいいって言ってましたよね。それを『岬さんにはそういう風に映ってるんだ』って、姉が」

「ノンさんはヒメヒマワリとか、ヒマワリとか、そういう花がいいんですよ」

「それはもう聞きましたよ」

 岬さんはそれ以上語ろうとはしなかった。でもそれは、話すのが面倒だからというようには見えなかった。

「ところで、さっき弾いてたのって、モーツアルトの『ピアノソナタへ長調K332』ですよね?」

 と岬さんは言った。

 私が視線に気づいたのは演奏をやめたあとだったけれど、岬さんが聴いていなかったという確証はどこにもなかった。

 ただ、誰に聴かせるためでもなく弾いたあの短い演奏は、誰にも聴かれたくなかった。

 そんなことを今さら言っても仕方のないことだというのは分かっている。それなら防音完備の部屋で、玄関の鍵はしっかりとかけて弾くべきなのだから。

「もしかしてピアノの音、狂ってません?」

 と岬さんは言った。

「なんで分かるんですか」

 私は驚いて言った。

 音は確かに狂っていた。暑さでおかしくなって以来、結局は直ることもなく、それどころか次の日さらに狂ってしまったのだった。

 けれど、私はその特徴を上手く捉えて弾いていたつもりだった。弾いていたときは何の違和感もなかったはずだ。

 それとも、私には綺麗に聞こえていても、実は音色は狂ったままだったのだろうか。

 私の音が狂ってしまったのだろうか。

「いや、僕もピアノをやっていたんですよ」

 岬さんがそう言って、そういえば曲名を簡単に当てたことに気づいた。

 さらに気づいた。狂った音の歪みも曲名も、ピアノを習っていたくらいの人に分かるレベルじゃない。音色はほぼ完璧に狂いを隠していたし、演奏だってまだ最初と言っていいほどのところで止めた。学校で習うような聴き馴染みのある部分はイマドキの曲で言うサビで、この曲で言うと楽譜の8枚目くらいだ。私はまだ弾いていない。

「この人、何者なの」と思った。けれど口には出すつもりはなかった。

「よかったら調律しましょうか」

「え?」

「ノンさんが意図的に狂わせたんなら余計なお世話になりますけど」

「道具はないですよ」

「あぁ、僕が持ってますよ。あとでまた来ていいですか」

 岬さんは持ってきたヒマワリを花瓶に挿した。

 力のなくなったヒマワリは新聞紙に包まれ、岬さんと一緒に出ていった。

 新しくやって来た3度目のヒマワリは、私から目を逸らさない。



 *  *  *



 それから岬さんが来たのは、部屋を夕日が紅く染めるころだった。

「本当に調律できるんですね」

 手際よく調律をする岬さんの横で私が言った。

「いやだなぁ、冗談だと思ってたんですか?」

 岬さんは笑って返す。

「調律なんて、ピアノを習っているだけの人にできるものじゃないですよ」

 私は少し彼を試すように言う。

 ――あなたは何者なんですか、の意味を込めて。

「人は誰も意外性を持つものじゃないですか」

「花屋さんがピアノの調律までできるなんて、初めて聞きましたよ」

「それを言うならノンさん、僕はあの曲を生演奏で聴いたのは初めてです」

「・・・・・・」

 ちょうどそのとき真っ赤な夕日がこの部屋と同じ高さまで降りてきて、窓辺に立つ岬さんの姿はなんだかとても眩しかった。

 思わず目を閉じてしまったのは、そのせいか。それとも・・・・・・。

 再び目を開けたとき、そこに立っていたのはいつもの岬さんではなかった。

 真っ赤な陽に体が染まり、まるで燃えているように見えた。

 

 絶望の日、あのひとの姿も同じように眩しく、真っ赤に燃えていた。





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