特別編第1夜・岬さんの決断〈前編〉
岬さんについては描きたいものが多すぎて、結局2回に分けることにしました。
本編とはまた違った物語をお楽しみください。
彼女を初めて抱いた夜、心が震えた。
* * *
洸をウィーンで見送った日、父親が倒れた。
病状はひどいものではなかったけれど、極度の過労が重なって、しばらくの療養が必要だということだった。
家は花屋をやっていて、ここ何年かで規模を増やし、「フラワーガーデン」の名はだいぶ知られることとなった。すべて、父親が興したものだ。
僕は花屋を継ぐ、と言ったことはないけれど、特にやってみたいこともなかったので、大学では経営学を専攻した。
いつ、何が起こるか分からないからだったのかもしれない。
ウィーンに1週間ほど滞在して、父の体調もだいぶ良くなったので、僕らは日本に帰った。
「ノンさん」は、すでに帰国したあとだった。彼女はどうやら、あの飛行機事故で両親を亡くしたらしい。
帰国してしばらく経っても、父の体調は安定しなかった。何度か入院を繰り返し、花屋の経営がまるでできない。そんな状態だった。幸い、経営が上手くいかないことはなかったけれど、父が仕切っていくのはなかなか難しい、と、主治医にも言われてしまった。
そうして僕の心には、ある決意が生まれ始めていた。
そんなとき、父が病院に僕を呼び出したのだ。
「おまえが今、何を考えているか、私には分かっているよ」
と父は言った。
「花屋を・・・・・・無理に継ぐことはない。そんなつもりで私は花屋を始めたんじゃないんだ。自分がやりたかったから、やった。だからおまえも自分のやりたいことをやってくれ」
「それでいいの? 花屋はどうするんだよ」
「私にはもう経営に関わっていくだけの体力がない。だけど従業員には恵まれているからな」
「引退して譲る、ってこと?」
「ま、そういうことだな」
父は柔らかく笑って言った。その笑顔は、淋しさをひた隠しているように見えた。
病室をあとにして、僕は考えていた。
そういえば、父は昔から花が好きだったな、と。
洸も、病室に飾られる花をいつも喜んでいたっけ。
僕は?
僕は、どうなんだろう。
家に帰ると、ウィーンで行われた世界ピアノコンクールのニュースをやっていた。
ずいぶん間が空いてるなと思っていたら、「今年の音楽を振り返る」という題目がついている。
季節はいつの間にか、冬になっていた。
年が明け、足早に1月が過ぎて、2月になった。
大学に入ってから花屋の手伝いを始めて、もう4年になる。
経営に関わる仕事をいくつか付き添わせてもらったこともあった。
「潤さんはさすがに経営学を学んでいるだけある」と言ってくれる人もいた。
それでも僕は、僕の未来を花屋に集中させることができないでいたのだった。
まもなく僕は大学の卒業を迎えるところだった。
そういえば去年、初めて花の仕入れをやったな、と思い出す。
それは1人のお客の、難しい注文だった。
「ヒマワリがほしいんだ」
客は2月の終わりに、そんなことを言い出した。
「ヒマワリは8月だろ? 今の時季、どこにも咲いてないよ」
僕は当たり前に言う。すると、客はこう言い返す。
「本当に、どこにも咲いてない? 世界中、どこにも?」
「おいおい、世界まわって調べてこいって?」
「うん、頼むよ。咲いてるところを見つけてくれるだけでいいんだ」
そうして無理難題を押し付けた客の要望どおり、僕はなんとかヒマワリを探し当てた。
だけど、残っているのは一輪だけだった。
「一輪でも十分だよ。ありがとう」
客はそう言って、あろうことか、自分でそのヒマワリを受け取りに行ったのだ。
客にとって、そのヒマワリはどれほど必要なものだったのだろう、と思う。
後に、そのヒマワリは客の大切な人へのプレゼントだったのだと、僕は知る。
「ノンさんも、ヒマワリが一番好きな花なんだって。嬉しいな。俺のこと覚えててくれるといいな」
そう話す客は、本当に幸せそうだった。
そんなことを思い出していて、ふと気づく。
この間のテレビ。
世界ピアノコンクール以降に行われた、さまざまなコンクールの映像。
あれに、彼女が映っていなかった。
確か、前に洸に頼まれて調べたことがある。
彼女は小学2年生のときに初めてピアノコンクールに出場して以来、6年生まで全日本ピアノコンクール・小学生の部で5年連続で優勝していた。
なぜか中学生になってからは、コンクールに出場しなくなっている。
けれど、音大に入学し、新入生代表演奏をやっている。クラスも一流の音楽大学の中で特別扱いされているところだ。
今になって改めて調べると、さらにその後の生徒代表演奏を3年連続でやって、そのことから世界コンクール予選会の推薦をもらい、みごと日本代表に選出。
その世界コンクール当日、両親の不幸により、出場辞退。
その後のコンクールに、彼女はいっさい出場することはなかった。
聞くところによると、今年の予選会にも、彼女の名前が挙がっていたという。
だけど、彼女はそれを断ったのだと。
そして、ウィーンから帰ってきて以来、ぱったりと姿を消したのだと。
僕は不思議に思っていた。
墓前で、涙を流すどころか、悲しみの表情さえ持っていなかった彼女が、両親の死でピアノをやめるとは、到底思えなかったのだ。
洸、どうする?
僕は空を見上げて、洸に尋ねた。
答えなんか返ってこない。ただ、僕は自分の気持ちを確かなものにするために、洸を頼った。
あの凛とした横顔が、忘れられない。
僕は、彼女を探し始めた。