笑顔の先に
5年も前のこと。
洸と、初めて会ったとき、彼はいたずらな少年のように笑っていた。
あのときの笑顔が、今でも私の中に、残っている。
洸。
春にしか姿を見せず、また桜がよく似合っていた、桜の精霊。
その洸が、本当のいたずらを、私に残していった。
最後に会ったのは、私の卒業のとき。
あのときから、そこだけ記憶がすっぽり抜けてしまったみたいに、私は洸のことを忘れてしまった。
忘れたというより、思い出さなかった。
あのころ私は、いよいよ自分の夢を叶える寸前のところにいたのだから。
「洸が、岬さんの、弟?」
私は途切れ途切れに、自分の言葉を確かめるように、言った。
「そうです」
岬さんは続けて言った。
「双子なのに、洸だけ生まれつき体が弱くて、小学生まではずっと入院していました。自分でももう学校に通うことや外で遊ぶことを諦めていて、生きる力を失くしていたんです」
それは、私がどうしても知ることのできなかった洸であり、同時に、私の知っている洸ではなかった。
あの、いつも元気な洸が。
私までを引き込む笑顔の、洸が。
とても、信じられなかった。
私は目の前の幼い洸を、ただ見つめていた。写真に写った洸はどこかぎこちなく、笑い方を教わったばかりのような顔をしていた。
「そんなとき、テレビにあなたが映っていたのを、洸は偶然観たんです」
「え?」
私は驚いて岬さんを見た。岬さんは軽く頷くように笑って、言った。
「あれはピアノの全国コンクールだった。ノンさんは10歳で、そのコンクールをすでに2連覇しているとかで、すごく注目されていたんです」
私は聞きながら、思い出していた。10歳ですでに2連覇していたなら、小学校6年生のとき5連覇だったのだから、そのときも優勝したはずだ。毎年、取材も来ていたような気がする。
「でも洸は、初めテレビを観ていなかった。正しく言うなら、そう、流していたんだ。あいつが最も恐れていたのは、音のない世界だったから」
「音のない世界?」
「ひとりきりの病室で、音のない空間に耐え切れなかったんだと思う。いつからか、部屋を訪れると必ず音があるようになってた」
私は洸の、その行動が意味するものを、分かっていた。
音のない世界には、自分が本当に生きているのか、証明するものは何もないのだ。
自分の声を聞いて、誰かの声を聞いて、初めて、生きていることを実感できる。
洸は、確かめたかったんだと思う。
いや、確かめずにいられなかったのかもしれない。
いつ死んでしまうか、分からないから。
「そんなときに、ノンさんのピアノだけが、洸の耳に届いたんだ」
演奏が始まったとたん、洸は身を乗り出してテレビを観た。目をきらきらさせて、ずっと、テレビに映るノンさんを観ていたよ、と、岬さんは言った。
それからは、生きる希望を見つけたように、洸は元気になっていった。
ピアノをやりたい、と言い出して、両親がキーボードをプレゼントすると、洸は初めて、笑ったのだという。
遺影は、そのときに撮ったものなのだと。
私は岬さんの話を聞きながら、思っていた。
もしかして、音楽学校で洸と出会ったのは、偶然ではなかったの。
洸は私にとって、桜の精霊だった。
柔らかな笑顔と桜色の頬に、私もいつしか、染まっていった。
春の中庭は、私が唯一見つけた、楽しい時間だった。
洸、私があなたの生きる希望だったなら、なぜ、死んでしまったの。