まだ絶望の中
ゆっくり目を閉じると、私はいつの間にか絶望の底から抜け出していた。
ずいぶん軽くなった心が、それを証明している。
けれど。
恐る恐る、下を見ると。
絶望は、まだ“そこ”にいた。
どれくらい、上ってこれたか分からない。
ものすごく遠いのか。すぐ側にあるのか。
とにかく私は、まだ絶望の中にいた。
「それが、あなたのすべてなんですね」
と岬さんが言って、はっとして目を開いた。
「こんなつもりじゃなかった」
「え?」
「岬さん、以前にも言いましたよね。すべて話してくれる日はくるか、って。私はそのとき、一生話すつもりはないと、固く心に誓ったんです。でも結局こんなふうに、話してしまった。本当に、すべてを」
すると岬さんは笑って言った。
「僕はノンさんのことを分かりたいと思った。その想いがノンさんに通じたんじゃないかって、思ってます。ノンさんは僕の愛を感じていたんじゃないですか? 自分を愛してくれていると思うことができたから、話すことができたんじゃないですか?」
岬さんの愛。
私は彼に、何度も助けられていた。
自分でも気づかないうちに、私はそこに、愛を感じていたのかもしれない。
彼の心の中にある、温かい愛を。
岬さんはヒマワリを一輪、花瓶から抜いて、私に差し出した。
「ノンさん、あなたを愛しています」
初めて会ったときからあなたは僕にとってヒマワリのようだった、と、彼は言った。
私はその手から、ヒマワリを受け取った。
たくさんの愛のかたちの中で、岬さんへの愛は、一番大きなものだったから。
それがどんな愛なのかは、まだ分からないけれど。
私の心に、岬さんへの愛は、確かに存在するから。
「ねぇ、岬さん。そろそろ教えてください。あなたは一体、何者なんですか?」
そういった瞬間、岬さんの顔から緩みが消え、ぱっと真剣な顔つきになったのを、私は見逃さなかった。
彼はすぐに笑って、
「僕は何者でもないですよ」
と言った。
けれど私には分かっていた。
何か隠している、と。
彼の愛を受け入れたいま、私には分かる。
私を愛していたという彼が、私の心を見透かしていたのと、同じように。
「じゃあ、教えてください。私たちが初めて会ったときのことを」
「前にも言ったとおり、ノンさんは覚えてないですよ」
「だから、なんでですか?」
「それは・・・・・・」
とうとう彼を追い詰めた、と思った。
こんなに慌てる岬さんを見るのは、初めてだったのだ。
だけど彼のひとことで、私は逆に、追い詰められることになる。
しどろもどろになった岬さんは、ピアノの上の招待状に目をやった。
「これ、結婚式ってウィーンでやるんですよね。ノンさん、出発は明日ですか?」
彼は話を逸らそうとして、軽い気持ちでそれを掴んだ。
それは、私の心を乱してしまった。
もうあと少しのところまで、彼を追い詰めたのに。
そう思いながらも、私は動揺を隠すことができなかった。
「・・・・・・いえ」
「じゃあ、あさってですか?」
「・・・・・・」
明らかに変わった空気を感じ取って、岬さんは言った。
「ノンさん、もしかして・・・・・・」
彼がその続きを言う前に、私はきっぱりと言った。
「ピアノはもう二度と、弾くつもりはありません」
絶望の中にいたのは、あの日、ピアノを二度と弾かないと誓った私だった。
今の私を、岬さんは愛してくれたけれど。
その前の私――姉を憎んでいた私。ひとつの愛のために夢を叶えようとした私。両親の死を悲しむことができなかった私――は、誰からも愛されていないと思ったまま、絶望に堕ちてしまったから。
そのころの私が、まだそこから抜け出せないでいた。
「あのころの私が確かに愛されていたと思うことができれば、私は絶望から抜け出すこともできるかもしれない。でもそれは、絶対にありえないことだから」
私がそう言うと、岬さんはもう一輪ヒマワリを取って、言った。
「これ、もらってもいいですか?」
そして私の手を取って、彼は玄関へと向かった。