止んだ音
姉から見た私。
立派なピアニスト。
何の違和感もなく発したのだと思う。でもそれは、今の私にとって苦痛でしかない、過去の私。
姉にとって私は、あのころから何も変わっていないのだろうか。
“立派なピアニスト”だったころとは、なにひとつ。
* * *
「そういえば、花瓶は?」
「・・・・・・あぁ、そこ」
私は顔を振って窓辺を差した。
いつもの場所にないのは、昨日の夕方、夕日に染まったヒマワリを見ようと花瓶を窓辺に持ってきたままだったからだ。
おととい岬さんが持ってきたヒマワリは、今の私のようにちょっとだけ力を失くしていた。限りなく、人には分からない程度に。
「わ、ヒマワリじゃない」
姉の声はたちまち喜びを表し「そういえば、先週のイチオシって何だったの?」と続けた言葉にも弾みを持たせた。
「ヒマワリ。それはまたおとといに持ってきてくれた、2度目のヒマワリ」
「そうなんだぁ。ヒマワリだったのかぁ」
姉の声はまだ弾んでいる。
そしてヒマワリから目を逸らさずに、じっとそれを眺めている。
静かになったその空間で、私は岬さんの言葉を思い返していた。
――その2つは全くの別物ですよ。
私の心はすでに容量が余っていないはずだった。けれど、わずかに空いていた隙間にそれは上手く入り込んでしまったらしく、拭い捨てることができないまま今も私に問い続けている。
「ねぇ」
早く消したいそれを、私は姉に持ちかけた。
「そのヒマワリと、前のヒメヒマワリの違いって分かる?」
姉とそれを共有したほうが、まだ私の心は救われる。できることなら姉が持っていってくれればいいのに、とさえ思った。
「なぁに? クイズ?」
「岬さんが言ったの。その2つは全くの別物なんだって」
「他に何か言ってた?」
「私になら分かるって」
「それで、望は分かったの?」
「分からない。ヒメヒマワリも、同じヒマワリの一種でしょ? なのに全く違うって、どういうこと?」
姉は少し考え込んで、それから私を見てふふっ、と微笑んだ。
「分かったの?」
「ううん」
「じゃあなんで笑ってるの」
「望がこんなに話すのってなんだか久しぶりだなって、そう思ったら嬉しくなって」
「・・・・・・なにそれ、全然考えてないんじゃない」
姉は持っていくどころか、共有さえしてくれなかった。
結局それは変わらず私の中に居続けることになった。
「あ、ねぇ。ピアノのことだけどさ、直しに来てもらおっか」
嫌な予感がして、胸がまた鼓動を打ち始める。今度は痛むことさえ忘れている。
「・・・・・・誰に」
「ヒロ」
胸は段階を踏まず、ドからラへ、一気に鍵盤を駆け上がった。鼓動はあまりにも強く、あまりにも激しい音で、脈を打つ。
「いいよ、忙しいでしょ」
「このピアノのためなら来てくれるよ」
そうだろうね、と心の中で思う。けれどすぐに、そう思ったことを捨てる。
「とにかくいいよ。そのうちまた音が狂って元に戻るかもしれないし」
「そう? 分かった。あ、じゃあ私行くね」
姉は窓辺の花瓶をいつものピアノの上に置いた。
ヒマワリはまっすぐに私を見下ろしている。
姉はまっ白なサンダルを履くと、ドアを開け、くるっとこっちを向いて言った。
「ねぇ、ヒメヒマワリとヒマワリの違い、望なら分かるよ」
バタンとドアが閉じられると、姉が置いていった言葉は、とうとう私の心を埋め尽くした。
鉄筋の音はもう聞こえない。