夏の始まり
ついに望の過去の最後となる、「絶望」編です。
「岬さん、『絶望』って知ってますか?」
彼にすべてを打ち明け、あと、残っているのは「絶望」だけだった。
「『絶望』ですか・・・・・・」
岬さんは俯いた。
私は、そんなもの知らないでしょう、と、思っていた。
そんなとき、不意に岬さんから漏れた言葉を、私は一瞬疑った。
「知ってますよ」
と、岬さんは言った。
「うそ」
私は言った。
「本当です。ノンさん、僕があなたのことを分かっているのは、僕たちが同じだからです」
「同じ?」
「そう」
岬さんは言葉を続けた。それはあまりに哀しく、まるで泣き叫ぶような声で、綴られた。
「僕も“そこ”に、堕ちたことがあるんです」
時計は午後2時半を知らせていた。
話し始めてから、時間の流れがすごく遅く感じる。
それは、思い出す過去の記憶の量が、多すぎるせいだろうか。
時の流れに逆らって、過去を振り返っているから。
しん、とした静寂に包まれた部屋は、暑さをすでに失っていた。
太陽はもう下りる一方らしい。
そんな夏の終わりを、いま、この空間は、ひっそりと告げていた。
それの、まったく逆。
沈むことを教わらなかった太陽が、ひょっこり顔を出して、夜になってようやく月が太陽を隠してくれた日。
私が“そこ”に堕ちたのは、そんな夏の始まりだった。
* * *
世界コンクールを、明日に控えた日。
私と姉と、陽路くんは、ウィーンに来ていた。
ウィーンのシュベヒャート空港には、現地で演奏会に参加していた陽路くんの両親が迎えに来てくれていた。父と母は、明日の朝に着くらしい。
その足で、私は会場へと向かった。
参加者は前日に一度だけ、本番に使うピアノで弾く機会が与えられていた。
もっとも、世界コンクールの説明を私はまともに聞いていなかったので、それらは陽路くんが去年やったことを教えてくれたのだ。
「さすが世界コンクールって思ったよ。なんていうのかな、鍵盤の重みみたいなのも感じられるし、舞台に置かれているだけで存在感や威圧感もある。そんなピアノだった。あれを弾きこなそうとするのは、すごく勇気のいることだったなぁ」
と、陽路くんは言った。
「やめてよ、プレッシャーかけるの」
と私は言った。
けれど、私はプレッシャーなどの緊張の類を、ひとつとして持ち合わせていなかった。
明日になればそれも変わるのかもしれない。
でも今、この瞬間は、私は自信に満ち溢れていた。
それは、世界コンクールに出ると決まってからの2か月間、陽路くんがつきっきりでレッスンしてくれたこともあったし、なにより、夢がとうとう形になっていったことへの喜びが大きかった。
ここで、私の夢は叶うんだ。
世界中の祝福を受けながら、私は夢を叶えることができるんだ。
なんて幸せなことなんだろう。
前の演奏者が練習を終え、ついに舞台に上がったとき、私はそう思わずにはいられなかった。
明日は私にとって忘れられない一日になる、と。
だがそれは、思ってもみない形で現れることとなった。
ホテルの最上階から見える、鮮やかなスカイブルーの空。
そこに、戦争の爆撃のあとのような、凄まじいほどの煙が、ウィーンの街を覆って、空へと登ってきていたのだ。
まるで、絶望の淵を表すみたいに、暗く汚れた色をして。