はじまりの夢
最後の過去を私がゆっくりと話し始めたのは、初めの言葉を口にしてから10分ほど経ってからだった。
次の言葉を探しても、なかなか出てこなかったのだ。
「ノンさん、ゆっくりでいいです。心の中で記憶をたどって、頭の中で言葉を選んで、ゆっくりと話してください」
岬さんはそれを見透かしたように、言った。
私は一息大きく吸って、溜めた空気をまた戻した。
そして岬さんの言うとおりにゆっくりと、過去を少しずつ思い出すことから初めて、それを頭の中でまとめて、言葉をつないでいった。
「陽路くんは、私が高校3年生のときに世界コンクールで最優秀賞を獲って、ピアニストとして活動し始めました」
そのとき陽路くんは音大を卒業したばかりだった。
世界コンクールに出場するには、その前に日本代表にならなければならない。いわゆる、予選というやつだ。
陽路くんは音大の学長の推薦で、その予選に出ることになった。
そして、見事に日本代表となったのだ。
世界コンクールのために、陽路くんはオーストリア・ウィーンの街まで行かなければならなかった。「音楽の都」と呼ばれ、モーツアルトやベートーベンが生まれたところだ。
そこの、最も格式高いとされている歌劇場で開かれた。
陽路くんがピアノを弾いたとき、賞を獲ったとき、私はそこにいた。姉と両親と、陽路くんの両親も一緒に。
陽路くんの優勝を信じて疑わなかった私は、会場に入る前に花屋で大きな花束を包んでもらった。私がおこづかいとして持っていた1万円をユーロにして、「これでできる最高の花束を作ってください」と言って全額渡した。
姉は、気が早すぎよ、と笑っていた。
けれど私は思っていた。そうではない、と。
遅すぎるのだ。
世界が、陽路くんのピアノを認めるには。
壇上から降りる陽路くんを、いくつものフラッシュが迎えた。
彼はあまりの眩しさに、思わず右手で目を覆った。
私は、輝く陽路くんをじっと見ていた。
私も“あそこ”に立つことができたら、彼と並ぶのだろうか。
誰も追いついてこれないくらいの、あの高さまで、行けたら。
陽路くんはインタビューを受けていた。
「最後に、誰に一番伝えたいですか?」と聞かれた彼は、客席をきょろきょろ見回すと、私たちを見つけた。
陽路くん、誰に伝えるの?
おじさんとおばさん?
私? それとも姉?
あなたの周りのすべての人たち?
陽路くん、“誰を見るの?”
すると彼の目は、懇願の思いで見つめる、私を捉えた。
「僕が、僕のすべてを与えた、未来のピアニストに伝えます。次は君の番だよ、って」
嬉しさが、羽を伸ばして飛んでいきそうだった。
私はそれをぐっと堪え、いつまでもその嬉しさを心の中で噛みしめた。
彼が、私の信じていたとおり、優勝したことではなく。
他の誰でもない、私を見てくれたことでもなく。
もちろん、彼のすべてを与えられたのだということでもなくて。
「それは恋人ですか?」と聞かれた彼が、「いえ、妹みたいなものです」と即答したことさえ、悲しむのを忘れるほどに。
私は、私の中に生まれたばかりの夢と、彼の託した夢が同じだったことに、この世のすべての幸せを手にした瞬間のような、声にならない、誰にも言いたくない、そんな、ひとりじめの嬉しさを、抱いていた。
絶対に、夢を叶えてみせる。
望むだけでは終わらせない。終わらせることなんてできない。
まだ止まない拍手喝采の中にいる陽路くんの隣に、そっと、自分を並べてみる。
私たちは、光を浴びていた。
夢を叶えられたことへの、祝福と賞賛のような。
世界中の、まばゆい光を。






