解放
「招待状?」
表紙に「招待状」と書かれた、薄いピンクの紙を、岬さんは開いた。
そのあと、一瞬動きが止まったかと思ったら、岬さんは私を見た。
私は何も言わず、頷くように笑った。
「結婚・・・・・・するんですか」
と彼は呟くように言って、再び招待状に目を落とした。
招待状。
音大時代の春、よく寝転んでいたときに目の前に映っていた桜の色とよく似た、薄いピンクに染まった紙。
それは、姉と陽路くんの、結婚式の招待状だった。
「なんとなく、分かっていたんですよ。そろそろなのかもって」
そう、前に姉が来たとき、言っていた。
――2人で望に報告したいことがあるから。
それを聞いたときから、私は予感していた。
近いうち、こんな日が来るのだろう、と。
そして今日、2人が来て、照れたように話を切り出そうとする様子を見たとき、私は覚悟を決めたのだ。
「おめでとう」と笑って言うこと。
陽路くんへの想いを少しも残さずに捨てること。
もう一度、絶望に堕ちること。
けれど、「それ」だけは、覚悟していなかった。
――おめでとう。結婚祝いなんてあげられないけど。
――うん、それなんだけどね。2人で考えたんだけど、望にお願いがあるの。
――なに?
――教会で、式だけ挙げようって言ってるの。そのとき、望に賛美歌を演奏してほしいの。
「それで、ノンさんは何て?」
と岬さんは言った。
私は自分に言い聞かせるように、そして聞こえていないはずの2人にも念を押すように、もう一度答えた。
「『弾けない』って、言いました」
――外に出られないから?
――違う。ピアノはもうやめたの。
――ノンちゃん、ピアノをやめるのはもったいないよ。ノンちゃんはピアニストとしてやっていける。ピアニストの僕が言うんだから、自信を持っていいんだよ。
――違う、そうじゃないの。私は・・・・・・。
それきり私は話すことをやめてしまった。
2人には、これ以上話すことはできなかった。
「それで、帰りました」
2人は「教会で、待ってる」とだけ言って、帰っていった。
結婚式は急なことに、あさってだった。
「どうしても、弾けないんですか?」
岬さんは言った。なぜか彼も、すがるような目をしていた。
けれど、私にはどうすることもできない。
絶望の日、私は誓ったのだ。
二度とピアノは弾かない、と。
「ノンさん。最後にひとつだけ、教えてください」
と岬さんは言った。
「あなたがピアノを弾かなくなったのは、家に閉じこもるようになってからですよね。なぜ、そうなったんですか?」
“なぜ、そうなった”
「私も、岬さんに隠していたことはこれで最後です」
私はゆっくりと口を開いた。
最後の過去を、絶望のすべてを、ひとつひとつ解放していくように。
「私はただ、夢を叶えたかっただけなんです」