絶望の果て
その日、覚えのある坂を下りた。
行き着いたところにも見覚えがあって、私は一瞬安心した。
けれどそこは、二度と来たくなかったはずの、絶望の果てだった。
すぐに引き返そうとしたが、直角になった坂を上ることはできない。
助けを呼ぼうとしたが、一筋の光も見えない「ここ」では、自分の声がただこだまするだけだった。
私はこのまま、「ここ」で人生を過ごすのだ。
あのときも、そう思っていた。
そして今も、また同じ運命を辿るのだと、思っていた。
「ノンさん!!どうかしましたか?」
岬さんの何度目かの呼びかけにようやく気がついて、私は驚いて彼を見た。
そのとき私はピアノの椅子に座っていて、無意識のうちに鍵盤の扉を開き、いくつもの音を同時に鳴らしていた。
部屋に響いた音は、汚く混ざっていた。
「岬さん、来てたんですか」
「今来たばっかりです。ドア開けた瞬間、『バーン」って、ピアノの音が聞こえたんですよ。それがあまりにも悲しい音だったんで」
「悲しい音?」
「この世のものすべてを否定するような音でした」
ほら、まただ。
岬さんにはすべて分かってしまう。
「岬さん、本当に詳しいんですね。ピアノのこと」
「知り合いにピアノが上手い人がいて、その人がいろいろ教えてくれたんです」
「音の感情も、ですか」
「音の感情も、です。でもそれは僕自身もピアノをやっていたから、分かるんでしょうね。あと、ノンさんのことを知っているから」
一瞬の沈黙のあと、岬さんは何もなかったように、花瓶をキッチンに持っていった。
再びいつもの場所に戻ってきたときには、8度目ヒマワリが咲いていた。
「これで最後ですか?」
と私が聞く。
「何がですか?」
と岬さんが答える。
「ヒマワリです。夏ももう終わりだっていうから。ヒマワリももう終わりかなって」
「そうですね、これで終わりかもしれないし、終わりじゃないかもしれない」
私はまた分からなかった。
岬さんのその言葉が何を指しているのか、どうしても、分からなかった。
「さっきは、どうかしたんですか?」
と先に口を開いたのは、岬さんだった。
「なんでもないです」
と私が言って、岬さんがまた何か言ってくる前に、私はひとつ、大きくため息をついた。
「とは、もう言えないですね」
岬さんは開きかけた口を噤んで、私の言葉を待った。
静かになった空間で、私は思っていた。
絶望の淵で、あのときと違うのは、助けを求める“誰か”がいるということ。
あのとき私の側には誰もいなかった。
今は、私の側に、このひとがいる。
どうしてか知らないけれど、私だけを見てくれている、このひとが。
あのときと同じところに、あのときとは違う自分がいる。
私はここから抜け出せるかもしれない。
1年前、それが叶わずにとうとう家に閉じこもってしまった私。
「今の私」には、できるかもしれない。
「岬さん、私はどうすればいいんですか?」
私は彼に、助けを求めた。
「あなたの隠しているものすべて、僕に見せてください」
彼は私に、手を差し伸べた。
私はピアノの上に置かれていたものを、岬さんに手渡した。