表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
響く  作者: 綾瀬タカ
3/52

猛暑の影響

 蒸し暑い日が続いている。

 こんな時期は、ピアノの調子も悪くなる。

 夏が性懲りもなく気温を上げていくせいだ。




「うわっ、暑いですね。この部屋蒸してますよ」

 ドアを開けた岬さんの頬からは、たちまち汗が流れ出した。

「これ、ちょっと置いておきますね。すぐ戻りますから」

 そう言って岬さんはまた外へと飛び出した。鉄筋が早足で鳴っている。

 置いていった新聞紙の包みからは、中身がはみ出していた。


「ノンさん、暑くないんですか?」

 岬さんは帰ってくるなり肩に掛けていたタオルで汗を拭った。手にはコンビニの袋をぶら下げている。さっきはそんなもの持っていなかった。

 がさがさと袋をあさり「はい、ノンさんにも」と、カップアイスを差し出した。私が受け取ると、自分も同じそれを袋から出した。

 

 暑さのせいだろうか。

 

 アイスを食べている2人の空間には、会話がなかった。まるで試験会場3分前の光景のようで、何か張り詰めた空気が流れているのを感じる。

 もともと会話らしい会話さえ成り立ってはいないが、いつもなら岬さんは独り言でも諦めずに話す。

 それが今は、岬さんも何も話さない。

 アイスはまだ半分も残っているのに、その時間がとても長く感じる。

「暑いなぁ」

 堪らず沈黙を破ったのは私だった。

 普段はそんなこと思っていても口には出さない。そのせいか、岬さんは少し驚いている。

 こないだのように、「今しゃべった?」なんて思っているのだろうか。

 溶け出したアイスはどろっとした液体になって、もはや掴むことができなくなった。

「ノンさん、クーラーつけないんですか?」

 岬さんの首筋からは汗が流れ、袖を肩までまくりあげたTシャツに滲んでいた。何度も汗をぬぐいながら、岬さんはとうとう我慢できなくなったようだった。

「温度差が急激に変化するのは好きじゃないんです」

「それにしてもこの部屋、外より暑いんですよ」

「花も枯れますか?」

「う〜ん、あんまり暑いとかわいそうですね」

 そう言って岬さんは花瓶のヒマワリを見た。「やっぱりちょっとやられちゃってますね」

 そして今日持ってきた新聞紙の包みと一緒に、キッチンに持っていった。

「これの中身、見ました?」

 岬さんが新聞紙の包みを左手で軽く上げた。

「飛び出してるじゃないですか、ヒマワリ」

 私がそう答えると、岬さんは「ははは、そうですね」と笑って新聞紙の包みを開けた。

「夏はやっぱりヒマワリですね」

「もしかして、しばらくヒマワリですか」

 別にヒマワリが嫌だと言っているんじゃないけれど、とりあえず聞いてみた。

「だって、ノンさんヒマワリ好きでしたよね」

「なんでですか」

「ノンさん、僕が初めて贈った花って覚えてます?」

「え? ヒマワリでしたっけ」

「・・・・・・覚えてないみたいですね」

 岬さんは表情を少し曇らせた。100%の悲しさではなく、幾分か切なさを含んで。

「また来ますね」

 それだけ小さく口にすると、岬さんは力なくスニーカーを履いた。

 

 鉄筋は音を立てず、ピアノは音色を弾くことができない。


 

 *  *  *



 過去を思い出すのは得意じゃなく、苦手で、嫌だ。どんなに楽しかったことでも、その楽しさは未来まで持っていかない。そのときだけのものにする。

 それでも私の中には抜けないものがある。心太ところてんのように、羊羹ようかんのように、私の過去も記憶の筒からつるっと押し出されればいい。あわよくば、その後は美味しく頂くことができればいいとも思う。

 

 

 暑さはさらに調子を上げて、ついにピアノの音が狂ってしまった。

「あれっ、何してるの?」

「暑さで音がおかしくなったから」

 姉がやって来たとき、私はグランドピアノの甲羅を剥いでいた。

「直せるの?」

「分からない」

「ちょっと、そんないい加減じゃだめよ。余計壊れちゃうんじゃない?」

 姉が私をけん制して、自分が甲羅の中を覗き込んだ。

「う〜ん」姉は甲羅の中を丁寧に見回した。

「直せるの?」

「まさか」

 姉は即答して、その中から頭を起こした。「望で分かんないのに、素人の私が分かるわけないでしょ」

 じゃあさっきの唸りは何だったの、とは聞かないでおく。

 代わりに言った「私だって素人なんだけど」という言葉は、直後に後悔することになった。


「何言ってるの、望は立派なピアニストじゃない」


 と、姉は当然のように言ったのだった。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ