猛暑の影響
蒸し暑い日が続いている。
こんな時期は、ピアノの調子も悪くなる。
夏が性懲りもなく気温を上げていくせいだ。
「うわっ、暑いですね。この部屋蒸してますよ」
ドアを開けた岬さんの頬からは、たちまち汗が流れ出した。
「これ、ちょっと置いておきますね。すぐ戻りますから」
そう言って岬さんはまた外へと飛び出した。鉄筋が早足で鳴っている。
置いていった新聞紙の包みからは、中身がはみ出していた。
「ノンさん、暑くないんですか?」
岬さんは帰ってくるなり肩に掛けていたタオルで汗を拭った。手にはコンビニの袋をぶら下げている。さっきはそんなもの持っていなかった。
がさがさと袋をあさり「はい、ノンさんにも」と、カップアイスを差し出した。私が受け取ると、自分も同じそれを袋から出した。
暑さのせいだろうか。
アイスを食べている2人の空間には、会話がなかった。まるで試験会場3分前の光景のようで、何か張り詰めた空気が流れているのを感じる。
もともと会話らしい会話さえ成り立ってはいないが、いつもなら岬さんは独り言でも諦めずに話す。
それが今は、岬さんも何も話さない。
アイスはまだ半分も残っているのに、その時間がとても長く感じる。
「暑いなぁ」
堪らず沈黙を破ったのは私だった。
普段はそんなこと思っていても口には出さない。そのせいか、岬さんは少し驚いている。
こないだのように、「今しゃべった?」なんて思っているのだろうか。
溶け出したアイスはどろっとした液体になって、もはや掴むことができなくなった。
「ノンさん、クーラーつけないんですか?」
岬さんの首筋からは汗が流れ、袖を肩までまくりあげたTシャツに滲んでいた。何度も汗をぬぐいながら、岬さんはとうとう我慢できなくなったようだった。
「温度差が急激に変化するのは好きじゃないんです」
「それにしてもこの部屋、外より暑いんですよ」
「花も枯れますか?」
「う〜ん、あんまり暑いとかわいそうですね」
そう言って岬さんは花瓶のヒマワリを見た。「やっぱりちょっとやられちゃってますね」
そして今日持ってきた新聞紙の包みと一緒に、キッチンに持っていった。
「これの中身、見ました?」
岬さんが新聞紙の包みを左手で軽く上げた。
「飛び出してるじゃないですか、ヒマワリ」
私がそう答えると、岬さんは「ははは、そうですね」と笑って新聞紙の包みを開けた。
「夏はやっぱりヒマワリですね」
「もしかして、しばらくヒマワリですか」
別にヒマワリが嫌だと言っているんじゃないけれど、とりあえず聞いてみた。
「だって、ノンさんヒマワリ好きでしたよね」
「なんでですか」
「ノンさん、僕が初めて贈った花って覚えてます?」
「え? ヒマワリでしたっけ」
「・・・・・・覚えてないみたいですね」
岬さんは表情を少し曇らせた。100%の悲しさではなく、幾分か切なさを含んで。
「また来ますね」
それだけ小さく口にすると、岬さんは力なくスニーカーを履いた。
鉄筋は音を立てず、ピアノは音色を弾くことができない。
* * *
過去を思い出すのは得意じゃなく、苦手で、嫌だ。どんなに楽しかったことでも、その楽しさは未来まで持っていかない。そのときだけのものにする。
それでも私の中には抜けないものがある。心太のように、羊羹のように、私の過去も記憶の筒からつるっと押し出されればいい。あわよくば、その後は美味しく頂くことができればいいとも思う。
暑さはさらに調子を上げて、ついにピアノの音が狂ってしまった。
「あれっ、何してるの?」
「暑さで音がおかしくなったから」
姉がやって来たとき、私はグランドピアノの甲羅を剥いでいた。
「直せるの?」
「分からない」
「ちょっと、そんないい加減じゃだめよ。余計壊れちゃうんじゃない?」
姉が私をけん制して、自分が甲羅の中を覗き込んだ。
「う〜ん」姉は甲羅の中を丁寧に見回した。
「直せるの?」
「まさか」
姉は即答して、その中から頭を起こした。「望で分かんないのに、素人の私が分かるわけないでしょ」
じゃあさっきの唸りは何だったの、とは聞かないでおく。
代わりに言った「私だって素人なんだけど」という言葉は、直後に後悔することになった。
「何言ってるの、望は立派なピアニストじゃない」
と、姉は当然のように言ったのだった。