私とわたし
「最低ですね」
と、岬さんは言った。
「・・・・・・でしょう?」
俯きながら、ふっと笑う。岬さんのその言葉に、私は傷つかなかった。それどころか、今一番欲しかった言葉のようにさえ思えた。
「ノンさん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「あなたは、その気持ちを誰かに話したことはあるんですか?」
岬さんはその“誰か”を、ひとりに絞って言っているような気がした。
「誰かって、陽路くんのことですか?」
一瞬、岬さんの顔が強張る。
「言ってないですよ」
岬さんは私の目をじっと見る。真実かどうかを見極めているようだった。
「本当です」
私は先回りして言った。
「陽路くんには、私のこんな汚い部分を知られたくなかったのかな。あのころの私はそれを必死に隠して、誰にも頼ろうとしなかった。今では、それがいけなかったんだって、分かりましたけど」
過去を思い出すのが嫌だったのは、あのときさんざん傷ついた心が、もう一度後悔することによって、さらに痛めつけられてしまうことを恐れていたからだった。
だけど今は、なぜだか心が重みを失っていくように感じる。
誰かに話すことで。
岬さんに話すことで、心は軽くなっていった。
「じゃあ、ひとりでずっと抱えたまま、家族と過ごしていたんですか?」
私はピアノの椅子に座り、鍵盤の扉を開いた。クリーム色の鍵盤を左から流れるようになぞっていくと、それはとてもきれいな音を奏でた。
「言ったでしょう? 『あのころ私にはピアノしかなかった。同じようにピアノにも、私しかいなかった』」
いつからか部屋にいる時間が長くなってから、ピアノを弾くことが多くなった。
ピアノが来てから完全防音になったあの部屋にいると、私は時間を忘れていつまでもピアノを弾いていた。
そのときだけが、幸せな時間だった。
両親と姉が楽しく笑いながら話す声も、姉への褒め言葉も、何もかも、この部屋では聞こえなかった。
汚い心を表す不快な音さえ、ピアノに消してもらうことができた。
誰も聴いていないから、どんなに最低な演奏だってできた。
そしてそれができたのは、ピアノだけだった。
ピアノだけが私を分かってくれた。
ピアノだけが私の友達だった。
そのうち親友になって、とうとう「わたし」になった。
「岬さん。私、お姉ちゃんを恨んでなんかいません。憎しみも嫌悪も抱いていたけど、恨みを募らせていたわけじゃない。だって、私がこうして家に閉じこもるようになってから、私にはお姉ちゃんしかいなかった。本当に、そう思っていたんです。同じように、家族も環境も、恨んでいません。私は、憎いとか嫌いだとか、そう思うことしかできなかった自分自身を恨んでいるんです。だから、私は人生を諦めるしかなかった」
岬さんは少し黙ったあと、言った。
「あなたが家に閉じこもるようになったのは、それが理由ですか? 自分の人生を諦めたから?」
「納得できませんか?」
「あなたは天宮さんのことが好きだった。でも天宮さんは、お姉さんを好きになってしまった。それは何の関係もないんですか?」
「どうでしょうね」
「ノンさん、なんであなたはこんなときまで・・・・・・」
「岬さん」
私は彼の言葉を遮った。そのあとに続く言葉を私はなんとなく予感していて、それを聞きたくなかったのかもしれない。
岬さんの、確信を突いた追及を。
「少し疲れました。今日はもう・・・・・・」
岬さんはしばらく私を見ていたが、目を合わせようとしない私に呆れてしまったのか、黙ったまま靴を履いて、玄関を出た。
弱々しい鉄筋の音が、微かに音を弾く。
それに合わせて鍵盤を叩いても、音が出ない。
ピアノは「わたし」だから、私と同じなのだ。
“もう、疲れてしまった”