アメとムチ
コンクール前日。
個人レッスン最終日。
今日も先生はあいかわらず質問してくる。
「うん、いいね。明日もこの調子でいけば、いい結果が得られると思うよ」
「はい」
「ところで浅羽さんの好きな食べ物は?」
「は?・・・・・・あぁ、フルーツは好きです」
「そうなんだ」
と、こんなふうに突然に、訳の分からないことを言う。
それはレッスン初日からずっと続いているので、一瞬戸惑ってみるものの、さすがに私もちゃんと答えるようになった。
「それじゃあ最後に、課題曲と自由曲を通してみようか」
「はい」
私はすうっと一息呼吸して、弾き始めた。
弾きながら、個人レッスンを思い返してみる。
私はこの学校で得るものは何もないと思っていたけれど、レッスンを通して、成沢先生から学んだことはいくつかあった。
* * *
2日目に、私は成沢先生から好きに決めていいと言われた自由曲の楽譜を持っていった。
「これを自由曲で弾こうと思ってるんですけど」
そう言って楽譜を渡すと、成沢先生はそれをめくった。
「ベートーべンの『ピアノソナタ』ね・・・・・・」
「だめですか」
「いや、誰かに伝えたい想いとかがあるのかなと思って」
「・・・・・・なぜですか」
「ソナタは告別とか月光とか悲愴とか、哀愁深いものが多いよね。感情移入しやすいっていうか、魂が込めやすいっていうか。まぁ、なんとなく感じただけなんだけど。それで、何番?」
「31番を」
「それはなんで?」
「特に意味はないですけど。あえていうなら、31番は弾いたことがないから」
そう言うと、成沢先生は声に出して笑った。
「ははは、君ってやっぱりおもしろいね」
「は?」
「普通コンクールとかなら、自分が弾きやすそうなものを選ぶものなんだけどね。『弾いたことがない』なんて」
先生はまだ笑っていて、私はなんだかすごくムカっときた。笑われているその意味が、私には分からなかった。
「1ヶ月もあればちゃんと弾けますよ」
買い言葉のようになってしまったが、本当に自信があった。
3日もあれば完璧に暗譜できるし、一週間あれば弾けるようになる。あとはそれに、自分の音色を加えていくだけだ。どんなに時間がかかったとしても、1ヵ月後には「私の曲」になっているはず。
その自信が、私にはあった。
「さすがだね。だいたいの子は『一ヶ月しかない』って言うんだけどな。じゃあ曲はピアノソナタ第31番でいこう。とりあえず自分で練習してみて。初めのうちは課題曲から練習しよう」
成沢先生は課題曲の楽譜を私に差し出し、私がそれを受け取ろうとしたとき、こう言った。
「僕はピアノに関しては甘くないから」
そしてとうとう本格的な、成沢先生と私の一対一のレッスンが始まった。
「ペースが速い。もっとひとつひとつ丁寧に弾いて」
「そこにはピアニッシモが連続してあるだろう。だからもっと強く」
「はい、そこもう一回」
そんな言葉のあと。
「浅羽さんは素晴らしいね。言うことがないよ」
という、ひとこと。(いや、言ってるから。と私は思う)
毎日がその繰り返しだった。
成沢先生はとても厳しいわけではないけれど、アメの量に対してのムチが多すぎた。
けれどその言っていることは正しくて、その通りに弾くと、格段に良くなっているのが分かった。
成沢先生からは、かなりいいものを得たかもしれない。
そして今日で、レッスンが終わる。
1ヶ月間を振り返りながら、私は成沢先生への感謝を込めて弾いた。
“ありがとうございました”を、音にして伝えた。
私の想いは、届いたでしょうか。
課題曲と自由曲を通して弾き終わると、成沢先生は言った。
「拍手は明日にとっておこう」と。
コンクール前日。
個人レッスン最終日。
成沢先生は“ありがとう”のお返しに、今まで足りなかった分のアメをくれた。