先生
「――ということで、私たちは未来の音楽界を創っていく生徒を育成しているのです。新入生の皆さんも、これからの4年間を有意義に過ごし、音楽を学んでください。それでは、生徒代表の模範演奏に移ります。今年の代表は昨年、首席で入学した女生徒です。彼女は特別クラスに在籍し、毎日指導を受けて技術を磨いています。新入生のみなさんも刺激を受ける、いい演奏をしてくれます。ピアノ科特別クラス2年、浅羽望によるショパンの『ポロネーズ』です」
カマキリ女は30分長にも及んだ雑談に満足した様子でこっちに向かっている。
そのとき私は、とっくに準備万端だった心が少し傾きそうになっているのを、必死で抑えようとしていた。
――毎日指導を受けて技術を磨いています。
私が毎日のようにサボるのを鬼の形相で連れ戻しに来るのはいったい誰。
――新入生のみなさんも刺激を受ける、いい演奏をしてくれます。
いい演奏を“してくれる”だって。あなたのそのカマキリ顔を立てるために弾くんじゃない。
ハラワタが煮えたぎる思いってこういうことなんだ、と、私は身を持って体験させて“いただいた”。
舞台袖に下がったとたん、彼女のさっきまでの作り笑顔が一瞬で消え、またその一瞬で、いつものカマキリ女に戻った。
目はまぶたの上に紐を張ったように吊り上がり、口元は緩んでいたのが急に真っ赤な口紅を塗りつけたようにキツイ印象になった。
私は振り返ると、彼女の唯一変わらないぴしっとした姿勢にこっそり拍手を送った。
テレビはあまり観ないほうだからよく分からないけれど、彼女のその華麗なる変身は、まるで大物女優のオンとオフのように思えたのだった。
彼女はとても素晴らしい演技をしていた。
「お疲れさまでした。とても良いお話でした」と、取り巻いているただの教師らを見ると、さらに彼女の貫禄というものまで感じるほどだった。
そう私が思ったのは、4年間のうち、今日だけだったけれど。
とりあえずその驚きが強すぎて、ハラワタがぐつぐつに沸騰するのは免れたようだ。
ただ、彼女のせいであり、彼女のおかげでもあるのが、あまり納得いかないままになった。
私は心が完全に落ち着いたのを確認すると、きゅっと背筋を伸ばし、目を閉じる。
先生の言葉をもう一度思い出して、誰にも聞こえないほど微かな口の動きで、ゆっくりとそれをなぞる。
そうすると、目を開けたら私にはピアノしか見えなくなるのだった。
美しい旋律に、私の音が入り込む。
ピアノに向かっている私には分からないけれど、今この演奏を聴いているすべての人は、きっと自分だけの世界に気持ちよく浸っているだろう。
それぞれが心に持つきれいな世界の中で。私の演奏にのせて。
先生はこうも教えてくれた。
「演奏しているとき、何を思って弾いている? 自分の指が奏でる音に、何を願う? ピアノは、自分が弾くものじゃないんだ。ひとが聴いてくれるものなんだ。だからノンちゃんには、ひとがつい耳を傾けてしまう、引き込まれてしまう、そんな演奏をしてほしい。自分の音で伝えるんだ。『これが私です』って。そうすれば、自然とひとは聴いてくれているから」
演奏が終わって、私は立ち上がり一礼した。
拍手もなにもなかった。
ただ、ある人は涙を流し、ある人は微笑み、またある人は放心状態だった。
その大半は、私の演奏をはじめて聴いた、前のほうの生徒ばかりだった。
それは、みんなが私の音を受け取ってくれたということを、示してくれていた。
先生。いま私が何を思って弾いていたか、あなたがこの場にいたら、分かるでしょうか。
――あなたを想って弾いていました。
先生。私がこの指に何を願って、音にどんな気持ちを込めていたか、分かりますか。
――私のすべて、あなたに伝えたかったのです。
でもこの演奏は、あなたがいないからできたのでしょう。
もしあなたが聴いていたら、こんな気持ち、演奏できない。
きっと、あなたなら、分かってしまうだろうから。