観念
その足音はあのひとの全てを物語っている。
もしその音が聴こえてきたら、私はもう一度あの暗い闇の中に抛り出されてしまう。
止める術もなく。堕ちていく。
1週間振りに来た姉は少し焼けていて、「旅行」という名の実家訪問のあと、沖縄の海で泳いできたのだと言った。
そしてお土産にと、シーサーの置物をくれた。
「シーサーって守り神なんだって。これからは私の代わりにこのコが望を守ってくれるよ」
「私、お姉ちゃんに守られてたっけ」
「料理、洗濯、掃除。誰がやってたのかな〜」
「そうでした」
「ふふっ、でもかわいいでしょ」
「顔はブサイク」
「なんでそういうこと言うのよ〜」
「ひねくれてるもんで」
そう言ってソファから立ち上がり、自分と姉のコップを持ってキッチンに向かった。
もうすぐ形がなくなってしまう固体に、さらに新しいものを入れてその上に麦茶を注ぐと、小さかった固体は液体になって麦茶に溶けていった。
「望、変わったね」
「なにが」
思わずよいしょと言ってしまうのを堪えて、どしっとソファに座りなおした。
「表情とか、行動とか。1年前よりだいぶ変わったよ。外に出なくなってからは笑うこともなかった。今みたいに自分からお茶を入れなおすとかもなかった」
姉は、かつてなく真剣な顔をしていた。
「岬さんのおかげなのかな」
「そうだと思う」
「・・・・・・ねぇ、もう傷は癒えたんじゃない? 私もお父さんとお母さんが交通事故で死んだ当時は、ショックで何もできなかった。でもヒロが側で支えてくれたから、なんとか今は立ち直れた。望にも岬さんがいるじゃない」
「岬さんとはそんなんじゃないよ」
「でも好きなんでしょ? 好きな人のためにも元気にならなきゃだめよ」
「何にも分かってない!!」
自分の声に驚いて我に返ると、姉もまたびっくりして私を見ていた。
「あ、その・・・・・・」
「こんにちは」
そこへ岬さんがやって来て、私たちはまた驚いて立ち尽くしていた。
そんな2人を見て、岬さんは軽く首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いいえ、なんでもないです。じゃあ私は帰ります」
「え? お姉さん?」
「仕事の途中だったんで。岬さんはゆっくりしていってくださいね」
姉はピアノの上に置いていた仕事の書類らしきものを、そっと掴んだ。
「じゃあ望、また来るね」
「・・・・・・うん」
久しぶりの鉄筋の音色は、別の音に侵されていた。
それは、弾くとまさに不協和音を生み出してしまうように、汚かった。
「お姉さんと、なにかあったんですか?」
その場に立ち尽くしたまま呆然としていた私を不思議そうに見て、岬さんは言った。
「いいえ、なんでもありません」
乱れたままの心は声に表れてしまった。私は早口で、目を伏せて言った。
すると岬さんは私の心を一瞬で読んだ。岬さんの目が、心の中の、感情をコントロールする部分に入り込んできたみたいに。
「なにが、あったんですか?」
疑問は確信に変わっていた。
私は伏せた目をいったん岬さんに向け、また戻した。
もう、このひとを欺くことはできない、と、心が叫んでいた。
「私は・・・・・・」
私はついに観念して、過去の自分と再会することを決めた。
どうしても言葉にできなかったものをとうとう形にすると、今の自分に過去の自分がのりうつってきたのを感じた。
そうなったらもう、止めることができない。
岬さんは、私が話すその言葉をなぞるように、ただ頷いた。