お礼
半分だけ開けた窓からは、時折ひやっと涼風が流れ込んでくる。
その度に薄いカーテンがなびいて、満月がちらちらと姿を見せる。
窓辺にある椅子に座っている岬さんだけが、その月を見ていた。
そのとき私は、月とは反対のキッチンに向かっていた。
月からしたら、私は背を向けている。
まるで、わざと見ないようにしているふうに、見えている。
* * *
「びっくりです」
岬さんがキッチンに向かっている私の背に声をかけた。
さっきまでピアノの椅子に座っていたと思ったら、いつのまにかすぐ後ろに立っていた。
「ノンさん、料理できるんですね」
「それって失礼な意味ですか」
「単純に、尊敬してるんです。いつもお姉さんがやっていたからっていうのもありますけど、すごく繊細な作りかたというか」
「面倒だからあんまりしないんです」
「それにしては盛り付けとか切り方とか、綺麗ですよ」
そう言いながら岬さんが見ていたのはイタリアンサラダだった。
パプリカをなんとか使おうとしたらこうなった。見た目の色合いやトマトの切り方なんかもおしゃれで、これだけで立派な一品になってしまった。
他には蒸し鶏と根菜の和風パスタ、サーモンのマリネ、筑前煮、豆腐と豚肉の炒め物などがある。
和洋折衷になってしまったのと品数が多いのは、岬さんのせいだ。
けれど、これでもまだ3分の1も使っていない。
「なんかごちゃごちゃになってしまいましたけど」
「いや、こんな豪華な食事は初めてです」
岬さんは喜んでいた。あなたがこんなに買ってくるから、とは言えなくなってしまった。
「食べきれないだろうから、残してください。明日にでも食べますから」
「僕って大食漢なんですよ」
そう言っていただきますと手を合わせ、勢いよく食べ始めた。
とても大食漢には見えない体つきなのに、岬さんは次々とたいらげていった。
テーブルに並べた料理が見事に全部消えるのに、1時間もかからなかった。
どうしてもやらせてほしい、と岬さんはスーツの袖をまくり、食器を洗い始めた。
私はソファに座って、その後ろ姿をぼーっと眺めている。座っているせいか、岬さんの背中はとても広く、大きく見える。
仕事帰りの慌ただしさを表すスーツ姿は、岬さんを年上でも年下でもなく、「男の人」だと意識させた。
磨かれていく食器の、カチャカチャとこすれる音だけが静かに響く。
「わわっ、どうしたんですか」
容赦なく見つめる背中からの視線に気づくと、岬さんは言った。
「いえ、スーツ着てるの初めて見たんで」
「ああ・・・・・・そうですね。初めてですね・・・・・・」
なぜか岬さんが黙ってしまって、けれど私はそれを不思議には思わなかった。
洗い物を終えた岬さんはアイスコーヒーを2つ淹れた。
私はピアノの椅子に移り、ほんの少しだけぬくもりを残したソファには岬さんが座った。
「今日はありがとうございました」
「いいえ、僕のほうこそ」
「何かお礼ができればいいんですけど」
「お礼なら、食事をいただきましたし」
「それは私のついでみたいなものでしたから」
岬さんは困ったように考え込んで、「それじゃあ、リクエストしてもいいですか?」と言うと、ピアノの上のヒマワリを指差した――のではなかった。
「ピアノを弾いてもらえませんか?」
と、ヒマワリの下に敷かれたグランドピアノを指して、言ったのだ。
お互いの目を見合ったまま、しばらくの沈黙。
「ピアノは・・・・・・もう弾けないんです」
「どうしてですか? この間のモーツアルトは本当に素晴らし」
「弾けないんです」
私は岬さんの言葉を遮るように言った。
力まかせに出した声がいつまでも響いている。
やけにセミの声がうるさく聞こえるのは――。
「すみません。なにもお礼ができなくて」
一瞬の沈黙のあと、
「ノンさんって、律儀ですよね」
と、岬さんはその場によどんだ空気を払うかのように、明るい声で言った。
「知ってますか? お礼をしなきゃいけないほど助けられたのは、僕のほうなんですよ」
それ以上は何も言わず、それ以上は何も聞けないような、明るい笑顔だった。