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響く  作者: 綾瀬タカ
11/52

お礼

 半分だけ開けた窓からは、時折ひやっと涼風が流れ込んでくる。

 その度に薄いカーテンがなびいて、満月がちらちらと姿を見せる。

 窓辺にある椅子に座っている岬さんだけが、その月を見ていた。

 そのとき私は、月とは反対のキッチンに向かっていた。


 月からしたら、私は背を向けている。

 

 まるで、わざと見ないようにしているふうに、見えている。



 *  *  *



「びっくりです」

 岬さんがキッチンに向かっている私の背に声をかけた。

 さっきまでピアノの椅子に座っていたと思ったら、いつのまにかすぐ後ろに立っていた。

「ノンさん、料理できるんですね」

「それって失礼な意味ですか」

「単純に、尊敬してるんです。いつもお姉さんがやっていたからっていうのもありますけど、すごく繊細な作りかたというか」

「面倒だからあんまりしないんです」

「それにしては盛り付けとか切り方とか、綺麗ですよ」

 そう言いながら岬さんが見ていたのはイタリアンサラダだった。

 パプリカをなんとか使おうとしたらこうなった。見た目の色合いやトマトの切り方なんかもおしゃれで、これだけで立派な一品になってしまった。

 他には蒸し鶏と根菜の和風パスタ、サーモンのマリネ、筑前煮、豆腐と豚肉の炒め物などがある。

 和洋折衷になってしまったのと品数が多いのは、岬さんのせいだ。

 けれど、これでもまだ3分の1も使っていない。

「なんかごちゃごちゃになってしまいましたけど」

「いや、こんな豪華な食事は初めてです」

 岬さんは喜んでいた。あなたがこんなに買ってくるから、とは言えなくなってしまった。

「食べきれないだろうから、残してください。明日にでも食べますから」

「僕って大食漢なんですよ」

 そう言っていただきますと手を合わせ、勢いよく食べ始めた。

 とても大食漢には見えない体つきなのに、岬さんは次々とたいらげていった。


 

 

 テーブルに並べた料理が見事に全部消えるのに、1時間もかからなかった。

 どうしてもやらせてほしい、と岬さんはスーツの袖をまくり、食器を洗い始めた。

 私はソファに座って、その後ろ姿をぼーっと眺めている。座っているせいか、岬さんの背中はとても広く、大きく見える。

 仕事帰りの慌ただしさを表すスーツ姿は、岬さんを年上でも年下でもなく、「男の人」だと意識させた。

 磨かれていく食器の、カチャカチャとこすれる音だけが静かに響く。

「わわっ、どうしたんですか」

 容赦なく見つめる背中からの視線に気づくと、岬さんは言った。

「いえ、スーツ着てるの初めて見たんで」

「ああ・・・・・・そうですね。初めてですね・・・・・・」

 なぜか岬さんが黙ってしまって、けれど私はそれを不思議には思わなかった。

 洗い物を終えた岬さんはアイスコーヒーを2つ淹れた。

 私はピアノの椅子に移り、ほんの少しだけぬくもりを残したソファには岬さんが座った。

「今日はありがとうございました」

「いいえ、僕のほうこそ」

「何かお礼ができればいいんですけど」

「お礼なら、食事をいただきましたし」

「それは私のついでみたいなものでしたから」

 岬さんは困ったように考え込んで、「それじゃあ、リクエストしてもいいですか?」と言うと、ピアノの上のヒマワリを指差した――のではなかった。


「ピアノを弾いてもらえませんか?」

 と、ヒマワリの下に敷かれたグランドピアノを指して、言ったのだ。



 お互いの目を見合ったまま、しばらくの沈黙。



「ピアノは・・・・・・もう弾けないんです」

「どうしてですか? この間のモーツアルトは本当に素晴らし」

「弾けないんです」

 私は岬さんの言葉を遮るように言った。

 力まかせに出した声がいつまでも響いている。

 やけにセミの声がうるさく聞こえるのは――。

「すみません。なにもお礼ができなくて」

 一瞬の沈黙のあと、

「ノンさんって、律儀ですよね」

 と、岬さんはその場によどんだ空気を払うかのように、明るい声で言った。

「知ってますか? お礼をしなきゃいけないほど助けられたのは、僕のほうなんですよ」

 それ以上は何も言わず、それ以上は何も聞けないような、明るい笑顔だった。




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