頼みごと
この回で望の本名が出てくるのですが、読めないかもなんで先に言っておきます。
「あそう のぞみ」といいます。
岬さんの名前も出てきますが、普通に読んでもらえれば合ってると思います。
今週は行けないの、と姉から電話があって、急いで冷蔵庫を見ると先週の作り置きがほとんどなくなってしまっていた。
もともとそんなに食べるタイプではないけれど、さすがに来週まではもたない。
どうしよう・・・・・・と考えた結果、岬さんに買い物を頼むことにした。
たしか岬さんが来るようになった初めのころ、名刺をもらったような気がする。
そう思い立ってそこらじゅうをあさってみる。
もしかしたら姉が捨ててしまったかもしれないけれど、必要なものだと思ってしまってくれたかもしれない。
私は姉がよくものをしまう棚を開けた。そこには電気やガスなどの使用量が書かれた紙が、月ごとに分けられていた。
こんなのいらないのに、と思いながら奥まで手を伸ばすと、ようやく岬さんの名刺を見つけることができた。
『フラワーガーデン 代表取締役 岬 潤』
という文字が大きく書かれ、その下には住所と電話番号、Eメールアドレスが載っていた。
「代表・・・・・・取締役・・・・・・って、社長?!」
私は思わず叫んでしまった。しんとした1人きりの空間に、久しぶりに自分の声が響いた。
それにしても22歳で社長なんて、岬さんは一体何者なのだろうか。本当に分からない人だなと改めて思う。
けれどまた新しい発見があった。
岬さんのフルネーム。たった2文字で綴られたその名前は、なんだかとっても似合っている。
名前も、彼自身も。
単純なようで、きちんと意味が込められている。
名刺には会社の情報しか載っていないので、仕方なく会社に電話をかける。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルルル
3回目のコールが鳴り終えたとき、受話器をあげる音がした。
「はい、フラワーガーデンです!!」
聞こえてきたのは女の人の、甲高い声だった。若そうな女の人だ。
私は一瞬ひるんで、腰が引けてしまった。
見えないはずの女の人が、まるで目の前に立っているようだった。
「あ、あの・・・・・・」
「はい?」
私は下唇をぐっと噛んだ。
「あの! 岬さんはいらっしゃいますか?」
「オーナーですか?少々お待ちください」
と言って女の人は受話器を置いていった。遠くの方で他の従業員と話す声が聞こえる。
「・・・・・・お待たせしました。すみませんが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、えっと・・・・・・浅羽といいます」
「ただいま代わりますね」
すると音楽が流れ出した。この曲はたしかパッヘルベルの「カノン」だ。
目を閉じると、懐かしさがこみ上げてくる。
小学4年生のころに発表会で弾いた曲だ。
まだ私の人生が、とても順調で明るくて、幸せを感じていたときの。
プツッと途絶えた音楽のかわりに、岬さんの声がした。
「はい、お電話代わりました」
「・・・・・・岬さんですか」
「はい・・・・・・え? ノンさん?!」
岬さんの声は電話を伝って私の耳に大きく響いた。
それだけでなく、電話の向こうでもその声は響いて岬さんは周りの従業員たちに「ごめん」と笑って謝っていた。
「どうしたんですか?! 本当にノンさんですよね?」
「ちゃんと名乗ったはずですけど」
「いや、まさかノンさんだと思ってなかったんで。『あそうさん』って、ピンとこなかったんですよ」
「すいません、突然電話なんかして。しかも会社に」
「いやいや、それよりどうしました?」
「あの・・・・・・」
私はとても言いにくかった。用事というほどのことではないし、まして買い物をお願いしたいという“お使い”を頼むだけなのだ。
「どうしました?」
「・・・・・・お願いしたいことがあるんです」
「なんでしょう?」
「実は、姉が今週は来れないらしくて、その・・・・・・食べるものがなくて」
「そうなんですか? じゃあ何か買っていきますよ。ちょうど今日行こうと思ってたんです。何を買っていけばいいですか?」
「なんでもいいんですけど。野菜とかを何種類か」
「分かりました。7時ごろになるんですけどいいですか?」
「お願いします」
そうして岬さんが両手に大手スーパーの袋を抱えてやって来たのは、7時を少し過ぎたくらいだった。
一度スーパーの袋を玄関に置いて、また外に出て行ったかと思ったら、すぐに岬さんは5度目のヒマワリと一緒に戻ってきた。
「すいません、遅くなっちゃって」
「いいえ、こっちこそ買い物なんか頼んじゃって」
「いや、嬉しかったですよ。ノンさんが頼ってくれたのなんて初めてですから」
と岬さんは笑顔で言った。
「僕も少しはノンさんの特別になれたってことかな?」
私は何も言わなかった。
岬さんも、返事を待っていたようには見えなかった。
「頼んでおいて悪いんですけど、ちょっと買いすぎじゃないですか」
岬さんがキッチンでヒマワリを入れ替えていて、私は床に置かれた袋を開けてみる。
野菜を、とお願いしたのは私だけれど、岬さんは何十種類ものそれを買っていた。さらに肉も動物ごとに、部位別にある。この3つの袋の中だけで、まさに食材の宝庫だった。
「どれが必要か分からなくて、適当に買っちゃったんですよ」
岬さんは照れたように頭を掻いた。
「それにしてもパプリカなんて、イタリア料理作るんじゃないんですから」
私は赤と黄色のパプリカを手にとって岬さんに見せる。
すると岬さんはもう一度頭を掻いた。照れて笑う顔は、なんだか少年のようだった。
「料理しないんですか」
「男の一人暮らしですからね。いつもだいたい外食で済ますんです」
と言いながら、岬さんはいつもの場所にヒマワリを置いた。
5度目のヒマワリも、やっぱりきれいだった。手に持っていたパプリカのつやつやした黄色が、花びらの色とものすごく似ていた。
「今日はもう食べましたか?」
「いいえ、ちょっとトラブルがあって忙しかったんで。これからです」
そう岬さんが言って、私はなんのためらいもなく、口を開いた。
よく考えてみたら大胆なことをした、と思ったのは、岬さんが帰ったあとだった。
「それじゃあ、一緒に食べますか」
岬さんは驚いた顔をしていた。