第2話 悪役の誘拐
白薔薇は、ヘイルヴェルト家の裏門をくぐっても、まだリュシアンの礼装を離してくれなかった。
雨に濡れた黒い上着の胸元へ、細い指が縋るみたいに食い込んでいる。
抱き上げた腕の中で、エルミアはひどく軽かった。戦場帰りの魔法少女なんて、もっと固くて重いものだと思っていたのに、実際は折れそうな肩と熱の残った頬と、湿った睫毛ばかりがやけに人間らしい。
「若様、地下礼拝堂へ」
老家令が先に立つ。
灯りを落とした回廊は静かだった。石壁に染みついた冷気と、地下から上がってくる古い木の匂い。その中で、エルミアの身体だけが妙に熱い。
「……返さ、ないで」
腕の中で、かすれた声がした。
半ば意識を失っているはずなのに、彼女は確かにそう言った。
聖女の笑顔ではない。祭堂で見た希望の顔でもない。ただ焼かれる寸前の女が、最後に掴んだ熱を放したくなくて震えているだけの声だった。
リュシアンは答えなかった。
答えた瞬間、それが約束になる気がした。
地下礼拝堂の扉が開く。
古い聖像、色褪せた壁画、小さな窓、祈りより隠匿のために使われてきた空気。侯爵家の裏仕事を知る者だけが出入りする場所だ。白い寝台はすでに整えられていたが、処分寸前の聖女を寝かせるにはあまりに清潔すぎて、かえって現実味がなかった。
「侍女を二人、信頼できる者だけ呼べ」
「すでに」
老家令が頷くのと同時に、脇扉から年嵩の侍女が二人現れた。どちらも視線を低く保ち、余計な驚きを顔へ出さない。
さすがに慣れているらしい。ヘイルヴェルト家で働くというのは、見てはいけないものを見ても、見なかった顔をする技術込みだ。
「戦装束を脱がせて傷を見ろ。荒い手つきは使うな」
「かしこまりました」
リュシアンが寝台へ彼女を下ろそうとした、その瞬間だった。
エルミアの指が、礼装をさらに強く掴んだ。
白い花弁みたいな魔力が、ほんの薄く指先に滲む。裂くほどではない。だが拒絶の気配としては十分だった。
「や……」
侍女の一人が思わず足を止める。
リュシアンは舌打ちしそうになるのを堪えた。
「エルミア」
名前を呼ぶと、伏せられていた睫毛がかすかに揺れた。
「離さない」
その言い方は、命令でも懇願でもなかった。
眠りの底に沈みかけた少女が、そこだけは譲れないと本能で噛みついている声だった。
可憐なくせに、重い。
そしてたぶん、こういう重さに男は弱い。
リュシアンは一度だけ目を閉じた。
祭堂で自分が何を見て、何を欲しいと思ってしまったのか、まだ皮膚の下に残っている。
それでも今は、怖がっている女を寝台へ置く方が先だった。
「……おまえら、外しておけ」
「若様」
「着替えと湯だけ置いて下がれ。俺がやる」
侍女たちは一瞬だけ視線を交わしたが、すぐに頭を下げた。
布地の着替え、ぬるま湯、薬草、清拭用の布。必要なものだけが揃えられ、脇扉が閉まる。老家令も最後に一礼して、何も言わずに下がった。
礼拝堂に二人きりになる。
雨の音だけが遠い。
「おい」
呼びかけても、エルミアの意識はもう浅いところと深いところを行き来しているらしい。
だが掴んだ手だけは離さない。
仕方なく、リュシアンは自分も寝台の縁へ膝をついた。
片手で彼女の指を一本ずつほどこうとする。すると、そのたびに細い眉が苦しそうに寄り、花弁みたいな魔力がじわりと滲んだ。
「……厄介な」
口ではそう言いながら、もう答えは出ていた。
リュシアンは上着を脱ぎ、寝台脇へ投げた。
残った白いシャツは雨と血で半分濡れている。そのまま彼女の隣へ腰を下ろし、掴まれたままの手首をそっと逆手に取った。
「暴れるな。返さない」
その一言で、エルミアの呼吸がわずかに落ち着いた。
喉元の震えが和らぐ。張りつめていた肩の力が、ほんの少し抜ける。
やはりそうだ。
祭堂で一度起きた現象ではない。彼女の魔力は、自分に触れている間だけ静かになる。
最悪だった。
原作の悪役貴族が、どうしてヒロインたちにとって最悪の男だったのかが、こんな形で証明されるなんて笑えない。
彼女を救えるのは自分かもしれない。
同時に、誰より深く壊せるのも自分だ。
「……ほんとに?」
エルミアが目を閉じたまま、囁いた。
「何がだ」
「返さないって」
声が幼い。
戦場を渡ってきた十八の聖女ではなく、ただの女の子の声だった。
「いまはな」
正直に答えると、彼女の睫毛が少し震えた。
泣いたのかと思ったが、涙は落ちなかった。ただそのかわり、掴む力が少しだけやわらかくなる。
「じゃあ、今だけでもいい……」
唇が、熱に浮かされたみたいに小さく動く。
「ひとりに、しないで」
その一言は、思った以上に深く刺さった。
助けてくれ、ではない。好きだ、でもない。ただ置いていかないでほしい。それだけの願いが、ひどく重い。
リュシアンは黙ったまま、彼女の額へかかった髪を払った。
白金の髪は濡れていて、指に絡むと驚くほど柔らかい。触れられた瞬間、エルミアの肩がぴくりと跳ねたが、拒まなかった。むしろ喉の奥で、安堵に近い小さな吐息が漏れる。
こんな反応をされて、何も感じないほど枯れてはいない。
自分の指先ひとつで落ち着いてしまう女。しかも、誰にも欲しがられないまま処分されるはずだった聖女。
都合がよすぎて反吐が出る。
だからリュシアンは、わざと乱暴に言った。
「泣くなよ。面倒が増える」
「……泣いて、ないです」
半分眠った声で返ってくる。
そのくせ、目尻には薄い涙が溜まっていた。
リュシアンは息を吐き、濡れた戦装束の留め具へ手をかけた。裂けた外套、血のついた白布、焦げた肩紐。侍女を下げた以上、自分がやるしかない。
なるべく見ないようにしながら外していくが、見ない方が無理だった。
戦装束の下の身体は、思っていたよりずっと華奢だった。
鎖骨の下に灰が残り、肩には新しい傷、肋のあたりには古い痣。聖女の装いに隠されていたのは、清らかな偶像ではなく、何度も使われてきた十八の少女の身体だった。
その事実が、妙に腹立たしい。
こんなものを希望と呼んで飾り立て、恋を知っただけで焼く世界の方へ。
「……見ないで」
エルミアが弱く言った。
眠っているくせに、羞恥だけは残るらしい。
「見てない」
「うそ」
「うるさい」
返すと、彼女はほんの少しだけ笑った。
白薔薇の完成された笑みではない。傷ついたまま、安心した時だけこぼれるみたいな、小さくて頼りない笑い方だった。
その方が、よほど可愛かった。
清拭を終え、用意されていた薄い寝衣を掛ける。露出した肩を隠したあとも、エルミアの手はまだリュシアンの手首を離さない。
「若様」
扉の外から、老家令の低い声がした。
「書状です。聖座院より早くも照会が」
「明け方まで待て」
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
あまりにも早い。祭堂から奪った時点で、もう返還戦は始まっている。
正義の側から聖女を奪った代償は、朝になる前からこちらへ届いていた。
それでも、リュシアンは手を引かなかった。
引いた瞬間、彼女の呼吸がまた乱れるのを知ってしまったからだ。
寝台脇の椅子を引き寄せ、そのまま腰を下ろす。
エルミアは半分眠ったまま、彼の手を胸元へ抱え込んだ。そこが一番安全だとでも思っているみたいに。
「……ねえ」
「まだ喋るのか」
そこで言葉が途切れる。
だが、次に落ちた声だけで十分だった。
「……あれ、ほんとじゃなくても、うれしかった」
リュシアンは返事をしなかった。
できなかった、が正しい。
祭堂で彼女を奪うために吐いた最低の言葉が、処分前の聖女には救いみたいに響いてしまった。その事実が、あまりにもこの世界らしくて吐き気がする。
だが同時に、その言葉でしか救えなかったのも本当だ。
「寝ろ」
ようやく絞り出した声は、ひどく低かった。
「明日まで生きてから、また考えろ」
エルミアはもう答えなかった。
代わりに、抱え込んだ手へ頬を寄せる。熱い吐息が手の甲へかかる。その仕草はあまりに無防備で、信頼というより依存に近かった。
こんなふうに眠られたら、勘違いする男が出てもおかしくない。
いや、もう勘違いではないのかもしれない。自分が彼女にとって危険な男であることも、彼女が自分へ寄りかかり始めていることも、何もかも分かりすぎるほど分かっていた。
夜が深い。
礼拝堂の窓へ、遅い雨が当たり続ける。
エルミアの指からようやく力が抜けたのは、空がわずかに白み始めた頃だった。
それでも完全には離れず、指先だけが服の端を摘んだまま眠っている。
可憐で、重くて、どうしようもなく危うい。
そしてもう、祭堂で見ているだけだった頃には戻れない。
リュシアンは濡れた髪をかき上げ、寝台の脇で立ち上がった。
朝になれば、聖座院も《黒曜の庭》も、この少女を返せと言ってくる。
ならその前に決めるべきことは一つだけだった。
救ったのなら、今夜だけで終わらせない。




