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第5話 届かない償い


路地裏は、相変わらず湿っていた。

壁に残る水染みが、夜の気配を引き延ばしている。

「……レン」

名前を呼ぶ声が、少し遅れて届いた。

振り向かなくても分かる。

その呼び方は――

昔と同じだ。

「生きてたんだね」

ミラは数歩離れた場所で立ち止まっていた。

近づこうとして、やめた距離。

それが答えだった。

「……あの時」

ミラは言いかけて、口を閉じた。

代わりに、視線を落とす。

「……あなたを売った」

レンは、初めて彼女を見た。

驚きはない。

怒りも、ない。

「知ってる」

短い返事だった。

ミラの肩が、わずかに揺れた。

「言い訳はしない」

そう言いながら、

指先が強く握りしめられている。

「怖かった。生きたかった。……それだけ」

レンは否定しなかった。

それが真実だと、分かっているから。

「でも」

ミラは一歩、踏み出した。

「それでも、

あなたを売った事実は消えない」

レンの足元で、影が微かに波打つ。

「だから」

ミラは、レンを見ない。

「市場であなたを見たとき……

正直、ほっとした」

「……何に」

「あなたが、

“まだ人間でいてくれてる”ことに」

その言葉は、

慰めのつもりだった。

だからこそ、

レンの胸に刺さった。

「銀貨を出してた」

ミラは続ける。

「子供たちを……助けたんでしょ?」

レンは答えない。

肯定も、否定もしない。

「ねえ」

ミラの声が、少しだけ焦る。

「それでいいの?

そんな力、使って」

視線が、影に向く。

「私は……」

言葉が、途切れる。

「私は、あなたを助けられなかった」

その一言に、

レンの呼吸が一瞬、止まった。

「だからせめて――」

「やめろ」

レンの声は低かった。

ミラが、はっと顔を上げる。

「それは、償いじゃない」

「……っ」

「自己満足だ」

ミラの唇が震えた。

「違う……!」

否定しようとして、

でも言葉が続かない。

「私は、ずっと……」

レンは視線を逸らす。

「俺は一回、ちゃんと守った」

ミラには意味が分からない。

だからこそ、

その言葉が怖い。

「……それで」

ミラは恐る恐る聞く。

「それで、あなたは救われたの?」

沈黙。

影が、レンの足元で静かに広がる。

抑えなければ、滲み出てしまいそうだった。

「救われる必要はない」

レンはそう言った。

ミラの顔から、

期待がゆっくりと消える。

「……そう」

小さく、呟く。

「もう、あの頃のレンじゃないのね」

それは責めじゃない。

確認だった。

レンは答えない。

ミラは一歩、下がった。

「生きててほしかった」

「それだけは、本当」

レンは、初めて言葉を返した。

「生きてる」

「でも」

ミラは笑おうとして、失敗した。

「同じ場所には、いない」

背を向ける。

「……ごめんね」

その謝罪は、

遅すぎて、

でも確かに本物だった。

レンは呼び止めなかった。

影が、足元で蠢く。

(ああ)

思う。

(後悔は、救いにならない)

ミラの足音が、完全に消えた。

レンは歩き出す。

選んだ道は、

もう戻れない場所に続いている。


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