第4話 街はまだ、腐ってる
街が見えたのは、夕方だった。
高い石壁。
煤で黒ずんだ建物。
人の声と、鉄の音と、獣の匂い。
――帰ってきた。
レンは丘の陰から街を見下ろした。
かつて首を刎ねられかけた場所。
自分が“処分される側”だった街。
胸の奥で、何かがざわつく。
恐怖じゃない。
怒りでもない。
もっと冷たい感覚だ。
(……同じだ)
街は何も変わっていない。
人が溢れ、鎖が鳴り、
弱い者が下を向いて歩く。
レンは布を深く被り、街道に降りた。
影を薄く、靴底に貼りつかせる。
人混みに溶け込むように。
通行税を取る門番の衛兵が目に入る。
以前より少しだけ背が高くなったはずなのに、
それでもまだ子供扱いされる体。
「ガキ、金は?」
レンは黙って銅貨を一枚差し出した。
盗んだものじゃない。
森で狩った魔物の牙を、途中の行商に売って手に入れた。
衛兵は興味を失ったように手を振った。
「さっさと行け」
レンは通り抜けた。
心臓が、静かに鼓動している。
逃げる鼓動じゃない。
踏み込むための鼓動だ。
市場は、以前より騒がしかった。
肉屋の血の匂い。
果物の甘い腐臭。
怒鳴り声と、笑い声。
そして――鎖。
子供が三人、台の上に立たされていた。
首に木札。
腕に縄。
「新入りだ!丈夫で安いぞ!」
奴隷商だ。
レンの視線が、自然とそこに吸い寄せられる。
逃げたいわけじゃない。
でも、目を逸らせなかった。
台の端にいる少女。
十歳くらい。
髪はぼさぼさで、片目が腫れている。
ミラと出会った、あの頃の自分と重なった。
(……同じだ)
商人が少女の顎を乱暴に持ち上げる。
「歯も揃ってる、いい商品だぞ!」
少女は歯を食いしばり、
泣かないように必死で耐えている。
その瞬間――
レンの影が、勝手に揺れた。
「……やめろ」
声に出ていた。
小さな声。
でも、確かに。
商人が振り向いた。
「なんだ? ガキが」
周囲の視線が集まる。
レンは一歩、前に出た。
「その子、いくらだ」
商人は一瞬驚いた後、下卑た笑みを浮かべた。
「ははっ、買うのか?
金、持ってんのかよ」
レンは懐から袋を出し、
静かに中身を見せた。
銀貨、一枚。
市場が、少しざわついた。
「……ほう」
商人の目が変わる。
「悪くねぇ。
じゃあ、そのガキ一人で――」
「違う」
レンは即座に言った。
「全員だ」
空気が、凍った。
「……は?」
「ここにいる三人。全員だ」
商人が噴き出した。
「舐めてんのか!銀一枚で三人も買えるかよ!」
レンは一歩、さらに近づいた。
影が、足元で濃くなる。
「なら、こうしよう」
レンは低く言った。
「その銀で一人を“正式に”買う。
残り二人は――」
一瞬、影が伸びた。
商人の足首に、黒い何かが絡みつく。
誰にも見えない。
でも、商人だけは確かに感じた。
「ひっ……!?」
「――逃げたことにしろ」
レンの声は、感情がなかった。
「ここじゃ、ガキ二人逃げるくらい、
よくある話だろ?」
商人は脂汗をかき、周囲を見回した。
誰も気づいていない。
誰も助けない。
いつもの風景だ。
「……チッ」
商人は舌打ちした。
「わかったよ。持ってけ。厄介事はごめんだ」
レンは銀貨を投げた。
そして、台の縄を切った。
「走れ」
少女たちが一瞬戸惑い、
次の瞬間、一斉に駆け出した。
人混みに消える背中。
レンは、しばらくその場に立っていた。
胸が、少しだけ痛んだ。
(……助けた)
たったそれだけ。
世界は何も変わらない。
それでも。
路地裏。
レンは壁にもたれて座り込んだ。
影が静かに収まる。
「……疲れるな」
呟いた、その時。
「――レン?」
聞き覚えのある声。
レンの体が、一瞬で強張った。
顔を上げる。
フードを被った女。
痣の残る頬。
死んだ魚みたいな目。
でも、確かに。
「……ミラ」
街は、腐っている。
そして、
過去も――追ってくる。




