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なお返す影


レンは、崩れ落ちた身体に縋りつくように駆け寄った。

喉が引き攣り、空気だけが荒く吐き出された。

声にならない音が胸を突き破ろうとし、肺が痙攣する。叫びたいのに、意味も言葉も砕け、残ったのは獣じみた呼気だけだった。

失われる予感が全身を満たし、視界が白く飛ぶ。

何かを掴もうとした指は空を切り、絶望だけが確かな重さで落ちてきた。

理解できないまま、何度も、

両手で地面を掴み、頭を垂れる。

額を何度も地面に叩きつける。

鈍音が重なり、痛みも回数も分からなくなる。

息が引き攣れ、喉から意味を持たない音が噴き出す。

視界が跳ね、世界が軋み、思考が粉々に砕け散っ

さらに一度。

音だけが、出た。

叫びにもならない声が、喉の奥で潰れる。

呼吸が乱れ、視界が滲み、世界の輪郭が崩れ。

――影に呑まれていく。

次の瞬間、別の音が割り込んできた。

慌ただしい足音が重なり、周囲から一斉に距離が詰められていく。

発見されたことは、動きだけで十分に伝わっていた。

誰かが位置を知らせ、別の誰かが即座に殺意を共有する。

合図は不要で、役割は瞬時に決まった。

包囲は迷いなく完成へ向かい、逃走や拘束といった選択肢は最初から存在しない。

ここにあるのは、排除するという一つの結論だけだった。

レンは蹲ったまま、顔を上げない。

抵抗の構えも、逃げる素振りも見せない。

その背後で、影がわずかに形を変える。

まるで、その結論をなぞるように。

影が、動いた。

地面に落ちたレンの影が、濃く、異様な形に伸びる。

生き物のようにうねり、最初に近づいた男の足元を絡め取った。

悲鳴が上がるより早く、喉が裂ける音がした。

一人、倒れる。

影は止まらない。

次の影が跳ね、胸を貫き、壁に叩きつける。

肉が潰れる音。

骨が砕ける音。

殺すたび、レンの肌に浮かぶ痣が広がっていく。

腕から、肩、首筋、胸へ。

黒く、太く、全身に広がり、絡みつく。

距離を取った者たちが後退し、近づけば死ぬと悟る。

刃を捨て、唯一残った手段として弓に手を伸ばした。

弓弦が一斉に鳴り、空気が震えた。

放たれた矢が闇を裂いて飛び、影に触れた瞬間、軌道を歪められる。

金属音も悲鳴も続かず、矢は飲み込まれるように消えていった。

影が、蠢く。

一本が二本に、二本が無数に分かれ、触手のように伸びる。

逃げようとする足を絡め取り、引き倒し、床に叩きつける。

悲鳴が、連鎖する。

錯乱した声が、空気を裂く。

影は建物に取りついた。

窓枠を砕き、木箱を割り、壁を這い上がる。

ガラスが割れる甲高い音。

扉が引き剥がされる重い音。

梁が軋み、壁が崩れる鈍い衝撃。

建物内に、影が雪崩れ込む。

逃げ場は、潰されていった。

耳を塞いでも、音は逃げなかった。

悲鳴と破壊音が重なり、室内の空気が震える。

奴隷商は息を詰まらせ、何が起きているのか理解できないまま、ただ立ち尽くしていた。

外から聞こえるのは、悲鳴と破壊音だけ。

窓の割れる音。

床が抜ける音。

人が、潰れる音。

「……どうした」

「何が起きている」

返事は、なかった。

次の瞬間、すぐ近くの窓が爆ぜた。

闇が、室内に流れ込む。

悲鳴が重なった。

窓際にいた数人が、闇に掴まれ、引きずられる。

床を擦る音、爪が空を掻く音。

次の瞬間、肉が裂け、骨が砕ける湿った音だけが残った。

「めんどくせぇ」

吐き捨てるように言って、一人が走り出した。

それを合図に、他の部下も次々と逃げ出す。

奴隷商も、走った。

肺が焼け、足がもつれる。

背後から、確実に何かが迫ってくる。

影だ。

奴隷商は足をもつれさせ、壁に肩を打ちつけた。

呼吸は荒く、喉から掠れた声が漏れる。

振り返るたび影が近づき、叫びは泣き声に変わっていった。

「誰か」「誰か助けろ」

前方に、人影を見つける。

連絡係だった。

名を呼ぼうとして、気づく。

――名前を知らない。

背後で、影が床を叩く音がした。

連絡係が振り返り、状況を理解する。

彼は、一瞬だけ歯を食いしばり、扉に手を掛けた。

影の触手が、すぐそこまで迫る。

「おい、閉めるな」 「ま、待て、止まれ」

怒鳴り声は次第に掠れ、懇願に崩れる。

命令すれば従うはずだと信じ、同時に縋るように叫び続けた。

叫びは、届かなかった。

連絡係と、目が合う。

その目には、恐怖も、迷いもなかった。

“在庫”を見る目だった。

扉が、閉まる。

世界のすべてが、黒く蠢くものに飲まれる。

――名を、返せ。

その声だけが、世界の奥から響いた。

重い音が、通路に響く。

影が、扉に叩きつけられる。

木が軋み、ひびが走った。

その向こうで、レンの影は、まだ、止まっていなかった。

影は床を這い、壁を登り、天井を覆い尽くす。

倉庫の外へ溢れ、路地を呑み、建物を跨ぎ、街路へと広がっていく。

異変に気づいた人々が足を止め、次の瞬間には走り出す。

叫び声が連なり、物が倒れ、灯りが消える。

押し合い、転び、振り返ることなく逃げ惑う群れの上を、闇が覆っていった。

影の奥で、声にならない衝動が脈打つ。

呼び返すはずの名は、もう形を保っていない。

守り続けた末に削れ落ち、

そこに在った痕だけが、影の奥に残っている。

ミユナの血が冷えた地面の上で、

レンは名を手放し、世界は、完全に壊れ始めていた。

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