影が目覚める前に
自分がずっと恐れていたことが、ついに始まってしまったのだと、ミラは遅れて気づいた。
取り返しのつかない選択を重ねてきた、その結果が、いま目の前に横たわっている。
後悔が胸を締めつける。
それでも――この子だけは、一人にできない。
ミラは一度だけ目を閉じ、数を数えるように呼吸を整えてから、地面に座り込んだままのカイにそっと声をかけた。
「……カイ」
少年は微かに顔を上げる。意識はある。だが焦点が合っていない。
かすれた声で、ほとんど吐息のように呟いた。
「……お兄、ちゃん……」
その一言で、ミラの覚悟は固まった。
ミラは兄の亡骸に背を向け、しゃがみ込む。細い腕で身体を担ぎ上げた瞬間、想像よりも重みが腕にのしかかり、膝がわずかに沈んだ。
「一緒に行きましょう」
それは命令でも、慰めでもない。
ただ、当たり前のことを言うような声だった。
カイは目を見開いた。
兄を背負うミラの姿が、信じられなかった。
泣き出しそうになる唇を噛みしめ、
必死に涙を堪えている。
ミラの家へ向かって歩き出す。
朝の光が路地に差し込み、どこもかしこも見慣れたはずなのに、今日はやけに遠い。
立ち止まるたび、呼吸を整え。
足音と布擦れの音だけが大きく響いた。
「……無理に話さなくていいからね」
しばらく歩いてから、ミラはそう言った。
「でも、もし話せそうなら……何があったのか、教えてほしい」
カイはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりぽつりと、言葉を落とす。
レンとミユナのことを話したこと。
殴られて、全部話してしまったこと。
それでも終わらず、追いかけられたこと。
ミラは一言も遮らなかった。
「……レンは?」
そう尋ねると、カイは首を振った。
「助けてくれた……それは覚えてる。でも、その後のことは……思い出せない」
ミラは一瞬、目を伏せる。
「話してくれて、ありがとう」
そして、ほんの少しだけ声を震わせて続けた。
「……ごめんね」
家に着くと、ミラは兄の亡骸を丁寧に床へ下ろした。
まるで眠っているかのように、布を整え、手を胸の上で組ませる。
そのときだった。
窓の外。
空を覆うように、大きな影が揺らめいた。
ミラは息を呑み、目を見開く。
説明できない確信が、背筋を駆け上がった。
(……レン)
隣を見ると、カイも同じ方向を見つめていた。
何も言わない。だが、同じものを感じ取っているのが分かる。
ミラは立ち上がり、カイの前に膝をついた。
「ここにいて」
視線を合わせ、強く言う。
「すぐ戻るから」
カイは不安そうにミラの目を見る。
小さな手が、服の裾をぎゅっと掴んだ。
ミラはその手をそっと包み込み、微笑んだ。
――大丈夫。
そう言う代わりに、ミラは立ち上がり、闇の中へ向かって歩き出した。
空の影は、まだ揺れていた。




