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数えない袖

ここまでお読み頂きありがとうございます。

感情的に重い出来事や心を揺さぶる描写が含まれています。読む際はご自身の心の準備をしてお進みください。


東の倉庫裏。

裏のさらに奥。

レンは、頭の中で条件をなぞる。

通りから見えない位置。

人の出入りが少ない。

壁の影が深く、光が届かない。

足を止め、耳を澄ます。

見張りの声は、遠い。

――ここだ。

腹の奥が、じくりと痛んだ。

血は止まっていない。服の内側が重く、歩くたびに張りつく。

それでも、止まる理由にはならなかった。

影に溶けるように踏み込み、壁の欠けた場所を覗く。

そこに、ミユナがいた。

縛られてはいない。

傷も、目につくほどではない。

ただ、意識が薄く、力を失った人形のように横たわっている。

――間に合った。

そう思った瞬間、視界が揺れた。

膝が一瞬、折れかける。

「……ミユナ」

声に出して、自分を保つ。

反応はない。

もう一歩近づく。

肩に手を伸ばし、揺らす。

「ミユナ。起きろ」

返事はない。

呼吸は、かすかにある。

ここは長くいられない。

レンは歯を食いしばり、ミユナを背負った。身体が軽すぎて、胸の奥が嫌な音を立てる。

立ち上がった瞬間、視界が暗くなった。

踏ん張り、影へ戻る。

走る。

ただし、全力ではない。

曲がり角ごとに止まり、壁に体をよせ、音を聞く。

人の声。足音。金属の擦れる気配。

――まだ、来ていない。

体力が削られていくのが分かる。

呼吸が浅く、肺が熱い。

背中で、微かな動きがあった。

次の瞬間、嗚咽が漏れる音がした。

小さく、堪えきれずに溢れた声。

背中が、温かく濡れる。

――起きた。

ミユナの涙が、レンの首筋を伝った。

抱きつく力は弱い。それでも、確かに生きている重さだった。

「……ごめんね」

「……ありがとう」

小さく、ほとんど息に混じる声。

レンは足を止めかけ、すぐに思い直す。

振り返らず、声だけを返した。

「……遅くなってすまない」

「体は……動くか」

返事は、すぐには来ない。

背中で、ミユナが小さく首を振るのが分かった。

「今は……安全な場所へ行く」

そう言った直後、足がもつれた。

視界が傾く。

膝が地面に触れる前に、なんとか踏みとどまる。

血が、また落ちた。

その動きで、ミユナが気づいたのだろう。

背中で、慌てた気配が伝わる。

次の瞬間、腰に回っていたミユナの手が、そっと外れた。

代わりに、レンの腰元に指が伸びる。

「……レン」

「自分で……走れる」

震える声。

それでも、はっきりした意思。

レンは一瞬、黙り、頷いた。

ミユナを降ろす。

地面に足がつく。

ミユナはふらつき、レンの袖を掴んだ。

すぐに、その手を離す。

レンは、路地の奥に視線を走らせた。

屋根の影、割れた木箱、その向こう。

何も、動かない。

振り返る。

ミユナは、数歩、距離を取っていた。

泣きながら笑っているような顔。

「……手を」

「離すな」

レンがそう言い、歩み寄ろうとした瞬間。

ミユナは、短剣を自分の首元に当てた。

時間が、止まった。

レンは、理解できず、動けなかった。

涙が落ちる。

それでも、ミユナは笑っていた。

幸せそうで、悲しそうで、全部が混ざった顔。

「……二人を」

「……許してあげて」

声は、震えていなかった。

次の瞬間。

短剣が、深く突き立てられた。

レンが名前を呼ぶより早く、ミユナの身体が崩れる。

血が、暗い地面に広がる。

レンは、動けなかった。

手を伸ばすことも、声を出すこともできず、ただ立ち尽くした。

影だけが、二人を覆っていた。

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