感謝
一度掲載順を間違えました。
読んでしまわれた方申し訳ないです。
ガキをを連れて動いたのは、衝動じゃない。
同僚の気配が薄い場所を、前から把握していただけだ。巡回の癖、立ち止まる位置、目線の高さ。全部、帳簿みたいに頭に入っている。
だから、そこに置いた。逃げやすい場所。見つかりにくい影に。
――あとは、時間の問題だった。
レンが来た、という報告が入る。
空気が変わる。倉庫全体が、わずかに張りつめる。
奴隷商は椅子に座ったまま、顔も上げずに言った。
「従え」
レンは黙っている。
「ミユナの姿を確認させろ」
短い応酬。想定通りだ。
「体調が悪いようだが、大丈夫か」
影がざわめく。
その一言で、確信した。
――来た。
俺は入口に立った。
不自然なくらい、堂々と。
様子を見るためじゃない。
見るためだ。
“阿呆面”を。
心臓が、うるさい。
どくどくじゃない。ばくばくでもない。
もっと軽くて、速い。
期待で、弾んでいる。
横目で、相方がこちらを見る。
――何だ? という顔。
いい。いい反応だ。
そのまま混乱しろ。
「おい。ガキを連れてこい」
奴隷商の声が飛ぶ。
相方の思考が、俺から離れるのが分かる。
視線が外れる。意識が切り替わる。
完璧だ。
相方が奥へ向かう。
その背中を見ながら、俺は笑いを噛み殺した。
まだだ。
まだ、だ。
数拍。
戻ってきた相方の顔を見た瞬間、腹の奥がひくりと跳ねた。
――もう可笑しい。
必死に口元を押さえる。
相方と目が合う。
ああ、駄目だ。限界が近い。
「……居ません」
相方の声が、少し裏返る。
空気が固まる。
「……は」
奴隷商の声。
間。
もう一度。
「……居ません」
相方の声が、わずかに震えた。
「……は」
次の瞬間、相方が吹き出した。
短く、堪えきれずに。
慌てて口を押さえるが、もう遅い。
その音が引き金だった。
胸の奥で張りつめていたものが、切れる。
俺は、耐えきれなかった。
「っ、ひ……ひは……っ」
喉が鳴る。
笑いが漏れる。
肩が、勝手に震える。
――ああ、見えた。
想定外の顔。
俺は、走り出した。
入口から。
笑いながら。
後ろを振り返らない。
だって、もう見たからだ。
俺は笑いながら、
生まれ初めて神に“感謝”した。
椅子が蹴られる音。
「――全員、殺せ」
遅い。
全部、遅い。
俺が蹴り出した瞬間、背後で空気が裂けた。
――来た。
足音が増える。一つじゃない。重なって、追ってくる。でも、分かっていた。追ってくるのは、あいつだけだ。
走りながら、さっきの光景が頭に焼き付いて離れない。椅子に座ったまま、固まっていた糞の顔。あの、理解が追いつかない間抜け面。俺は、それを思い出すたびに喉が鳴った。
可笑しい。可笑しくて、たまらない。
肩が揺れる。笑いが、勝手に込み上げる。息を吸うと、肺が痛んだ。吐こうとしても、笑いが邪魔をする。
「……っ、く……っ、は……っ……」
息が、うまく入らない。胸が締めつけられる。それでも、止まれなかった。
背後で、影が伸びる気配がした。地面を這うように、壁を舐めるように。ああ、来たな。
追いつかれる。それは、想定内だった。
影が、足元に触れる直前。俺は振り返りもせず、吐き捨てるように言った。
「……感謝しろよ」
声が、笑いで歪む。
「俺が、逃がした」
影が、一瞬だけ止まった。次の瞬間、すぐ背後で声が落ちる。
「ミユナは、どこだ」
低い。余計な音が、何一つない。笑いが、少しだけ引いた。
それでも、俺は止まらない。振り返らない。代わりに、勝手に口が動く。
「ノアだ」
名を告げる。初めて会った相手にする自己紹介としては、最悪だろうな。
「さっきの顔、見たか?」
息が乱れる。それでも、言葉を重ねる。
「糞のやつの顔だ」「俺のおかげだぞ」
「想定外ってやつだ。あれ」
影が、じり、と距離を詰める。圧が、背中に刺さる。
「……次はない」 「ミユナは、どこだ」
今度は、はっきりとした殺気が混じっていた。ああ、そうだ。こいつは、そういう奴だったな。
俺は、ようやく立ち止まった。笑いが、少しだけ収まる。息を吸う。今度は、ちゃんと肺に入った。
「……大丈夫だ」
声が、やけに落ち着いているのが自分でも分かる。
「東の倉庫裏だが、裏のさらに奥だ。」 「見張りが一番薄い」 「影になる壁があって」 「子供なら、隠れられる」
――まだ、そこにいればの話だがな。
口には出さない。 出す理由も、義理もない。あいつが間に合うかどうかは、もう俺の仕事じゃない。
影が、俺の足元から離れた。次の瞬間、風が抜ける。
レンは、もう前を向いていた。俺には、もう興味がない。
それでいい。
背中を見送りながら、俺は、まだ少しだけ笑っていた。
――感謝、か。
この街じゃ、それは、祈りでも救いでもない。
ただ、阿呆面を見るための、合図だ。




