生きている価値
連絡係が戻ってきたのは、予定より早かった。
息は乱れていない。
怪我もない。
――生きて帰ってきた、という事実だけで十分だった。
「……レンは?」
短く問う。
声に熱はない。
必要がないからだ。
部下は一瞬だけ視線を伏せ、それから淡々と報告した。
「負傷し逃げました。
こちらの手からは、一度」
奴隷商は、鼻で短く息を抜いた。
驚きはない。
苛立ちも、まだない。
逃げる可能性は最初からあった。
だから“条件”を足した。
――もし逃げられたら、場所を伝えろ。
あれは亜人を助けるための言葉じゃない。
レンを導くための言葉だ。
こちらへ来る理由を、相手の足元に置いておくための餌。
「亜人どもは?」
「四人。
牽制だけして、引いています」
四人。
その数を、頭の中で転がす。
亜人の村は大軍では動かない。
動けない。
規定がある。
領主の目がある。
村は重い。潰れるのを恐れている。
だから来るのは、せいぜい四人。
覚悟だけで選ばれた有志だ。
殺すための刃。
――最初から、亜人は殺すと言っていた。
生かすつもりなどない。
交渉の余地もない。
あれはただの処理だ。
だから奴隷商は、金を足した。
条件を増やした。
「できれば生きたままで」
価値があるのは、死体ではない。
生きて動く在庫だ。
壊れてしまえば値は下がる。
壊すのは最後でいい。
使い切ってからでも遅くない。
「……どういう状況だ」
奴隷商が問うと、連絡係は少しだけ言葉を探した。
「頭領が……手を止めました。
殺せる距離まで詰めたはずです。
でも、逃がした」
止めた。逃がした。
その報告は、紙の上に落ちた染みのように広がった。
奴隷商は目を細めた。
亜人の頭領は、揺れる男ではない。
村のためなら切る。
切って、背負わない。
そういう種類のはずだ。
なのに逃がした。
理由は一つしかない。
(……短剣か)
レンは何かを持っていた。
そういう情報だけは入っていた。
刃物一本で状況が反転するほど、デカブツは軽くない。
軽くないのに、止まる。
なら、それは“刃物”ではない。
それは“証拠”だ。
過去だ。
名前だ。
村が捨てたものの残骸だ。
奴隷商は、口元をわずかに歪めた。
面白い。
「正直、思ったほどではないな」
呟く。
四人相手に敗走。
普通なら死んでいる。
鎖もある。準備もある。
――それでも生きている。
なら、悪くはない。
生きているというだけで、価値が残る。
在庫は、壊れる前が一番高い。
(役に立たないなら、殺せばいい)
報奨が出る。
危険な影を消したと、上が喜ぶ。
手間の分、金になる。
損はない。
奴隷商は椅子にもたれ、指先で肘掛けを叩いた。
音は軽い。
軽いまま、頭の中の帳簿だけが動く。
生かして従わせる。
従わないなら売る。
売れないなら殺す。
殺せば報奨。
どの道にも金がある。
数字が合えば、それでいい。
「人員を散らすな」
部屋の隅に控えていた部下たちが、背筋を伸ばす。
「全員……ではない。
俺の周りだけ固めろ」
一箇所に集めるのは、戦うためではない。
守るためだ。
無駄死にはさせない。
在庫は勝手に減らさない。
減らすのは必要になった時だけ。
そしてその“必要”は、いつも相手が運んでくる。
「通路を塞ぐな。
階段も完全には固めるな」
部下が僅かに眉を動かす。
疑問。
だが口には出さない。
「来る道は残せ。邪魔をするな。
……どうせ来る」
レンは来る。
それだけは疑いようがなかった。
影は引き返さない。
一度、逃げたならなおさらだ。
逃げた先に理由がなければ戻る。
戻る先に餌があれば来る。
単純だ。
扉は閉める。
だが閉じ切らない。
逃げ道を塞ぐのではない。
入口を「こちらの都合」に変える。
部屋は静かになった。
灯りが揺れ、壁に影が落ちる。
奴隷商はゆっくりと指を組んだ。
在庫は生きている。
生きている限り、価値がある。
レンはその価値を取りに来る。
だから交渉する。
「従え」
一言でいい。
捕えた在庫を見せ、条件を並べる。
従うなら――在庫が増えるだけだ。
従わないなら、今ある在庫を売る。
そして、レンは殺す。
報奨で帳尻を合わせる。
どちらでも利益は残る。
感情はいらない。
必要なのは数字だけだ。
扉の向こうで、何かが壊れる音がした。
遠くで短い悲鳴。
そして、それを押し潰す足音。
近づいてくる。
迷いのない速度。
影の重さ。
奴隷商は、初めて笑った。
――待っていた。
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