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名前を呼ぶまで




仕事に出る時間は、いつも同じだ。

朝の光が路地の奥まで届く少し前、空気がまだ冷たい頃。

ミラは戸を閉めながら、視界の端で動く影を捉えた。

レンだった。

路地の奥から、ほとんど飛び出すように走り出していく。

足取りが速い。迷いがない。

それなのに、決意と焦りが、同時に滲んでいる。

喉の奥で、音にならない何かが引っかかった。

声は出なかった。

呼び止める理由も、言葉も、見つからない。

ただ、胸の奥がざわついた。

嫌な予感だった。

理由はない。けれど、無視してはいけない種類の感覚だ。

ミラは仕事場とは逆の方向へ、足を向けた。

路地に入った瞬間、空気が変わる。

生き物の気配。

そして、鼻を刺す匂い。

血だ。

新しい血と、時間の経った血。

そこに、獣の唾液が混じっている。

足が、わずかに鈍る。

だが、引き返すという選択肢はなかった。

路地の奥。

そこに、野犬がいた。

一匹、二匹――いや、もっといる。

その中心に、倒れている男の身体。

喉元は裂け、すでに動かない。

誰なのかはわからない。

けれど、見た瞬間に理解してしまった。

――レンがやった。

理由も事情も知らない。

それでも、そうだとわかる。

そして、その横に。

男から距離を取り、真ん中で、倒れた身体に縋るように膝をつき、

呼びかけようとした形のまま、止まっている。

目を開いたまま、動かない。

生きている。だが、どこにも焦点が合っていない。

視界の端で、野犬が動いた。

二匹が、死体と小さな身体へ向かって距離を詰める。

ミラの足が、地面を蹴っていた。

考えるより先に、身体が動く。

地面を蹴る。

一瞬で距離を詰める。

野犬が、男の身体に噛みつこうとした、その刹那。

ミラの踵が横合いから叩き込まれた。

骨に当たる感触。

犬は悲鳴を上げ、吹き飛ぶ。

同時に、別の一匹が跳んだ。

牙が左腕に食い込む。

鋭い痛みが走る。

だが、止まらない。

右腰からナイフを引き抜き、

躊躇なく、犬の首元へ突き立てる。

一度。

確実に。

犬の力が抜け、地面に崩れ落ちる。

残った二匹――

死体を食んでいた犬と、蹴り飛ばされた犬が、低く唸り、距離を取る。

そして、逃げた。

路地に残ったのは、血の匂いと、静寂だけだった。

ミラは息を整え、左腕を押さえる。

痛みはある。

だが、それよりも――

震えている少年が、目に入った。

泣いている。

声もなく、ただ涙だけが、頬を伝って落ちている。

ミラは少年の前に膝をつく。

自分が、間違っていた。

考えるより先に、そう思った。

胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。

見ないふりをしてきた。

触れなければ、傷つかずに済むと信じていた。

関わらなければ、何かを守れているつもりだった。

――違う。

逃げただけだ。

その逃げた先に、これが残った。

動かない身体と、

泣いているのに、どこにも向いていない視線。

吐き気が込み上げる。

息が浅くなる。

自分が、ここに立っていることすら、赦されない気がした、

関わらないことで、何かを守っているつもりだった。

結果が、これだ。

「……大丈夫」

自分に言い聞かせるように、そう言った。

少年の目が、わずかに動く。

「名前は?」

しばらく間があって、掠れた声が返ってきた。

「……カイ」

その名を、ミラは確かに受け取る。

「私はミラ」

そう名乗ってから、少しだけ微笑む。

「カイ、いい名前ね」

路地の奥で、朝の光がようやく差し込み始めていた。

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