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帳簿の外で鳴る鐘


見張りを交代して、ようやく口にものを入れた。

硬い干し肉を噛むたび、歯の隙間に塩が残る。舌がひりつく。喉が渇く。水はぬるい。だが飲まなければ噎せる。飲み込むたびに胸の奥が静かになるのは、満たされたからじゃない。生きている証拠を、ただ確認しているだけだ。

倉庫の裏は相変わらず臭い。

糞の匂いと、湿った木材の腐り、血の気配。

この場所は何でも飲み込む。叫びも、命も、名前も。

飲み込んで、平気な顔をする。世界そのものがそういう顔をしている。

椅子に腰を下ろした瞬間、人影が戻ってきた。

細い影。足取りが軽い。胸の前に抱えるものはない。荷を運んでいるわけじゃない。報告だけを持って帰ってきた足だ。

――糞の部下。

亜人が“影使い”を襲った時の状況を拾うために、外に置いている監視。

無駄がなくて、腹が立つほど手際がいい。

その影が戻っただけで、心臓が一度だけ跳ねた。

期待。

気持ち悪い言葉だ。

だがこれ以外に、この胸の動きを言い表せない。

急いでいるのに、乱れていない。

慌てているのに、余計なことをしない。

つまり、状況は“良い”。

レンが来る。

来てしまう。

こいつは来る。

糞は笑わない男だ。笑わないくせに軽い。

軽いから、面白がる。

面白がりながら、自分の靴は汚さない。誰かの骨を踏ませ、誰かの血で遊ぶ。そういう軽さだ。

そして周りの連中も無駄に賢い。最短で命令に従う。最短で人を壊す。

連絡係は真っ直ぐ糞の部屋へ向かった。足取りが迷わない。報告は一つ。だから行動も一つ。

こちらは立ち上がる。

干し肉の油が指に残っている。袖で拭う。

状況を知りたい。

いや、知りたいんじゃない。確かめたい。

歯車が噛み合う音を聞きたい。世界が軋む瞬間を、外側から眺めたい。

糞溜まりの近くを通る。臭いが強い場所は、逆に人の気配が薄い。誰も長く居たがらない。だから近づいても気づかれにくい。鼻が慣れると、世界が少し平気になる。平気になるのが一番怖いのに、平気になる。

壁に背をつけ、耳を寄せた。

声はくぐもる。言葉は途切れ途切れで全部は拾えない。

だが、糞の声色だけで分かる。

あの“温度が上がる前の軽さ”。

怒っていない。喜んでもいない。

在庫が揃う瞬間を待っているだけだ。

――来る。

口の端が上がる。

誰にも見られていないのに、表情だけが先に動く。

来るなら。

来るなら、どうして来る。

普通なら来ない。普通なら逃げる。普通なら見捨てる。

頭がおかしい。

そして、来ると分かった瞬間に心が軽くなるこちらも同じだ。

喉の奥で笑いが転がる。乾いた音が胸の内側で響く。

戻る。

扉の前には別の見張りが座っていた。槍を膝に乗せ、椅子に浅く腰掛けている。眠そうな顔。面倒そうな顔。楽しんでいない。仕事としてやっている。世界に潰されないために、世界の一部になっているだけだ。

その横に立ち、交代の気配を落としたまま近づく。

相手の目が上がる。

だるそうな動き。だが反応は早い。無駄に賢い。

声の温度を落とし、糞の命令を借りる。

正義ヅラ。正当性の仮面。

“命令だから仕方ない”という顔を作るための言葉。

足を折れ。

折る気なんかない。

折ったら終わる。終わったら崩れない。

見たいのは終わりじゃなく、崩れていく途中だ。

だが、その命令を口にすれば交代が成立する。

ここから先の破綻が、こちらのせいじゃなくなる。

糞のせいになる。

誰の責任でもなくなる。

相手の顔がわずかに歪む。

嫌悪。怠さ。面倒。

それでも立ち上がる。命令だからだ。

理由なんかいらない。理解もいらない。

見送る。

使える。

使われることに慣れたやつは、扱いやすい。

鍵に触れる。冷たい。金属の温度は平等だ。人間にも亜人にもガキにも。

鍵を回し、倉庫の中へ入る。

暗い。湿った木の匂いが濃い。

奥で鎖が擦れる音がした。

ガキがいる。壁際。足を縛られ、座らされている。目は開いているが焦点が定まらない。怯えすぎるとこうなる。泣きもしない。叫びもしない。壊れかけのものは静かだ。

一歩踏み込むと、ガキがびくりと震えた。

分かるんだな。

誰が入ってきたか。どんな目をしているか。

その理解の速さがいい。

怖がる必要はない。

怖がらなくても、世界は壊れる。

昂ぶりが腹の底から湧く。ぞくぞくする。

この瞬間が好きだ。相手が分かっているのに、どうにもならない顔。

だが今日は、そこが目的じゃない。

今日は壊す側に回る。

壊される側じゃない。

しゃがみ、縄に指をかけた。固く縛られている。血が止まっている。

このまま放っておけば、折らなくても壊れる。

それでもいい。

だが、それじゃ遅い。遅い崩壊は面白さが薄れる。

指に力を込める。結び目を探し、ほどく。

少しじゃない。緩めるんじゃない。

完全に解く。

逃げられる希望だけ残す?違う。

逃げられる現実を渡す。

逃走が起きれば、現場が崩れる。

倉庫が崩れ、配置が崩れ、命令が崩れ、帳簿が崩れる。

そうなれば糞の阿呆面は確定だ。

縄が解けた瞬間、ガキの足がわずかに動いた。痺れで震える。血が戻って痛みが走る。

目が揺れる。

理解できない。理解できるはずがない。

慈悲に見えるだろう。

優しさに見えるだろう。

違う。これは起爆装置だ。

耳元へ身を寄せる。囁きは慈悲じゃない。導火線に火をつけるだけだ。

逃げろ、と言わない。

逃げろ、と聞こえるように言う。

世界がそう聞き取るように、言葉を落とす。

呼吸が乱れる。

名前を呼ぶ必要はない。

名前なんか、ここでは価値がない。

価値は“誰が取りに来るか”で決まる。

そして今、取りに来るやつがいる。

怪我を抱えたまま、なお来るやつがいる。

外で足音が増えた。走る音。武器が擦れる音。乾いた笑い。

恐怖じゃない。

これは開幕の鐘が鳴る音。舞台が整う音。

世界が崩れる前の、最初の一打。

扉の隙間に耳を向ける。

空気がひび割れていくのが分かる。

それを押し潰すような重い足音。

影が来る。

来てしまう。

来ると分かっているのに、胸の奥が軽い。

舌の上で、レンという名前を転がした。

軽い。軽いくせに泥の匂いがする。

あいつは汚れたまま来る。

汚れたまま、正しいことをしようとして、全部を壊す。

笑った。

悪役の笑いじゃない。

システムの内側に混ざった異物が、破壊の瞬間を待つ笑いだ。

さぁ。

始まれ。

始まってしまえ。

――お前らの計算が、狂う顔を見せろ。

(作者より)

「帳簿の外で鳴る鐘」

この回は、善悪で言うならたぶん“悪”の側にいる人間の目線です。

でも、悪役を描きたいわけじゃない。

人を数字にして、在庫にして、命を誤差にする。

そうやって世界を回してるシステムがあって。

その中で生きる人間がいて。

その中に、ひとつだけ“異物”が混ざっている。

正義じゃない。慈悲でもない。

ただ、壊れる瞬間が見たいだけ。

帳簿の中で整っているはずの計算が、ズレる音が聞きたいだけ。

レンが来る。

来てしまう。

来ると分かっているのに、胸の奥が軽い。

この物語の鐘は、誰かを救うために鳴ってるんじゃない。

崩壊が始まる合図として鳴っている。

次は、帳簿の上に“あり得ない誤差”が増える回です。

どうか、阿呆面を見届けてください。

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