過去は、足音を立てない
レンは走った。
考える前に身体が動いていた。足が地面を叩き、肺が焼ける。呼吸が乱れる前に、速度だけを保つ。
いつもは使わない道を選ぶ。
人の気配が薄く、舗装もされていない。枝を折り、草を踏み倒し、無理に身体を通す。最短距離だけを頭に描き、他を切り捨てる。
途中、兄弟に食事を渡す場所が視界に入る。
一瞬だけ、目を走らせる。
――いない。
立ち止まらない。探さない。今は違う。
ミユナが拠点にいれば、それでいい。
弟に会わせる。それでいい。
それ以上は望まない。
これ以上は、間違えない。
街に出ると、人の視線が刺さった。
走る理由を持たない者の視線だ。
いぶかしげに、警戒するように、あるいは面白がるように。
レンは気に留めない。
足だけが答えを知っている。
拠点が見えた。
胸の奥が、一瞬だけ軽くなる。
――違う。
静かすぎる。
人の出入りの気配がない。
風の流れが、不自然に途切れている。
罠だ、と理解した時には、もう踏み込んでいた。
視線の端で配置が見える。
逃げ道を潰す動き。
内側を押さえる配置。
その瞬間、理解が追いつく。
――亜人集落。
あの動き。
間合いの取り方。
殺しに来ているのに、無駄がない。
一瞬、身体が止まった。
躊躇だった。
自分は、奪って逃げた側だ。
壊して、背を向けた側だ。
その一拍を、見逃されなかった。
白い光が叩きつけられる。
視界が焼ける。
影が、悲鳴を上げた。
影は、レンの一部だった。
呼吸の延長で、思考の先で、当たり前に従っていたもの。
それが、拒んだ。
光が影に触れた瞬間、鋭い痛みが走る。
皮膚でも、骨でもない。
もっと内側――存在そのものを削られる感覚。
危険だ、と本能が叫ぶ。
このまま使えば、影そのものが壊れる。
レンは影を引き戻した。
世界が、急に重くなる。
逃げる。
踵を返した先に、部下がいた。
二人、三人。
完全に道を塞いでいる。
呼吸が荒れる。
腕が震える。
それでも、足は止まらない。
レンは腰に手を当てる。
引き抜いたのは、短剣。
カイの形見。
あの夜、血に濡れて残った刃。
考えはない。
生きたい、という衝動だけが身体を動かす。
斬る。
避ける。
押し返す。
死に物狂いだった。
美しさも、正しさもない。
ただ、生き延びようと足掻く。
衝撃。
視界が回転する。
押し倒された。
背中を地面に叩きつけられ、息が詰まる。
上から、影が落ちた。
刃が交差する。
レンの短剣を、頭領の剣が押さえ込んでいた。
力が違う。
技量も、経験も。
――ここで、時間がわずかに引き延ばされた。
頭領は、剣を押さえたまま、相手を見下ろしていた。
人間だ。
細く、血にまみれ、息が荒い。
短剣を弾き飛ばさなかったのは、偶然じゃない。
刃に触れた瞬間、違和感があった。
欠けている。
手入れも十分じゃない。
だが、扱いは丁寧だ。
無意識に、守るように握っている。
頭領は目を細める。
刃文の位置。
柄の擦れ。
――お前は、引き受けたのか。
空気が、わずかに緩む。
「……その短剣」
声は低く、抑えられている。
「どうした」
レンは息を整えようとする。
できない。
胸が、焼けるように痛む。
それでも、答えた。
「……生きて」
声が掠れる。
言葉が足りない。
「救う」
それだけで、十分だった。
頭領の手が、止まる。
刃にかかる圧が、わずかに抜ける。
視線が、レンの顔に移った。
探るように、測るように。
頭領は剣を引いた。
「東の倉の裏だ」
それだけ告げる。
理由は語られない。
取引も、規定も、口にしない。
短剣を握り、生きようと足掻く姿だけを見ていた。
「行け」
命令でも、許可でもない。
選択だった。
レンは立ち上がる。
一度だけ、頭領を見る。
感謝は言わない。
約束もしない。
走り出す。
背後で、拠点の空気が変わる。
何かが、決定された気配。
レンは振り返らない。
短剣を強く握り、前だけを見る。
――それでも、追ってくる。
過去は、足音を立てない。
だが、必ず背後にいる。
カイの夜。
奪った命。
救えなかった手。
逃げても、選んでも、消えない。
レンは走る。
過去を振り切るためではない。
それを背負ったまま、生きるために。
この話は「過去を消す物語」ではなく、
消えないものを抱えたまま、どう生きるかを描いています。
選ばなかった道も、切り捨てたものも、
追ってこなくなることはない。
それでも人は、走り続けるしかないのだと思います。
少しでも何かが残ったなら、嬉しいです。




