耳の欠けた少年
レンは影のように息を潜め、
亜人の集落の外周を地面に這うように移動した。
三日連続だ。
干し肉を二切れ、果物を三つ。
いつもの小屋の裏。
決まった手順で、素早く袋に放り込み、すぐ離れる。
心臓はまだ騒がしい。
だが、体はもう覚えていた。
最初の頃は、毎回汗でびっしょりになり、
手の震えが止まらなかった。
音に過敏になり、枝が鳴るたび身を竦めた。
――今は違う。
足が、勝手に動く。
立ち止まる場所も、影に沈む間も、
考えなくても、もう知っている。
数日前、焚き火のそばで聞いた声が、ふと蘇る。
「最近、食い物が減ってる」
「泥鼠の仕業だろ」
レンは、その場で身を伏せたまま聞いていた。
火の爆ぜる音。
肉の匂い。
――自分のせいだ。
分かっている。
警戒が強まれば、いずれ捕まる。
それでも、止まれなかった。
止まれば、腹が空く。
止まれば、弱る。
弱れば、死ぬ。
袋を抱え、闇に溶ける。
罪悪感は、もう薄れていた。
残っているのは、
生きるためにやっている、という感覚だけ。
レンはまた、影に戻った。
腹が空く。
それだけじゃない。
影の力が強くなるたび、
体の奥が、食い物を要求してくる。
痣が疼き、熱を持ち、
何かで塞がないと広がっていく気がした。
食えば、少し楽になる。
それを、体が覚えてしまった。
「……今日も、いける」
そんな考えが浮かぶ。
根拠のない確信。
慣れきった感覚。
それが、間違いだった。
四日目。
いつもと同じ小屋の裏に滑り込んだ瞬間、
レンは足を止めた。
――違う。
空気が重い。
匂いが濃い。
獣の汗、湿った皮革、緊張の臭い。
巡回の気配が近い。
呼吸が荒い。数も多い。
遅れて、理解する。
罠だ。
影を濃くする。
体を包み、地面に溶け込ませる。
だが――
「……いるぞ」
低く、喉を鳴らすような声。
背後。
反射的に影を伸ばすが、
もう遅い。
角の生えた大柄な亜人が、
槍を構えて立っていた。
その背後に、三人、四人。
全員、武器を手に、目が赤く光っている。
「泥鼠か」
頭領らしき男が、吐き捨てる。
「やっと引っかかったな」
考える暇はなかった。
逃げる。
影を限界まで広げ、
地面を蹴り、木々の間へ滑り込む。
風を切る音。
次の瞬間、肩が焼けた。
矢がかすめた。
血が噴き、腕が痺れる。
痛みより、先に恐怖が来る。
――見つかった。
もう、盗めない。
この場所にいれば、殺される。
レンは歯を食いしばり、
影に身を預けたまま、森の奥へと消えた
(……慣れすぎた。
警戒されてるって、わかってたのに)
自分を呪いながら、
レンは森の奥へ、奥へと走った。
考える余裕はない。ただ、足を動かす。
根に引っかかり、何度も転ぶ。
土と落ち葉に顔を打ちつける。
立ち上がるたび、血が垂れた。
それでも、止まれなかった。
背後から、獣じみた叫び声が追ってくる。
「逃がすな!」
「血の匂いだ、追え!」
喉が裂けそうになるほど歯を食いしばり、
影を伸ばす。
木陰を濃くし、身を押し込むように進む。
だが、力が続かない。
手の甲の痣が焼けるように疼く。
熱と痛みが、脈打つたびに広がっていく。
三日。
ほとんど眠らず、歩き続けた。
腹は空っぽだ。
傷口は膿み、服に貼りついて剥がれるたびに痛む。
それでも、
どこかで枝が折れる音がするたび、
足音が聞こえた気がして、立ち止まれなかった。
水を飲む。
覚えた安全な木の実を、無理やり噛み砕く。
味なんてわからない。
ただ、倒れないために喉に流し込む。
四日目の夜。
雨が降り出した。
冷たい粒が、叩くように体を打つ。
レンはついに崩れ落ち、岩陰に身を寄せた。
動けない。
指先に力が入らない。
――ここまでか。
影を広げ、体を包む。
わずかに雨を弾くが、寒さは防げない。
震えが止まらず、歯が鳴る。
「助けて…」
声は、雨に溶けて消えた。
信じない。
もう、誰も。
そう決めたはずなのに。
この体に入る前の、ぼやけた記憶。
影が濃くなるほど、なぜか鮮明になる。
知らないはずの顔。
忘れたはずの声。
胸の奥が、きつく締めつけられ、
気づけば、涙が落ちていた。
「帰りたい…」
何度も、何度も。
誰に届くわけでもない言葉を、
暗い森の中で、呟き続けた。
声は雨に溶けて消える。
その時、足音がした。
雨を踏む、かすかな音。
人間じゃない。
獣だ。
でも、亜人の重さがない。軽い。怯えた足取り。
レンは息を殺し、影を伸ばした。
濡れた地面に、黒がにじむ。
現れたのは――
耳の欠けた獣人の少年だった。
歳は同じくらい。
尻尾は途中で切られ、毛は泥に固まっている。
左腕に、古い鎖の跡。
逃げ切れなかった者の痕だ。
少年はレンを見た瞬間、びくりと跳ね、
反射的に短剣を抜いた。
濡れた刃が、雨粒を弾く。
「……来るな」
声が裏返り、喉で震える。
レンも影を絡ませ、身を低くした。
「動くな」
睨み合い。距離は数歩。
雨だけが、二人の間を叩く。
少年の刃先が、影に触れそうで止まる。
影が、少年の足元を探るように這う。
どちらも、踏み出せない。
――その時。
遠くで、地鳴りのような咆哮が響いた。
低く、腹に響く音。
木々が揺れる。
少年の顔から血の気が引いた。
レンの背筋も、凍る。
あの魔獣だ。
忘れようとしても忘れられない、あの重さ。
咆哮が、近づく。
枝が折れる。
地面が、わずかに震え始める。
「……逃げろ」
少年が、かすれた声で言った。
「俺は、俺で行く……お前も……」
影を収め、レンは立ち上がった。
少年も刃を下げる。
次の瞬間、
二人は反対方向へ走り出した。
――だが、遅い。
背後で、轟音。
木が倒れる音。
少年が足を滑らせ、泥に叩きつけられた。
赤い目が、雨の向こうで光る。
巨大な爪が、振り上がる。
一瞬、思考が止まる。
(信じない。助けない)
ミラの顔が、よぎる。
あの目。あの「ごめん」。
――でも。
考えるより先に、体が動いた。
影が伸びる。
魔獣の前脚に、絡みつく。
魔獣が怒鳴り、体勢を崩す。
レンは少年の腕を掴み、引きずり起こした。
「走れ!」
怒鳴るように叫び、
二人は、闇と雨の中へ転がるように逃げ出した。
雨の中、泥の中、木々の間を。
魔獣の咆哮が背後で響き続ける。
レンの影が道を覆い、痕跡を隠す。
少年の嗅覚が、魔獣の方向を教えてくれる。
協力せざるを得なかった。
どれだけ走ったかわからない。
やっと魔獣の気配が遠ざかった時、
二人は倒れ込んだ。
息が上がる。
雨に打たれながら、互いに睨み合う。
「……なんで助けた」
少年が掠れた声で聞いた。
レンは吐き捨てるように答えた。
「……知らねぇよ。
邪魔だっただけだ」
少年は小さく笑った。
血の混じった笑いだった。
「……お前を殺そうとしたのに」
二人はしばらく黙っていた。
雨だけが音を立てる。
焚き火の音だけが続く中、
少年が、まるで独り言のように呟いた。
「……カイ」
少年は、それだけ言って黙った。
レンは、欠けた耳と短い尻尾を見て、
何も聞かなかった。
「……レン」
それだけ答えた。
カイは小さく頷いた。
「……一緒に逃げるか?一人じゃ、もう死ぬ」
レンは即答した。
「誰も信じない」
でも、カイは笑った。
「俺もだ。信じねぇよ。でも、生きるためには、
今だけは一緒にいた方がいいだろ」
レンは黙った。
心のどこかで、
ミラの「ごめん」がよみがえった。
あの揺らぎ。
あの裏切り。
でも、今は違う。
今は、生きるためだ。
「……勝手にしろ」
それが、最初の約束だった。
助けるか、助けないか。
それだけ。
それから三ヶ月。
二人は森のさらに奥、人の気配が完全に消える渓谷の洞窟を拠点にした。
最初は最悪だった。
食べ物を分ける時も、
寝る位置を決める時も、
互いに相手の喉元を意識していた。
背を向ければ殺される。
目を離せば奪われる。
そんな距離感。
それでも、協力しなければ生き残れなかった。
カイは獣人の血が濃い。
匂いと音に異常なほど敏感で、
魔物の気配を、レンよりずっと早く察知した。
何度も、命を救われた。
ある日。
森の奥で、カイが急に足を止めた。
耳が、ぴくりと動く。
「……右。三匹」
レンは即座に影を伸ばした。
地面に溶けた黒が、狼の足を絡め取る。
カイが踏み込み、短剣を振る。
喉。
一匹、二匹。
最後の一匹が暴れた瞬間、
レンは影を広げ、二人の姿を覆った。
狼は視界を失い、逃げた。
息が整った後、
カイが小さく言った。
「……助かった」
レンは鼻で笑う。
「次は俺だ」
それだけで、十分だった。
影は、少しずつ言うことを聞くようになった。
絡める。
止める。
押さえつける。
枝を影で引き寄せ、
即席の罠を作れるようにもなった。
「便利だな、その力」
カイが感心したように言う。
「……お前の鼻ほどじゃねえ」
会話は短い。
でも、無駄がなかった。
カイが狩り、
レンが火を扱う。
魚を捕り、
皮を剥ぎ、
焼く。
味はひどかったが、
腹は満たされた。
やがて、カイが森のハーブを
見つけてくるようになり、
少しだけ、食事が「食えるもの」になった。
夜は、背中合わせ。
最初は、眠れなかった。
相手が寝返りを打つたび、
レンは影をわずかに伸ばした。
カイも、耳を立てていた。
でも、いつの間にか。
相手の体温が、
安心に変わっていた。
最初の二週間、
言葉はほとんどなかった。
「半分だ」 「俺が狩った」
それだけ。
ある朝。
カイが川に出ている間、
レンは洞窟で影を試していた。
細く。
慎重に。
枝を掴み、持ち上げる。
落とさないように、制御する。
背後で、足音。
カイが魚を放り投げた。
「影、遊び道具にしてるのか?」
「……遊んでねぇ。練習だ」
カイは、少しだけ口角を上げた。
「いいな。
俺も、耳で遠くの音を聞く練習してる」
その日から、
二人は互いの“練習”を見せ合うようになった。
「……左。痩せた獣が二匹。風下だ」
影が伸びる。
脚を取る。
カイが仕留める。
獲物が増え、
腹が満ちる。
焚き火の前で、
カイがぽつりと言った。
「……お前がいなきゃ、俺は死んでた」
レンは火を見つめたまま答える。
「……俺もだ」
夜は静かだった。
炎の音と、森の呼吸だけがあった。
そして、
初めて「二人」でいることが、
生きる理由になり始めていた
「…なあ、レン。あの力、あれ、いつから?」
レンは火を見つめたまま答えた。
「…祠で触った時。最初はただの痣だった」
カイは耳をぴくりと動かした。
「祠?」
「古い石の遺跡。
苔だらけで、祭壇があった。
「触った瞬間、なんか……手の先を、変なもんが通った感じがした」
カイは考え込むように言った。
「…俺の村にも、昔そういう話があった。
古い神の欠片が、
人間や獣人に宿るって」
「神?」
「知らねぇよ。ただの言い伝えだ。
お前の力、殺すたび強くなるだろ?」
レンは頷いた。
「……ああ、吸い取ってる気がする」
カイは火を見つめたまま、低く息を吐いた。
「危ねぇ力だ。使うたび、お前が削れてる」
レンは黙っていた。
痣が疼く。心臓の奥で、鈍い痛みが脈を打つ。
カイは薪を足し、影が揺れるのを見た。
「……なぁ」
カイは一度、言葉を飲み込んだ。
「ありがとう」
焚き火の音だけが響く。
レンは黙ったまま、炎の揺れを見つめた。
それでも胸の奥では、同じ言葉が確かに残っていた。
――ありがとう。
二人は黙って火を見つめた。
その夜から、
二人は少しずつ、
互いの過去を話すようになった。
カイが村のことを話したのは、
二ヶ月目の終わりだった。
焚き火の前で、
カイが、その音に紛れるように口を開いた。
「……ただの狩猟村じゃねぇ」
レンは薪をくべる手を止めずに聞いた。
「……どういう意味だ」
カイは一瞬、言葉を探すように黙った。
耳が伏せられる。
「……領主の村だ。
亜人を使うための」
レンの手が止まった。
「使う?」
「魔物を狩らせる。
爪、牙、皮……そういうのを納めさせる」
焚き火を見つめたまま、カイは続けた。
「代わりに、食い物と刃物を渡される。
逆らえねぇ」
レンは何も言わなかった。
「納められなきゃ……」
カイの声が、少しだけ掠れた。
「耳を切られる。
尻尾もだ。
役に立たねぇ印だって」
レンの胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……俺の親は、狩りが下手だった」
カイは一度、言葉を切った。
「納められなくなって……それで、連れていかれた」
焚き火が強く燃え上がる。
「戻ってこなかった」
それだけ言って、カイは口を閉じた。
レンは何も聞かなかった。
ただ、薪を一本、静かに火に投げ入れた。
「…だから、お前と出会えてよかった。同じ、泥の底で生きてる奴」
レンは薪を強く握った。
「……街で裏切られた」
カイは静かに聞いた。
「…女に、助けられて、信じて、仕事で嵌められた」
カイは小さく息を吐いた。
「…糞だな」
「ああ」
二人は黙った。
焚き火が、
二人の間で音を立てて燃え上がる。
火の赤が、
カイの横顔を照らした。
カイはしばらく黙ったまま、
拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込み、
血の匂いが、微かに混じる。
「……いつか」
声が低く、掠れた。
「あの村も、街も……ぶっ壊したい」
それは叫びじゃなかった。
吐き出すみたいな声だった。
レンは答えず、
薪を一本、火に放り込んだ。
火の粉が弾ける。
「……ああ」
それだけで、
互いに十分だった。
―――――――――――――――
―――泥の世界に
カイの話を聞いてから、
レンは影を使う回数を増やした。
強く。
そして、できるだけ正確に。
だが、使うたびに、
胸の奥の痣がじくりと疼いた。
夜になると、それははっきりした。
意識を緩めると、
影が勝手に蠢き出す。
洞窟の壁を、
ぎり、と削る音。
レンが目を開くと、
足元で影が細く伸び、
岩肌に爪を立てていた。
「……やめろ」
声に応じて、影は引く。
それを見ていたカイが、
低い声で言った。
「お前……本当に平気か?」
レンは奥歯を噛み締めた。
「……問題ねぇ」
そう答えながら、
胸の内では別の考えが渦巻いていた。
これは力か。
それとも、
ただの鎖か。
使うほど、
自分の中の何かが削れていく感覚。
それでも、手放せなかった。
生きるため。
カイを生かすため。
そして――
あの街で、
笑っていた連中の顔を、
忘れさせないため。
影は武器だ。
同時に、
首元に当てられた刃でもあった。
レンは洞窟の外に出て、
夜空を仰いだ。
乾いた息が漏れる。
答えの代わりに、
痣が、心臓の近くで、
どくん、と脈を打った。
ある日、
二人は渓谷の崖の上に腰を下ろしていた。
夕陽が森を赤く焼き、
風が獣の匂いを運ぶ。
カイが、
崖下を見つめたまま言った。
「……なあ、レン」
少し間を置いて、
「お前、どこから来たんだ?」
曖昧な記憶。
霧の向こうで、形だけが残っている。
街。
家族。
笑っていた声。
「……街があった」
レンは焚き火を見たまま言った。
「家族も、友達も……たぶん」
言い切れない。
思い出すほど、遠ざかる。
カイは耳を伏せた。
少し間を置いて、低く言う。
「俺もだ」
「親と狩りに行ってた。笑ってた……気がする」
二人とも、それ以上は語らなかった。
思い出は、掴めば壊れる。
焚き火が爆ぜる。
「……ここじゃ」
カイが呟く。
「笑う理由、あんまりねぇな」
レンは一瞬だけ口元を緩めた。
「……でも今は」
「隣に誰かいるだけで、十分だ」
カイの耳が、僅かに動く。
「ああ」
夕陽が沈み、
二人の影が並んで伸びる。
レンは思った。
こいつがいなきゃ、折れてた。
でも、
こいつがいなくなる不安は、考えなかった。
それは怖さじゃない。
最初から、
そこにいるものだからだ。
「……レン」
「何だ…」
カイは短く息を吐いた。
「俺ら、似てんな」
レンは鼻で笑う。
「……最悪だな」
カイは返事をしなかった。
ただ、焚き火を見つめたまま、
どこか可笑しそうに、
口元をゆるめていた。
血は繋がっていない。
でも、背中を預ける理由は同じだった。
逃げ場がなくて、
生き延びて、
それでも前に進くしかない。
兄弟みたいなものだ。
言葉にする必要もない。
それが、三ヶ月目の、
一番大切な瞬間だった。
―――――――――――――――――――――
―――光の呪縛
三ヶ月目の終わり。
二人は渓谷の外れで、
珍しく焚き火を囲んでいた。
カイが捕まえた大きな魚を焼いている。
煙が立ち上り、森の夜を照らす。
「……なあ、レン」
カイが静かに言った。
「いつか、街に戻るか?」
レンは薪をくべながら答えた。
「……戻る。戻って、全部ぶっ壊す」
カイは小さく頷いた。
「俺もだ。
村の連中を、許す気はねぇ」
少し間があった。
焚き火が、ぱちりと鳴る。
「……でもよ」
カイは視線を逸らしたまま、続ける。
「今は、まだいい」
「腹も減らねぇし、
背中に気を遣わなくていい」
「……まぁ、悪くねぇ」
レンは何も言わなかった。
ただ、火を見つめた。
焚き火の温かさが、二人の絆を象徴するように。
その夜。
突然、複数の足音が近づいてきた。
獣の足音。
亜人の匂い。
カイが耳を立て、
顔を強張らせた。
「……村の奴らだ」
レンは立ち上がった。
影を広げ、洞窟の入り口を覆う。
「来るなら、殺す」
だが、来たのは予想外だった。
十人以上の武装した亜人。
先頭に立つのは、
あの角の生えた大男。
集落の頭領だ。
顔に新しい傷。
目が血走っている。
目の奥が濁り、血走っている。
大柄な亜人が、二人を睨みつけた。
「……逃げ回りやがって」
視線がレンに向く。
「ずいぶん手間を食わせたな、人間」
次に、カイ。
「追放された身で、
まだ森を荒らすとは」
カイは歯を食いしばった。
「……生きるためだ」
頭領は一瞬、黙った。
それから、口の端だけを歪める。
「なら、ここまでだ」
手が上がる。
槍が、同時に前へ出た。
その手が、わずかに上がる。
合図だった。
背後から、二人の亜人が槍を構え、無言で距離を詰めてくる。
レンは影を伸ばし、槍を絡めて止めた。
「触るな」
だが、数が多い。
影の操作が遅れ、痣が焼けるように疼く。
亜人たちが踏み込む。
レンは影で壁を作り、カイを背に庇った。
「下がれ」
カイが短剣を抜く。
「レン、逃げろ。俺が引きつける」
「無理だ」
影をさらに広げ、力で押し返す。
一人が倒れ、二人が怯む。
その隙を縫って、頭領の槍が突き出された。
狙いはレンだった。
カイが前に出た。
レンを突き飛ばし、
そのまま胸で槍を受け止める。
短い音。
息が詰まる。
血が雨に混じって落ち、
カイが崩れた。
「カイ」
呼んだ声は、低く掠れていた。
影が、歪んだ。
黒い渦が地を這い、亜人たちの足に絡みつく。
悲鳴は途中で途切れ、
三人が地面に伏した。
頭領は動けなかった。
倒れているのは、
昨日まで同じ獲物を分け、同じ火を囲んだ仲間だ。
槍を握る手が、怒りで震える。
「……退け」
その声は、命令というより、絞り出した言葉だった。
誰も反論しない。
残った亜人たちは、倒れた仲間を見ずに後ずさる。
頭領は最後に、レンを見た。
憎しみだけを残した目で。
「覚えておけ。必ず、殺す」
そう言い残し、雨の森へ消えた。
レンの影は、まだ蠢いていた。
レンは息を詰めたまま駆け寄る。
足がもつれ、地面を踏み外しそうになりながら。
カイは膝をつき、血に濡れた手で地面を押さえていた。
それでも倒れきれず、必死に体を保っている。
レンの腕を掴む指に、まだ力があった。
「……レン」
呼ばれただけで、胸が詰まる。
息が浅くなる。
影を伸ばし、傷口に巻きつける。
血を止めようと、必死に。
でも、影が触れた瞬間にわかる。
――深すぎる。
「喋るな。今すぐ助ける。俺が……俺がやる」
声が震えた。
カイは小さく、息を吐いた。
死にかけの顔で、無理に口角を上げる。
「……なぁ…レン」
雨の音に紛れそうな声。
「ここ、ほんと……糞みてぇな世界だな」
レンは首を振った。
視界が滲む。
気づいたときには、頬を伝っていた。
「黙れ……黙れよ……
生きろ。生きろよ、カイ」
代わりに、レンの手を強く握った。
驚くほど、しっかりと。
その目が、静かに光る。
怒りも、憎しみもない。
ただ、託すような光。
「……お前は、生き…ろ」
一言ずつ、削るように。
「俺たち…みたいな………やつ……
……救ってくれ」
そう言って、
カイの目から力が抜けた。
握られていた手が、
ゆっくりと、ほどける。
地面に落ちた音が、やけに大きく響いた。
レンは動けなかった。
影が、足元で静かに揺れている。
まるで、逃げ場を塞ぐ鎖みたいに。
雨が、再び降り始めた。
レンはカイの体を抱きしめた。
冷たくなっていく体。
「……約束する」
声が震える。
「生きる、絶対に救う」
涙が、雨に混じって落ちた。
「……カイ」
誰もいない森で、
レンは初めて、
誰かの名前を叫んだ。
声が、森に吸い込まれる。
影が、静かに収まる。
痣の痛みが、胸の痛みに変わる。
その日から、レンは変わった。
影の力は強くなった。
痣は腕全体を覆い、
時には心臓近くまで広がった。
でも、痛みはもう感じなかった。
ただ、生きるためだけに。
そして、
いつか、
この糞みたいな世界で、
カイみたいな奴を、
一人でも多く助けるために。
レンは森の奥へ、さらに奥へ歩き出した。
腰には、
カイの短剣を差していた。
腰の短剣は、重かった。
血のせいじゃない。
手を伸ばさなくても分かる。
あれは、もう離れない。
森は雨に濡れ、音を失っている。
それでも、胸の奥だけが静かに脈を打つ。
痛みと、温もりが同時にある。
それでも、もう背負っている。
縛られているのに、歩ける。
生かされているのに、削られていく。
短剣に触れた瞬間、痣が応えた。
拒めない感触だった。
レンは前を向いた。
理由はない。
戻れないからでもない。
ただ、続いてしまうからだ。
影と、受け取ってしまったものと共に。
森の奥から、
新しい道が始まる。
雨が、涙を洗い流すように。
レンは歩き続ける。
一人で、でも一人じゃない。
カイの声が、耳に残る。
「お前は、生きて…」
そうだ。
生きる。
絶対に。
ただ一つ、
カイを殺した世界だけは、
影が決して赦さなかった。




