背負わない者
奴隷商が来たのは、夜が完全に退く前だった。
朝と呼ぶには早く、夜と呼ぶには白みが差している。霧が森の足元に沈み、村の輪郭だけがぼやける刻だ。
この時間帯を、軽い男は好む。
人がまだ完全に起きていない。判断が遅れ、言葉が少なくなる時間。
「用意ができた」
挨拶の代わりに、それだけを言った。
名は出さない。互いに、何を指しているのか分かっている。
私は柵の内側に立ったまま、奴隷商を見下ろしていた。
土の感触が足裏に残る位置。
座らないのは癖ではない。腰を下ろせば、判断が一拍遅れる。遅れは、ここでは死と同義だ。
軽い男は、細い。
肩も腰も刃物のように削げ、風に吹かれれば折れそうな体つきをしている。
だが、折れない。
背負わないからだ。
「連れて来い。できれば生きたままで」
軽い男は指を二本立てた。
まるで条件を並べる商人の仕草だ。
「使えるなら、俺が使いたい。
情報とは別に、金も出す」
金、という言葉だけが、この場で浮いた。
ここで通貨として意味を持つのは、土と肉と時間だ。
袋の中の硬貨は、音しかしない。
私は短く言った。
「殺す」
それだけだった。
空気が一拍、止まる。
森の音が、わずかに遠のいた。
軽い男は眉を上げ、すぐに下げた。
驚きではない。確認だ。
この男は、感情を使わない。必要な時にだけ、便利な道具として取り出す。
「……そうか」
残念そうでも、怒ってもいない。
それでいい、という反応だ。
「逃げられたらどうする?」
私は答えなかった。
逃がさない、という意味でも、答える必要がないという意味でもない。
軽い男は沈黙を「計算中」と受け取る。
だから、次を出す。
「もしだ。もし殺し損ねて、逃げられたら。影に、
こちらの居場所を伝えろ」
その瞬間、理解した。
俺たちを、試す気だ。
使えるかどうかを、血で量る。
「使えるかどうか、見たいだけだ」
「本物なら、どのみち放ってはおけない」
言い訳のように付け足すが、必要ない。
最初からそういう取引だ。
私は村を思った。
ここは、戦うための集団ではない。
亜人の村は、数で勝負をしない。
できない、が正しい。
勝ったとしても、代償が大きすぎる。
村全体で動けば、必ず死者が出る。
死者が増えれば、規定に触れる。
規定を超えれば、領主が来る。
領主が来れば、村は終わる。
だから勝手はできない。
感情で刃を振るう自由は、ここにはない。
「連絡係を一人、付ける」
軽い男が言った。
「念のためだ。邪魔はさせない」
私は少し考えた。
一人なら、管理できる。
増えれば、重くなる。
村というのは、重さだ。
重さを制御できなければ、潰れる。
「一人だけだ」
そう告げると、軽い男はすぐに頷いた。
判断が速い。
余計な交渉をしない。
慎重で、冷静だ。
軽いが、愚かではない。
だからこそ、危険でもある。
「それでいい」
奴隷商は笑わなかった。
笑う必要がない。条件は揃った。
私は決めていた。
村は動かさない。
動かすのは、有志だけだ。
しかも、選ぶ。
来るのは、四人。
多くて四人。
理由は単純だ。
それ以上は、村を巻き込む。
選ぶ基準は、強さではない。
覚悟だ。
来るのは、レンに家族を殺された者。
すでに失っている者。
死んでも、村のノルマに響かない者。
村に滞在しない。
すぐに動けるよう、奴隷商の拠点に身を置く。
村に影を引き込まないためだ
殺す。
それだけだ。
「どうせ、殺すのだから」
その言葉は口に出さなかった。
胸の内で一度だけ転がし、土に落とす。
殺すと決めた時点で、取引は終わっている。
生かす可能性を残す者ほど、判断は鈍る。
軽い男は、背負わない。
だから慎重で、冷静だ。
それくらいなら、良い。
私はうなずいた。
それで十分だった。
軽い男は、すでに去っていた。
足音も残さず。
村は、まだ崩れていない。
それでいい。
この場面では、誰が正しいかは書いていません。
正しさは、この世界ではあまり意味を持たないからです。
守るために殺す者と、背負わないことで生き残る者。
どちらも合理的で、どちらも間違ってはいない。




