立っている背中
村は、まだ眠っていた。
夜明け前の森は音が薄い。
風が動いても、枝は擦れない。
霧が低く垂れ、獣道と畑の境が消えている。
踏み固められた土も、耕された畝も、同じ灰色に沈んでいた。
柵の上に、頭領が立っている。
背を伸ばし、両手を下げ、身じろぎもしない。
長い時間、その姿勢のままだ。
見張りに立つ亜人は、少し距離を空けて立っていた。
頭領の背中を、正面から見ない位置だ。
意図してそうしているわけではない。
いつからか、そうするようになった。
亜人は一度、柵の外を見回し、
それから頭領の背に向かって、静かに頷いた。
それだけで、通じる。
頭領は、わずかに顎を引いた。
確認は不要だった。
異常があれば、声を張る。
叫ぶ。
あるいは、もう叫ぶ者はいない。
ここ数か月、夜明け前はいつも緊張を孕んでいた。
食料庫の量が合わない。
罠の数が減る。
最初に異変があった時、村は獣を疑った。
次に魔物。
持ち去られている。
影だ、と。
誰かが言い、誰も否定しなかった。
亜人は、森を見る。
霧の奥に、何かが動く気配はない。
それでも視線を外さない。
頭領が、森を見ている。
その目線の先に、何があるのか。
亜人は知っている。
名前だ。
――カイ。
口に出されることはない。
だが、思い出される名だ。
追放された子供。
村の掟に従って、処分された存在。
そう扱われている。
最初は、皆そう思った。
奪っているのは、あの子だと。
生き延びたのだと。
戻れぬ場所から、手を伸ばしているのだと。
だが、日が経つにつれて、
亜人の中で、違和感が膨らんだ。
やり方が、違う。
干し肉は、必要な分だけ消えている。
乱雑さがない。
腹を満たすための量だ。
苛立ちがない。
報復の痕がない。
あの子なら、もっと荒らす。
もっと、感情が出る。
それを口に出す者はいなかった。
だが、皆が感じていた。
――これは、別の何かだ。
亜人は、足元の土を一度踏み直した。
それで十分だった。
頭領が立っている限り、誰も勝手に動かない。
罠は張られ、分配は崩れず、
不満は言葉になる前に飲み込まれる。
完璧ではない。
だが崩れていない。
それが、ここがまだ村でいられる理由だと、
亜人は声にせず理解していた。
そして、頭領もまた、
同じ場所を、同じ時間だけ見つめている。
亜人は、その背を見ていた。




