第9話 それは間違っている
この話には、はっきりした正解は出てきません。
誰が正しくて、誰が間違っていたのか。
助けたのか、見捨てたのか。
救いだったのか、ただの自己満足だったのか。
この街では、生き残るために線を引かなければならない。
引かなければ、奪われる。
でも、引いた瞬間に、何かを失う。
「助ける」という行為は、
いつも正しくて、いつも美しいわけじゃない。
それでも、人は手を伸ばしてしまう。
それが――
本当に正しいのかどうか分からなくても。
これは、
善意が善意のままではいられなかった話。
正しさが、誰かを救い、誰かを壊した話。
タイトルの通り、
きっと「それは間違っている」。
それでも、
間違いだと分かっていてなお、
手を伸ばす人間の話です。
ミラは、同じ場所に三日続けて身を潜めていた。
正確には、立ってはいない。
市場と裏通りを結ぶ細い路地。
壊れかけた水桶の横、崩れた石壁の影。
人の流れから外れ、視線も届かない位置だ。
最初に見つけたのは、偶然だった。
仕事の帰り、荷を下ろす途中で、地面に貼りつくような黒が動いた。
光の加減ではない。
見間違えるはずがなかった。
――レン。
名前を思い浮かべた瞬間、喉が詰まった。
生きていたことへの安堵より先に、
「近づいてはいけない」という感覚が背を撫でた。
彼は、子供たちを連れていた。
小さな背中が二つ。
それとは少し距離を取って歩く少女が一人。
レンは前を向き、振り返らない。
それでも歩調は、子供たちに合わせてあった。
その姿を見て、ミラは足を止めた。
追いかけなかった。
声もかけなかった。
それが、自分の立ち位置だと分かっていたから。
レンは、よく働いていた。
誰かに命じられたわけでもなく、
褒められることも期待せず、
ただ、必要なことを淡々とこなしている。
水を運び、壊れた壁を直し、荷を背負い、汚れ仕事を引き受ける。
子供たちが邪魔にならないよう、
危ない場所に近づかないよう、
言葉少なに、だが確実に。
黙々と。
影のように。
(……私にも、こんな存在がいたらよかった)
不意に、そんな考えが胸をよぎり、ミラはわずかに唇を噛んだ。
誰かのために、理由もなく手を動かす人間。
救う道を、疑いもなく選ぶ人間。
この街では、あまりにも眩しい。
(影みたいなのに)
そう思って、ミラは小さく笑った。
存在感は薄く、目立たない。
それでも、視界に入ると、なぜか目が離れなくなる。
不思議な男だった。
ミラは無意識にレンを探すようになった。
市場の端。
裏通り。
影が溜まる場所。
気づけば、目で追っている。
理由は考えない。
考えれば、踏み出してしまうから。
三人の子供は、最初はよく似ていた。
俯いた顔。
小さな動き。
言われたことだけを、きちんと守る癖。
だが、数日見ていると、違いが浮かび上がってくる。
少女――ミユナは、常にレンを見ていた。
怯えた視線ではない。
確認する目だ。
怒っていないか。
消えないか。
置いていかれないか。
それに対して、残りの二人は違った。
視線が、少し高い。
レンの顔ではなく、手元や荷、食料袋を追っている。
測っている目。
ミラは、胸の奥が冷えるのを感じた。
その目を、知っていた。
かつての自分も、ああやって人を見ていた。
仕事終わり、ミラは必ず遠回りをした。
表通りからは見えない角度で、
レンたちの拠点に近づく。
中に入ることはない。
声もかけない。
ただ、見ていた。
――そして、事態は静かに、確実に歪んでいく。
食事の時間。
レンが器を置くとき、必ず一歩下がる。
ミユナはそれを見逃さない。
息を詰めたまま、器に手を伸ばす。
二人の子供は、最初はゆっくり食べていた。
だが、日を追うごとに速度が変わる。
目が皿に張りつく。
「……もう少し、ありませんか?」
その声が聞こえたとき、
ミラは反射的に息を殺した。
レンは迷った。
ほんの一瞬。
それから、余りを足した。
その瞬間、ミユナの肩が小さく揺れた。
気づいたのは、ミラだけだった。
――ああ。
嫌な予感が、確信に変わる。
数日後、ミラは異変に気づいた。
ミユナの動きが、少し遅い。
食事の量が、減っている。
それでも、何も言わない。
顔色も変えない。
ある夜、ミユナの袖から痣が覗いた。
一瞬だった。
けれど、見逃すほど甘くはなかった。
ミラは、その痣を知っている。
転んだ痣じゃない。
庇った痣だ。
「……やめなさい」
思わず、声が漏れそうになった。
もちろん、届かない。
数日後、決定的な場面を見た。
レンが戻る直前。
拠点の奥で、押し殺した音がした。
ミラは、影に身を沈めたまま、息を止める。
ミユナの腕を掴む手。
食料袋に伸びる指。
ミユナは、抵抗していなかった。
声も出していなかった。
ただ、歯を食いしばっていた。
次の瞬間、影が動いた。
レンの影だ。
二人の子供が壁に叩きつけられる。
鈍い音。
短い悲鳴。
ミラの膝が、わずかに震えた。
「出ていけ」
レンの声は低く、迷いがなかった。
正しい。
そう思った。
それでも、ミユナが袖を掴んだ瞬間、
ミラは目を逸らした。
「お願い……!」
初めて聞く、大きな声。
必死な声。
ミユナは知っている。
追い出されたら、すぐ死ぬことを。
ミラも、知っている。
レンは、それでも線を引いた。
引かなければならなかった。
二人が去った夜、
ミユナはその背中を、ずっと見ていた。
ミラは、その背中のさらに奥を見ていた。
暗闇。
庇護のない場所。
数日後、街角で二人を見た。
痩せて、目が落ちて、
盗んでは殴られ、逃げていた。
ミユナが、立ち尽くしていた。
その夜、ミラは見た。
ミユナが包みを持って出ていくのを。
止めることはできなかった。
声をかける資格もなかった。
二人は泣いていた。
感謝していた。
謝っていた。
ミユナは、笑っていた。
その笑顔が、ミラの胸を抉った。
――違う。
それは救いじゃない。
レンは気づいている。
気づいた上で、黙っている。
ミラは、動けなかった。
一歩踏み出せば、過去が追いつく。
それでも。
(……助けたい)
それは、償いじゃない。
正義でもない。
ただ、
このまま見ていたら、
また誰かが死ぬ。
ミラは、レンを見た。
子供たちを見る、その背中を。
――近づけない。
――でも、目を逸らせない。
それが、今の距離だった。
ミラは、影の中で、静かに息を吐いた。
この沈黙が、
いつか取り返しのつかない結果を生むと、
分かっていながら。
それでも、
今はまだ、
遠くから見ていることしかできなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この話は「正しいこと」を書きたくて始めたわけではありません。
むしろ逆で、
正しいと思って選んだ行動が、誰かを静かに壊していく瞬間を書きたかった話です。
レンの判断は、間違っていません。
線を引かなければ、沈む。
それは、この街では「正解」でした。
ミユナの行動も、間違っていません。
奪われる痛みを知っているからこそ、差し出してしまう。
それも、生き残るための「選択」でした。
それでも、
それは――間違っている。
誰も悪くない。
誰も正しくない。
でも確実に、何かが壊れていく。
そんな処遇しか与えられない世界と、
それを受け入れてしまう人間たちの話です。
よければ、もう少しだけ付き合ってください。
——作者




