アオハル写真
いつだって夏は暑いものだ。
そんな夏だからこそ、俺――箱山弘人には、やらなければならないことがある。
それは何か?
「ふっふっふっ……はあ、はあ――!」
「弘人ぉ、もうやめなよ~。こんなの、健全な学生の夏休みの楽しみ方じゃないってば~」
「往け往け弘人、クールで汗だく弘人!」
高二の夏休み。
正午、俺は地元民では名の知れた小規模の中華料理屋「華夏」の「超絶激辛麻婆豆腐特盛を完食する者、金一封」の挑戦者として、サラサラのストレートミディアムヘアをしたクラスメートの炭野修平と、ポニーテールの田村雪奈を応援団として引き連れ、この店にやってきた。
店主の李さんを震え上がらせる咆哮を上げ、チャレンジを宣言したところまではいい。
問題はそのあと、「超絶激辛麻婆豆腐特盛」がテーブルに置かれたときのこと。
禍々しいまでに真っ赤に煮えたぎる“それ”を見たとき、俺はきょとんとするほかなかった。
「なあ、お前ら。……麻婆豆腐って、甘い料理だよな?」
そのときの修平と雪奈の青ざめた顔を見た俺は、高二にしてようやく真実と現実が見えた。
今まで俺が食べてきた麻婆豆腐は、いわゆる甘口だという真実。
そしてこれから食べるであろう麻婆豆腐は、冗談なしの超絶激辛だという現実。
それはたぶん、年をとっても忘れないに違いない。
そんなわけで、俺は人生で初めて食べる辛さ抜群の麻婆豆腐と死闘を繰り広げていたわけである。
俺はラストスパートをかけるべく、ついに一度も飲まなかった水に口をつけた。
そして全力で……このレッドモンスターを……。
「…………」
俺はレンゲをコトリとテーブルに置いた。
まさか、というように修平が「おい、弘人? レンゲは食器だ。さあ、手に取れ」と俺が置いたばかりの汗まみれになったレンゲを手に取り、再び俺の手に握らせようとしてくる。
ここぞとばかりに、雪奈が俺の半袖のTシャツの裾を引っ張った。
「ううん、弘人はよく頑張った! あたしはそんな弘人のために、一年分の氷菓子を――」
「○×△□!」
俺は言葉にもならない奇声を上げると、時間遅れのラストスパートを開始。
そう、皿に噛り付かんばかりの勢いで、麻婆豆腐を喰らい始めたのだ。
「……モージュウ」
李さんはドン引きしたようにつぶやいた。
「さすがだ……さすがだぞ、弘人。人間を捨ててまで、この辛さしか取り柄のない麻婆豆腐を平らげようとするとはな。恐れ入る」
俺の猛獣形態に感服した修平は、聞いたこともない独特なリズムの歌を歌った。
「弘人……あなたのその勇姿、あたしは後世まで伝えるから、ね」
お経のような言葉で、俺を弔う雪奈。
そんなわけで無事(?)、俺は金一封――合計三万円を手にして、うんざりするほどに陽が照らす夏の外に出たのだった。
「ほれ、応援団としての給料だ。受け取るんだな」
外に出てすぐに自販機で買ったペットボトル飲料を飲みながら、俺は先ほどの三万円のうち、二万円をさっと取り出すと、修平と雪奈に一万円ずつ渡した。
修平は「ありがたや、ありがたや」といかにも芝居がかったような言動で、万札を財布に仕舞い込んだ。
雪奈は涙いっぱいの目で万札を受け取るなり、「これ、弘人だと思って、一生大事に持っておくね……!」と深々と頭を下げた。
俺は神にでもなったつもりで「うむうむ」と何度もうなずき、うっとうしく伸ばした髪を撫でつける。
さて。
「このお金で何を買うか、お前らはもう決めたか?」
真っ先にお金の使い道を教えてくれたのは、汗も滴るいい男の修平だった。
「ずばり、『華夏』特製麻婆豆腐レトルトパウチ夏バージョンセットだな」
冗談じゃない。
「……やめろ、な?」
俺はニッコリと笑いながら、目では修平をにらみつける。
修平は真顔で「ふむ、それは失礼した。実はお金の使い道、オレはまだ決めあぐねている最中でな」と腕組みをした。
「ほーん。――んじゃ、雪奈は?」
「推し活につぎ込む」
即答だった。
……俺だと思って、一生大事に持っておくのではなかったのか、雪奈よ。
「そういう弘人は、この死闘で得たお金、何に使うの?」
たまらず俺は胸やけのする箇所を押さえた。
「……一年分の氷菓子でも買おうかな、と」
「弘人ぉ」
「そんでもって、今後は食道を労わった食生活にしようかな、と」
「もういい! あたし、弘人のお嫁さんになって、健康的なお食事を毎日作るんだからっ!」
「ははっ……デザートには、甘くて冷たい氷菓子、か。悪くないな」
「ふふっ。もしも不倫したら、『華夏』特製の超絶激辛麻婆豆腐、お口の中に無理やり流し込んでやるんだからっ☆」
「ぐっ……これがのちの『華夏』特製超絶激辛麻婆豆腐による最初の殺人事件なんだな」
「そーいうこと♪」
などと馬鹿げた話も交えながら、俺たちは近場のカフェレストランに入り、俺はドリンクバーを、修平と雪奈は少し遅い昼食として、冷やし中華を頼んだ。
「やっぱ夏は冷やし中華よねぇ。――どったの、弘人。そんなに恨めしい顔しちゃって」
「やっぱ夏は冷やし中華だな。――むっ、弘人よ。なんだ、その怨念がこもったまなざしは」
「……許すまじ」
俺は両手の拳をテーブルにつき、冷やし中華を怨敵として、にらみ続けた。
おのれ、どうしてくれよう、この感情。
そんなときだった。
隣の席に座る、三十歳になろうかというキリッとした女性が「見つけたわ!」と俺たちを指差しながら、勢いよく立ち上がったのは。
その叫び声を受け、ノリの良い修平は「曲者か」とゆらりと立ち上がると、ごっそりとつかみ取った何十枚かの紙ナプキンを盾のように掲げてみせた。
そんな中、曲者と呼ばれたロングヘアの彼女は、顔を真っ赤にして(それでも適切な大きさの声で)叫んだ。
「有村麗羅を曲者呼ばわりするのだなんて……これまた挨拶じゃないの、爽やか坊や」
「坊やではない、ボーイだ」
大真面目な顔で訂正する修平。
「どんぐりの背比べだな」
やれやれ、と俺はツッコんだ。
「おばさん、どこの人―?」
雪奈は麺をすすりながら、そう彼女――麗羅さんに尋ねた。
おばさんはまずいだろう、と俺は内心焦った。
けれど、麗羅さんはそんなことは意に介さなかったようで。
俺たちをグルリと見回すと、麗羅さんはよく通る声で叫んだ。
「んもう、私ったら、ビビッときちゃった。
――青春を謳歌するあなたたちにお願いがあるの。……あなたたちのアオハル写真、何がなんでも撮らせて!」
アオハル写真。
それは俺の興味がそそられる単語だった。
「アオハル写真? それって……青春写真、の意味だよな」
「何それ! エモい~」
「いや、だがしかし、それは単なる写真のことではなかろうか」
「やだぁ、修平~。ロマンがないなー」
「失礼な。事実を言っただけだ。アオハル写真など、『写真』という言葉を飾っただけの、ただの写真ではないか」
「だぁかぁらぁ~、そういうのをロマンがない、って言うんだよ。爽やか坊や、お分かり? ――ねえねえ、おばさんおばさん。そのアオハル写真、ぜひ撮ってほしいな」
「アオハル写真、か。なんだか良いフレーズだな。同じく、俺も撮ってほしいぜ。――あれ、爽やかボーイは?」
「……撮られたくない、とは言ってはおらん。有村氏が撮影したいというのなら、オレは喜んで被写体になろうとも」
俺たちの意向が固まると、麗羅さんの目が輝いた。
「思い出になる、最高のアオハル写真、撮ってあげるわよ。
――ここでの食事が済んだら、カメラマンとして、町を歩くあなたたちをばっちし撮影するわ」
「おう、いいぜ。――って、何か探し物か、雪奈」
俺はトートバッグの中の荷物をゴソゴソと漁っている雪奈に声をかけた。
漁るのをやめた雪奈は目を泳がせ、「それが……ないの。弘人から受け取った万札さんが、どこにもないの」といかにも泣き出しかねない様子だった。
「それって、つまり……ん」
あまりにも悲しそうな表情をしている雪奈を見て、俺は口をつぐんだ。
そんな俺の代わりに現実を告げるのは、腕組みをして宙をにらんでいた修平だった。
「大方、落としたのだろうな。でなければ、盗まれたか」
「盗まれたって言っても……」
自然と俺たちは隣のテーブルにいる麗羅さんに視線がいってしまう。
麗羅さんは首をブンブンと横に振り、「私じゃないわ。確かに一万円札は長財布にあるけれど……それは私のお金だからね」と冷静に疑惑を否定。
雪奈は両手で顔を覆い、とうとう泣き出してしまった。
「弘人が激辛料理にチャレンジして成功した賞金……失くしちゃったよぅ」
俺は空気を吸い込みながら、瞳を閉じた。
それから、ゆっくりと瞼を開き、雪奈にほほ笑みかけた。
「だったら、俺たち全員で探すまでだ。――そうだろう、修平?」
名前を呼ばれた修平は、こほんと一つ咳払いをし、「そうだとも。良く言ったな、弘人」と不敵に笑った。
慌てたように麗羅さんは「私もその一万円札、探してあげるから、写真は撮らせてよね」と早口になって述べた。
どうやらこんな緊急事態でも、カメラマンとして俺たちに同行するようだ。
「――というわけだ、雪奈。“俺たちが得て”、“俺たちが失くした”金一封は、“俺たちの手で”探し出そうぜ!」
「うんっ」
かくして、俺たちは肌を焦がさんとする夏の陽射しを一身にして浴びながら、雪奈の一万円札を探し始めた。
外は体温越えの猛暑日で、次から次へと汗が噴き出てくるが、それでも俺たちは探すのをやめない。
仲間の涙を見てしまった以上、退く気にはなれない。
どうやらそれは麗羅さんも同じ想いのようで、この暑い中、彼女も探し物をする俺たちをスマートフォンで何度も何度も撮りながら、必死になって一万円札を探してくれた。
けれど――。
「見つからない、かぁ」
まだ暑さが残る夕方。
とうとう全員暑さと疲労で音を上げ、河川敷のベンチで、燃えるような夕焼けを眺めながら休んでいた。
俺の言葉のすぐあとに、修平が「南無阿弥陀仏、万札様」と言って、手を合わせる。
「仕方ないね。うん、仕方ないっ。さよなら、万札さん」
きっぱりと一万円札と別れを告げる雪奈の言葉で、解散、かと思いきや。
麗羅さんは神妙な面持ちでベンチから立ち上がると、夕焼けに向かって吠えた。
「ごめんなさ~い! ……雪奈ちゃんの一万円札を盗んだのは、この私、有村麗羅でぇす」
「「えぇー!」」
俺たちは驚き、それぞれ顔を見合わせた。
だが、麗羅さんのその手には――一万円札が一枚。
思わず俺は目を瞠った。
見間違えようがない。だって、その一万円札は――。
「なあ、麗羅さん。あんた――」
その俺の言葉を遮るのは、申し訳なさそうにしている麗羅さん。
「ごめん! つい魔が差したのよ、許してくれるかしら……?」
俺は修平と雪奈を見遣る。
二人はというと――。
「おばさんったら~」
「有村氏よ……」
「許さない!」
「許さん!」
俺でさえ引くほどに、それはもう目をむいて怒っていた。
麗羅さんは「ヒッ」と小さく悲鳴を上げると、たまらずといったように逃げ出した。
そんな逃げる彼女を追いかけるのは、もちろん修平と雪奈だ。
「待て、この盗人め」
「悪質おばさん、成敗っ」
「ヒエッ……心を込めて謝ったんだから、全力で許してちょうだいよね」
「おばさんったら、シャラップ☆」
「有村氏に、青春による制裁を……!」
こんなときにも関わらず。
いや、こんなときだからこそ、と言い換えたほうがいいだろう。
麗羅さんは楽しそうに修平と雪奈にスマホを向け、カメラのシャッターを連写していた。
そんな中、腰に両手を当てた俺は苦笑するしかなくて、半ばあきれながら、麗羅さんたちをベンチから眺めていた。
一方で、俺は別のことを考えていた。
先ほど、麗羅さんが見せてくれた一万円札。
あれには折り目が付いていなかった。
しかし、俺が雪奈に渡した一万円札には折り目が付いていた。
これが意味するのは、すなわち――いや、これ以上考えるのは野暮だ。
いつまでもワーワーと騒いでいる彼らをおつまみにし、俺は茜色に染まる見事な夕焼けを、ベンチから愛おしく眺めているのだった。
後日――手紙とともに、厳選されたとおぼしき、数十枚の写真が麗羅さんから送られてきた。
写真の中の俺たちは真剣なまなざしをしていたり、ふざけあっていたり、笑いあっていたりしていて……それを見ていたら、なんだか無性に俺は胸がときめいた。
いよいよ最後の一枚となる写真。
俺は切なさを覚えながらも、ラスト一枚の写真を見て、目を見開いた。
そこには俺たちの青春の証――アオハル写真があったのだ。
それは河川敷での一場面を切り取った写真。
この写真は、麗羅さんが怒る修平と雪奈から逃げ出してすぐの場面、だったと記憶している。
写真左上、ベンチに座る俺は腕組みをし、苦笑していた。
写真中央、ストレートの髪をかき上げ、ぎらついた目でニヤリと笑うのは修平。
写真右下、万歳の格好をし、目を細めてニコニコとほほ笑む、雪奈。
そんなアオハル写真を見ていたら。
まだまだ俺にはやらなければならないことがあるような気がして。
気づけば、俺は雄叫びを上げていた。
もうすぐ終わる夏よ、まだ終わらないでくれ。
愛おしき夏よ、アオハル写真のように、いつまでもそこにいてくれ。
俺はアオハル写真を手に持ったまま、夢見心地な気分で、いつまでも眺めているのだった。




