第一章 1 ヤン・ドーの赤い星 後編
小屋の横には金属製の円筒の餌入れがある。重たい蓋を開け、スコップを入れる。葉野菜の屑と、フュルの実を砕いたもの。そし雑穀の搾りかす。それらを混ぜたものが、ダダルたちの餌だ。スコップに山盛りそれを載せ、そのまま庭の真ん中に出る。
「行っくよー!」
明るく掛け声を出しながら、スコップを力強く振り回す。餌は、綺麗な放物線を描いて、ヤンを中心に半径10メードほどの円状にばら撒かれた。
オオゥ、オゥ、オゥ、オゥ!
ダダルたちは喜びの鳴き声を上げる。その鳴き声の強さや張り具合で、ヤンは彼らの体調がわかる。今日もダダルたちは全員健康だ。
それだけで、ヤンは満ち足りた心になる。
(今日も私は幸せだ)
スコップでの朝食配りを三回。それでいったん、ここでの仕事は終わりになる。餌入れの蓋を閉め、スコップを片付け、ヤンは叔母のユリの家に向かう。ユリ・ドー。ヤンの母の妹。黒く大きな瞳。すっきりとした鼻筋に、形の整った血色の良い唇。ヤンは昔から、この星で一番の美人はユリだと思っている。だがそれを言うたび、ユリはヤンにこう言った。
「ヤンのお母さんは、私なんかよりずっとずっと美人だったのよ」
そして、こう付け加える。
「姉さんは、美人過ぎた……」
そして、少しだけ哀しそうに遠くを見る。それが見たくなくて、やがてヤンは、ユリの容姿を褒めることをやめてしまった。でも、意見は変わっていない。冬を三度越し、二人の子供の母となっても、この星で一番の美人はユリだ。ヤンはそう思っている。
ドーの人たちの家は、どれも良く似ている。砂岩からくり抜いた赤い石を積み上げ、その上に、ホルンという草で葺いた屋根を乗せる。ドーの赤い砂岩は中にたくさんの気泡があり、強度は弱いが断熱効果は高かった。ホルンは根に殺菌力のある油があり、その香りは心を穏やかに保つのに効果がある。そして、ドーの人たちは皆、家の扉に花を飾る。それが表札の代わりでもある。ユリはいつも、ハミンという黄色い花を飾っていた。ひび割れた赤い砂岩の隙間に咲く、星の形をした可憐な花だ。それは、ヤンの好きな花でもあった。
その日、ヤンがハミンの扉の外に来ると、美味しそうなスープの香りが既にそこまで漂っていた。
「おはよう、ユリ」
言いながら、ヤンは家の中に入る。ユリは、山グミのサラダを盛り付けているところだった。その横で、ニタ婆が、フュルの木の枝で作った大きなスプウンで、火にかけた鉄鍋の中身をかき混ぜている。芋と、ケートというドーの星の固有種である大型の牛の乳と、その乳で作ったチーズを使ったポタージュ・スープだ。ヤンは、ニタ婆の作るこのスープが大好きだった。ニタ婆。ユリの母。そしてヤンの母であるマーサ・ドーの母。つまり、ヤンの祖母だ。
「あれ? 今日は父さんたちは誰もいないの?」
ヤンが訊くと、
「ああ、おらん」
と、ニタ婆は簡潔に答えた。
「トイとアキは? 先に戻っててって、私、言ったんだけど」
「実は、ミラ叔母さんが、
『クロ団子が上手に出来たからトイとアキも食べにおいで』
って言ってきて。それで、今日はふたりはあっちで朝ご飯を食べることになったのよ」
今度はユリが答えた。
「ふうん」
ヤンは小さく鼻を鳴らす。食事はいつだって、大勢で食べる方が楽しい。ミラ叔母さんがクロ団子を持ってこっちに来くれば、いつもより大勢で朝ご飯が食べられたのに。そんなことをちょっと思う。
「ヤン。たまには、女家族で水いらず、というのも良いじゃろ」
ニタ婆が、スープの鉄鍋を囲炉裏の隅に動かしながら言う。それから、鉄鍋の代わりに暗褐色の平たい石を火の中に置く。その上に、ダダルの卵をひとつ、手際良く割って落とす。
ジュッ。
美味しさを約束するかのような音が、部屋の中に響く。
その瞬間、ヤンはふと思った。
(もしかして、お説教かも……)
四人いるユリの夫が全員いないというのは極端だし、トイとアキにしても、クロ団子を食べるのは朝ご飯より茜の時のおやつの方が相応しい。もしかしたら、ニタ婆とユリは、男は全員追い出して、女だけの方が話しやすい会話をしようとしているのかもしれない。
ちなみに、ドーの社会では、家族という線引きは無いも同然だった。すべての子供たちを、すべての大人が力を合わせて分け隔てなく育てる。男も女も、複数の相手と結婚することができたので、生物学的な父親ははっきりしない場合が多かったし、子供たちも気にしなかった。どの子にもたくさんの父親がいる。それをみんな、普通に嬉しく思っていた。だが、父親と違って、母親は常に一人しかいない。母親は、常に明確だ。その明確さゆえに、母との絆、母の母との絆、母の兄弟との絆には、特別な強さがあった。幼い頃に母・マーサに死なれたヤンにとっては、つまり、ニタ婆とユリだ。
(あー、きっとそうだ……嫌だなあ……)
ダダルの卵に火が通る。それをニタ婆が素早くヘラですくって大皿に移す。スープはヤンがよそう。それらは、ユリが盛り付けたサラダと一緒に、十人以上が余裕で座れる大きな長方形のテーブルの真ん中に置かれた。
「今日は、洗い物が少なくて楽そうね」
ユリがそう言って微笑んだ。
ニタ婆は無言だった。
ヤンも一応、微笑んだ。
三人でテーブルに着く。
「今日も『あなた』の祝福が、私の可愛い子供たちと孫たち、そして子供たちと孫たちの愛する者たちにありますように」
ニタ婆が、目を閉じ、両の手を胸の前で組み、低い声で言った。
「祝福がありますように」
ユリとヤンが声を合わせた。ニタ婆はそれから更にこう付け加えた。
「この星に住む者だけでなく、遠い星に旅立った私の可愛い孫・レイジ ・ドーにも、『あなた』の祝福がありますように」
「祝福がありますように」
ユリとヤンも、もう一度声を合わせた。
ヤンの兄、レイジ・ドーがこの星を出て行ったのは、去年の秋のことだ。以来ずっと、ニタ婆は朝の祈りに必ずヤンの兄のことを付け加えた。
母のマーサがレイジを産んだ時、集落全体が困惑でどよめいたという。そう、ヤンはユリから聞いた。不吉だ、と人々は口々に言った。レイジの髪は、銀色だった。瞳は、青みがかった灰色だった。それまでドーの星では、男も女も髪は黒で、瞳は黒か濃い茶色。例外は無かった。
「でも、私はとっても誇らしかったよ。レイジは、他の誰よりも男前で、その上、とっても優しい子だったからね」
レイジの話をする時、ニタ婆は必ずそう言った。それを聞くたび、ヤンはいつも、自分が褒められるより幸せな気持ちになった。
レイジ・ドー。
ヤンの兄。
ヤンは、兄のことを考えると、今は少しだけ胸が痛くなる。
ヤンの予想に反して、その日、ニタ婆もユリも説教めいたことは言わなかった。強引なお節介も無かった。遠回しに何かを探られることも無かった。三人でサラダを美味しくいただき、ケートのポタージュ・スープを美味しくいただき、ダダルの卵焼きを美味しくいただいた。いつもと違っていたのは、食事の間じゅう、普段は饒舌なユリがずっと静かだったこと。ヤンがもし何かに悩んでいるのなら、あるいは心に何か引っ掛かりがあるのであれば、それを切り出しやすいようにあえて「会話の余白」を作っている……そんな感じだった。ニタ婆は普段と同じ雰囲気だったが、最後、ご馳走さまの挨拶をしてヤンが立ち上がると突然、こんなことを言った。
「ヤン。おまえは冬を二度越した。だから、これからは自分の人生を思う通りに生きて良いんだよ」
「え。急にどうしたの? ニタ婆」
「何も急じゃないさ。ただ、これだけは言っておく。私やユリ叔母より先に死んではいけないよ。それ以上の不孝は無いからね。さ、食事が終わったのなら、さっさとケートの世話に行きなさい」
なぜ、この日に限ってニタ婆がこんなことを言ったのか……後々、ヤンは何度も思い返した。ニタ婆は若い頃、ドーの星全体でたった十二人しかいない「夢見」と呼ばれる巫女の一人だった。あの時、ニタ婆は何か不吉な夢を見たのだろうか。ヤンは、その時何も尋ねなかった。そこまで特別な何かがあるとは思わなかったからだ。それで、機会は永遠に失われてしまった。
朝食の後は、ケートたちを引き連れ、南東にあるクロスの岩山に向かうのがヤンの仕事だった。山の中腹に、風はかわし日当たりは良い小さな草原がある。そこで雌のケートたちに日光浴をさせると、彼女らの出す乳が香り良く濃厚になるのだ。今、ヤンの受け持ちのケートは全部で42頭。草原まで、ケートたちの歩みでほぼ半時。首輪もロープも不要。彼ら彼女らは、ヤンの吹く『ケート笛』の音色にいつも素直に従ってくれる。ヤンは、この時間が好きだった。ケートたちと赤い荒野をのんびり歩く。同世代の友達は、日々の仕事より恋人選びに夢中だったが、ヤンはダダルやケートと過ごす方が落ち着くのだった。
クロスの岩山まであと半分というところで、東から彼女を呼ぶ声がした。
「ヤーン! ヤーン!」
振り向くと、ハナ・ドーが遠くの小高い丘の上に立ち、ヤンに大きく手を振っていた。くるくるとした黒い巻き髪。贅肉の少ない身体。朗々とよく伸びる、美しい声。
「ヤーン! ちょっとそこで待ってろ! すごい事が起きたんだ!」
ハナは満面の笑顔で叫んでいた。
「超ビッグ・ニュースだ!」
☆秦建日子の新作小説『方舟』、8/10(日)更新☆
更新は下記の三箇所で。
HP(秦建日子の方舟)https://takehiko-hata.net/novel-ark/chapterone1/
note https://note.com/hatatakehiko
小説家になろうサイト https://mypage.syosetu.com/2694715/
※毎週日曜日更新。次回更新は8/17(日)です。