夕凪の手紙
海辺の小さな町に、ひと組の老夫婦が暮らしていた。
浩一と千代。ふたりで歩んできた五十年という歳月は、まるで一冊の本のように、あたたかな記憶で綴られていた。
春の終わり。町のあちこちに咲く花々が、海風に揺れていた。
千代が好きだったのは、浜辺近くの坂道に咲くハマナスの花。
ピンク色のその花は、潮の香りと混ざりあって、懐かしい春を感じさせる。
浩一は病を患っていた。もう長くはないと告げられていた。
けれど最後の願いとして、「春の海をもう一度、あの場所で見たい」と言った。
その日、ふたりは坂道をゆっくり歩いた。
ハマナスの花の間を抜けるたびに、千代は少し足を止めて香りを吸い込み、
「あなた、覚えてる?若い頃、ここでお弁当食べたわよね」と言って笑った。
浩一も「そうだったな。君が卵焼きを焦がしたやつだろ」と苦笑いした。
やがて、ふたりは海の見える丘にたどり着いた。
夕陽が海を黄金色に染めている。空にはうっすらと春霞がかかり、やさしい光が世界を包んでいた。
花の香り、潮の匂い、そして、手のぬくもり――。
「千代。……君と生きてきたこの人生は、本当に、宝物だったよ」
「私もよ。あなたの背中と、あなたの言葉と、あの毎日の味噌汁が、私の全部だったの」
ふたりは手をつないで、しばらく海を見つめていた。
ハマナスの花びらが風に乗って、そっと浩一の肩に舞い落ちた。
まるで春が「お疲れさま」と言っているように。
浩一は静かに目を閉じた。
その顔は、どこか微笑んでいるようだった。
翌朝。千代の枕元に、小さな封筒が置かれていた。
それは浩一が、最後の春に残した手紙だった。
千代へ
花が咲くたびに、君と歩いた道を思い出すだろう。
君の笑い声と、花の香りが、俺の春だった。
君が隣にいてくれたおかげで、俺は人生を咲かせられた。これからは自分のために、ゆっくり生きてくれ。
向こうでまた会える日まで、俺はここで夕陽を見てるよ。ありがとう。
またいつか、春の海辺で――。
ーー浩一
千代はハマナスの花を一輪、浩一の写真の前にそっと添えた。
そして、今日もまたあの坂道を歩きながら、春の風に微笑んだ。