64話・この先どうなるかはまだ分かりません
早朝。サクラメントのお屋敷前に、黒い馬車が横付けされていた。王宮から迎えが来たのだ。家紋のない馬車は、素性を隠しているベネベッタさまを慮ったような色合いだが、内装はそれなりに贅を尽くした物だった。
「お気を付けて」
「あなたも。それとミュゲさん、また会いましょうね」
「は、はい」
顎髭護衛の手を借りて、馬車に乗り込むベネベッタ王太后陛下をヴィオラ夫人と共に見送りに出たところ、ベネベッタさまからそのように声をかけられて曖昧に頷くと、ベネベッタさまは微笑んだ。
ベネベッタさまから、見送りはヴィオラ夫人とわたしのみで結構と言われていたので、この場には二人しかいない。
「別に取って食おうとか考えてないのだから、そのように緊張しなくてもいいのに……」
そんなことを言われても、気軽に話しかけられない雰囲気がベネベッタさまにはある。ベネベッタさまに言い返したことから、なぜか気に入られてしまい、色々と話しかけられるようになっていた。
ベネベッタさまには、もう少し砕けた感じで接していいわよと言われても、どこまでが許される範囲なのか読めず毎日、手探り状態でベネベッタさまと接して来た。そうじゃないと、後ろに控えている顎髭護衛が腰の刀に手をかけそうになるので、ビクビクしていたのだ。
「アーベル。駄目よ。そんなに威嚇したら。いずれ彼女はわたくしの可愛い娘になるのですからね」
アーベルと言うのは、顎髭護衛の名前だったらしい。初めて彼の名前を知って目を剥いたら、ベネベッタさまが乗り込んだ馬車の窓の中から手を振ってきた。馬車が去って行くのを見届けてから、ヴィオラ夫人と屋敷内に戻りかけた時だった。夫人に聞かれた。
「慌ただしい滞在だったわね。あの御方らしいけど。ミュゲさん。あなた、フィルマンさまと結婚するの?」
「えっ?」
「ベネベッタさまが、あなたは娘になるとか、意味深なことを言っていらしたから」
「それはどうなのでしょう? フィルマンさまとは親しくさせて頂いておりますけど……」
ベネベッタさまにも困ったものだ。フィルマンさまとはお付き合いはしているけど、まだ結婚とか先の話で二人の間で話題にも出ていないと言うのに。
「わたし達の間で、結婚話なんて出たこともないです」
「そう。でも、フィルマンさまも33歳だから、もう結婚していていい頃なのだけどね」
納得していなそうな感じで、ヴィオラ夫人は言うが、こればかりは何とも言えない。結婚は一人でするものでもないし、一度、結婚話が駄目になっているわたしとしては、自分からフィルマンにこの先、どう考えているの? なんて聞けない。
彼に聞いたとして、もしもわたしの望む答えが帰って来なかったとしたら、それこそショックが大きすぎるし、じゃあ、なぜ自分をこちらの世界に呼んだの? と、罵ってしまいそうだ。
そんな自分に成り下がりたくないし、恋人同士としての現状維持が無難な気がしていた。ヴィオラ夫人に続いて屋敷の中に入ろうとして、視界の隅に白いものが映った。花壇に何か落ちているようだ。白いハンカチのように見えた。
「ミュゲさん?」
「あ。ヴィオラさま、先に行っていて下さい。花壇に誰かのハンカチが落ちているみたいなので拾ってきます」
そう言って花壇の側に近づいて身を屈めた時だった。影が差して名前を呼ばれた。その声には聞き覚えがあった。




