前編
その図書館には魔女が住んでいるらしいーー。
死神のように黒く艶やかな長い髪に、彼岸花のように朱く染まった瞳。
目が合えば脈打つ心臓がピタリと止まり死に至る、声を耳にすれば脳が錯乱して幻覚を見せられ恐怖の余り自らの命を断つとか。
指に一度触れれば皮膚に湿疹が現れて痒くて仕方ないとか、その他諸々。
「ーーと、まぁ王宮に広がった君にまつわる噂はこんな感じかな。まだ聞きたいかい?」
場所はベアトリーチェ王国の北棟にある建物に“図書館”と名が記されている。
白と金を基調としたバロック様式の内観で、床には大理石が敷き詰められている。天井にはフレスコ画が彩られ圧巻の美しさだ。
そんなまさに芸術品と名を付けたくなるような図書館には、受付椅子に座り相手を完全に無視して手にした本へ耽ている者と、その態度を愉しげに目を細め眺めるちょっと変わった者がいた。
変わり者は金髪碧眼とこれまた見目麗しい容姿をしていてこの図書館に居るだけで絵になる男だ。
一方で完全無視を決め込む者は夜空のような黒い髪に星のように煌めく朱い瞳をしている。
「ーーそんなどうでも良い話をわざわざ私へ聞かせに来てくれた理由はなんですか? それともありがとうとお礼を伝えるべきですか?」
本へ視線を落とし目を合わせようともせずぶっきら棒にそう言ってため息をついた。
彼女の名前はルティーナ・リンゴッド。年齢は18歳でリンゴッド伯爵家の長女でこのベアトリーチェ王国に仕えるしがない貴族だ。
ルティーナの塩対応に相手は嬉しそうにニヤッと口元をあげる。
「ルティーナは相変わらず釣れないなー。一様これでも俺王子様なんだけど? まぁそんな君だからこそ面白いんだけどね」
王子様と自ら口にした彼の名前は、シリウス・ベアトリーチェ。年齢は25歳でベアトリーチェ王国の第二王子だ。
ルティーナが図書館の受付職に就いてからというもの、シリウスは暇を持て余してはこうしてちょっかいを出しにやってくる。
二人がはじめて出会った時なんて流血沙汰だった。
しつこく喋りかけてくるシリウスにルティーナが我慢出来ず分厚い本でぶん殴ってしまったのだ。
角で殴られたシリウスの顔面からは傷が出来て血が滴り落ちた。その一件から王宮内では図書館には魔女が住まうなんて異様な噂が広がった。
「殿下は私と一緒にいて楽しいですか?」
「ん? 楽しいよ? だって俺を殴ったのは君が初めてだったし、何より裏表なく話してくれるところが好きかな。俺を陥れようなんて魂胆も見えないからね」
「楽しい……本気で言ってますか? こんな態度の悪い私と居てですよ?」
「ああ、楽しいとも。ほら? ちょっと俺が近づいただけで虎のように厳つい顔だ」
シリウスから急に距離を縮めて来られたルティーナは嫌すぎて眉間にこれでもかっていうぐらい皺が寄った。
獣のような殺気を出しながらシリウスを睨みつける。
「離れてください。また殴りますよ?」
「おおー、怖い。なんだかんだその分厚いので殴られたらさすがの俺でも結構痛かったよ? 殴られてすぐにその本に何か仕込んでる? って聞きたくなったぐらいにね」
「私を殺人鬼みたいに言わないでくださいっ! もう! いい加減帰ったらどうなんですか?」
「ええー。嫌だなぁ、だって戻ったらやれ舞踏会だのお茶会だの。嫌いな女性陣を相手にしなきゃいけないじゃないか」
シリウスはルティーナの方まで移動して横の席に座った。
机にダラーと両手を伸ばして意地でも動かないという体制だ。
こんなんでも一様第二王子様の肩書を持っているシリウスは現在婚約者探しをしている。
妃に担うであろう可憐で美しい女性を何百、何千もの中から選び抜くのは至難の業だ。
中にはシリウスの命を狙おうと企む可笑しな連中も潜んでいるやも知れない。
「国の未来の為なんですから殿下が逃げてどうするんですか?」
「だってさー。張りぼての笑顔で貴婦人やご令嬢らが近づいて来たら誰だってゾッとするでしょ? 楽しくもない話を何時間もしちゃってさ、あんなのに意味があるとは思えない」
「まぁ、殿下の言い分も分からなくもないですが……。仕方ないというか定めとも言えますし」
「そんな釣れないこと言わないでよー。ルティーナが俺の理解者であり友達であり(仮)恋人でもあると思ってるんだよ?」
本を変わらず読み耽ながらルティーナは、シリウスの言葉にうんうんと重くうなづいていた。
が、一言だけ気になる言葉があった。
「は? 誰と誰が恋人ですって?」
「ん? 君と俺がだよ。だってこんなに仲良くしてるんだし、血も見せ合った仲だよ? これは誰がなんと言おうと正真正銘“恋人”だと俺は思うなー」
信じられないとルティーナは本から目を離してヘラヘラと愉しそうに笑うシリウスをキッと睨んだ。
「さっきは(仮)恋人って言ってたじゃないですか! 冗談じゃありません! 殿下みたいなチャランポランこっちから願い下げです!」
バンっと机を叩きルティーナは席から立ち上がった。
椅子は後ろにガタンと大きな音を立てて倒れてしまう。
急に激怒し出したルティーナへシリウスも上の者に対してなんだその態度は! と耐えきれず怒るかと思いきや。
「チャ、チャランポラン……。ははは、あははははっ! そんなことを言われたのは初めてだよ」
机にうつ伏せになって肩を揺らすほど豪快に笑い出した。
「わ、私は本気で言っているんですよ!? 毎日毎日どうして私のもとへ来るんですかっ! そうゆう態度だから殿下はチャランポランなんです!」
「ふぅ、ええーとルティーナに誤解があるようだけど」
シリウスはピタリと笑うのをやめて何を思ったのか急に席を立ち上がった。
そしてルティーナの手を握り熱い眼差しで見つめた。
「俺はルティーナのことが好きだから毎日来ているだけだよ? そこだけは履き違えないで欲しい。俺が心から惹かれているのは君だけだ」
そう言ってルティーナの手の甲に優しくキスを落とした。
見る見るうちにルティーナの頬は、かぁっと赤く染まっていき林檎のようになっていく。
そんな初々しい姿を見せるルティーナを愛おしそうにシリウスは抱き寄せようとしてーー。
ーーガンッ!
と鈍い音と共にシリウスの顔面には本の角がぶっ刺さっていた。
どうやらルティーナが咄嗟に本を手にして目を覚ませと一撃喰らわせたようだった。
シリウスの顔からは、たらーと少し鼻血が出てしまい鼻をおさえながらまた戻ってくると言って図書館を後にした。
やっと一人の時間を過ごせるとルティーナは、ぐーと体を伸ばして倒れた椅子を起こしてシリウスを殴った本を拾い上げた。
「信じられない、殿下ったらいったい何をお考えなのよ。私が好き? そんなの本当なわけがない……。きっと、そうよね?」
誰も居ない図書館へポツリとこぼした。
もしも本当にシリウスがルティーナへ恋心を抱いているとなったら天変地異と言わざる得ない。
だってあり得ない、国を担う立派な妃にしがない貴族のルティーナを選ぶなんてどう考えたっておかしい。
ーーガチャ。
とまたしても図書館の扉が開く音がした。
もしかしてシリウスが戻ってきたのだろうか?
ルティーナは恐る恐る足音を殺して扉へ向かった。
図書館へ入ってきた相手を確認したルティーナは驚いた声をあげる。
「あ、ローラ? ど、どうして貴女がここに?」
「ルティーナっ! 貴女に会いたくてわざわざここまで来たのよっ!」
彼女は嬉しそうにルティーナのもとまで駆けてきてハグをしてきた。
それは友達同士が和気藹々とするようなもので、ルティーナも嬉しくて頬を緩めた。
ルティーナの幼い頃からの知り合いで名前はローラ・コレット。年齢は22歳と少しばかりルティーナより歳上で姉のように慕っている。
けれど何故ローラがこのベアトリーチェ王国のしかも図書館を訪れたのだろうか。
「ローラと顔を合わせるの何年振りかな? ほんとに久しぶりね。元気にしてた?」
「ええっ! 私こう見えても世渡り上手なのよ? ふふん、上位貴族の方々とも仲が良いの。今じゃご令嬢や貴婦人が集うお茶会の主催者をやっていたりするの!」
きゃっきゃっとはしゃぐローラに昔と変わらず自慢が大好きだな、と懐かしく感じた。
ルティーナとローラは家が隣同士でいわば幼馴染の関係だった、周りからは仲良し姉妹なんて言われちゃったりもしていた。
「じゃあローラもこのベアトリーチェ王国に仕えているの? 凄い、私なんて見ての通り本の虫よ。ほら本しかここには無いでしょ?」
「まぁ、そんな所よ。あら? 立派な職業じゃない? 誰もいない図書館の受付なんてルティーナにしか出来ないでしょうし。楽しそうだわ。私もやってみようかしら?」
ローラはふらふら〜と足を運び目についた本棚から適当に本を抜き取った。
パラパラと雑にめくっていく。その行動は読んでいるようには明らか見えない。
飽きたのかローラはパタンっと本を閉じて机の上に乱暴にボンっと放り投げた。
ひょいとお手上げのポーズをした。
「ダメだったわ〜。私ったら頭が賢くないからこうゆう細かい字が苦手なのよ。それに比べてルティーナは凄いわ、頭がおかしくなるほど読み込んで正常なんだもの」
「でもローラも凄いよ? だって綺麗なドレスが似合っているし。今着ているそれは春のドレスでしょう?」
「あっ! 気づいてくれた? そうなの! これねわざわざオートクチュールで手に入れた代物なの!」
しゃららと優雅に裾を広げて舞うローラにルティーナは、めんどくさいなぁとジト目になった。
「へぇー。そんなに凄いものなのね、それでローラがここを訪れたのはわざわざそのドレスを見せに来ただけ?」
「え? 違うわよー。ルティーナをね、お茶会に招待しようと思って来たの。明日にアマンダ様がねルティーナとお話をしてみたいと仰っていたのよ。はいこれ招待状ね。場所は私の友達、アマンダ様のお屋敷で開催する予定よ」
はい、と手渡されたのは羊皮紙で朱い封蝋がされていた。
紋章はアマンダ令嬢のバンバーゼ公爵家のものだった。
つまり拒否権はないということなんだろう、公爵家からの集いをしがない伯爵家のルティーナが断れることは出来ない。
「それじゃあ要件は伝えたし、私はこれで失礼するわ。またお茶会でお会いしましょう。あ、日時もちゃんと記載されているから遅刻せずに来てね」
ローラは伝えるだけ伝えてサッサっと図書館から出て行ってしまった。
ルティーナは渡された手紙を手にして受付位置に戻り椅子へと腰掛けた。
正直行きたくない、ローラのことはルティーナとしても嫌いではないが決して好きでもないのだ。
何かにつけて見比べた言い方をされてこっちが悪く言われる。
そんな言い方優しさの欠片もないわ、とかルティーナって女らしくないわよね、とかとにかく耳を塞ぎたくなるような言葉まで言ってのける女なのだ。
「ーーお茶会か。やだなぁ……殿下の気持ちが少し分かる気がする」
「ほんと? 分かってくれた?」
「……っ!!!」
急に目の前から声をかけられてルティーナは勢いよく椅子から転がり落ちてしまう。
思いっきり尻餅をついてしまいズキズキと腰とお尻に痛みが走る。
「ルティーナ大丈夫!? 怪我はない?」
「す、すみません……。それよりいつから居たんですか?」
シリウスは血相変えてルティーナへ駆け寄り手を差し出した。
ルティーナはその手を迷いつつも受け取り立ち上がらせて貰ってゆっくりと椅子に座らせてもらった。
「ん? あー、ルティーナが椅子に移動する時あまりから。その手にしている紙はなんだい?」
「あー、これはなんでもないです。というか殿下には関係ありません」
下手に探られたくないとルティーナはポケットに勢いよく突っ込んで隠した。
気づかれたら必ず俺も一緒に! とか言い出しそうだからだ。
疑わしいと言わんばかりにシリウスは、じーとルティーナの目を見つめる。
「ええ〜。ルティーナが等々非行に走るなんて俺悲しいー。だから教えてくれないか?」
しくしくと嘘ったらしく泣いているフリをされた。
誰が非行なんかに走るかボケ、と内心ルティーナはツッコミを入れつつそれでも断った。
「なんでもありません。ほら、見てくださいもう夕方ですよ? 私は定時なので上がらせて頂きます」
時間を知らせるつもりでルティーナはシリウスへ時計と窓を交互に指差した。
年季の入った柱時計の秒針は17時を指していた。
窓からはやんわりと暖かい夕陽が差し込んでおり、パタパタと蝶々達が森へ向かって飛んでいる。
春だからといって夜になるのはまだ早いため帰宅を急がねばならない。
「あー、話を逸らしたな。まぁいいやまた今度絶対に聞くから。少し待ってくれルティーナ」
「はい? なんですか? 私もう帰るつもりですが、ってこれは?」
ひょいっと手渡しされたのは白く小さな巾着袋だった。
上には紫色のリボンで可愛らしく留められており、ほのかに甘い香りが漂う。
ルティーナは手に乗せられた巾着とシリウスを交互に見つめて首を傾げた。
「な、なんですかこれ……」
「ちょっとちょっと、そんなに嫌そうな顔しないで欲しいな。香り袋だよ」
「か、香り袋?」
「ああ。なんでも流行り物らしくて香りは心を落ち着かせるネロリだったかな。この前出掛け先で見つけてルティーナにあげたいなって思ったんだ」
「殿下が私に? あ、ありがとうございます……」
「ふふ、どう致しまして。しおらしいルティーナは初めてだなぁー、明日はきっと大嵐かな?」
「普通は大雨か大雪じゃないですか! なんで大嵐なんですかっ! 熱々の紅茶ぶっかけますよ!」
「あははっ! 冗談だって、ほら早く帰らないと陽が暮れてしまうよ」
「わかってます! それと鍵閉めますので殿下も図書館から出てください」
ルティーナは鍵を見せて閉めるぞと圧をかましたがシリウスはカラッと明るく笑いこう言った。
「ちょっと調べ物があってねー。鍵は俺が預かるよ」
「また調べ物ですか? 殿下が?」
「ああ、俺だって調べ物ぐらいあるさ。ほら鍵をその位置から投げてくれ」
ルティーナはしょうがないなとパッと銀の鍵をシリウスへ向かって投げた。
ふらっと軸が逸れたがシリウスはそれを上手いことキャッチしてくれた。
「殿下あまりご無理はなさらずに。そのそれとこの巾着ありがとうございました。それじゃあ……」
ルティーナはお辞儀をして図書館を後にした。
* * *
シリウスはひらひらとルティーナへ手を振り扉が閉まったのを目視して動き出した。
「たしか、この引き出しだったはずだ」
シリウスは受付椅子の後ろにあるルティーナでも手を伸ばせば届くであろう本棚の引き出しを引っ張った。
中からは大量の紙がもっさりと入っていた。
それらは目を伏せたくなるようなものばかりでシリウスは険しい顔をする。
今回目についたのは赤いペンで殴り書かれた“殿下に対してなんて無礼な奴だ”、“お前に殿下は相応しくない”、“お前のような魔女は魔女裁判が下されるべきだ”とか、それ以上の事まで描かれている。
「こりゃまた酷いな。いったい誰がこんな事をルティーナへしているんだ? 相手に何の得がある?」
嫌悪しながらシリウスは蝋燭で紙を燃やしていく。
チリチリと音を立てるそれをシリウスは真剣に見つめ犯人について考えていた。
こんな異様なことが起こり出したのはつい最近だ。
シリウスとルティーナが出会ったのは五ヶ月ほど前でこんな気味の悪い嫌がらせが勃発したのは一ヶ月前だ。
たまたま引き出しを開けたらこれらが見つかって、それ以降はルティーナが帰宅する度にシリウスが毎回こうして悪戯を隠蔽しているのだ。
「まだルティーナは気づいていないようだったな。早く犯人を捕らえなければルティーナに危険があるかもしれない。さてどうしたものか」
うーんと唸り声を上げながらシリウスは頭の後ろで手を組んで椅子の背にもたれ掛かる。
どんなに張り込みをしても犯人が一向に見つからないのだ。
ルティーナが不在の時を見計らって現れているのには間違いないのだがその時間が中々特定出来ないでいた。
犯人は女なのかはたまた男なのだろうか。
「まぁあのルティーナの事だから犯人を見つけたら半殺しにまでしそうだな」
ははっと笑いルティーナのことを愛おしげに思い浮かべた。
武器はきっと本でその角で容赦なく殴る事間違いなしだろう。
シリウスがここまで惹かれた女性はルティーナだけだった。
集う女性陣はみなシリウスの背にある廃ることのない莫大な権力と大金、それと金髪碧眼と美しい美貌だ。
誰かれもが手を伸ばし我先にとする輩ばかり。
正直言って嫌になる、相手の腹を常に読んで行動しなければこちらが噛み殺されてしまう日々の恐ろしさは耐えかねない。
その点ルティーナは真逆だ、常に自分を曝け出して話せる唯一の人間であり初恋の相手でもある。
「ルティーナの顔が見たいな。早く明日にならないかな」
シリウスはルティーナと会えないばっかりに、はぁーと憂鬱そうにため息をついた。