後編
ソラが再生して、十年が過ぎた。
ソラは季節の一回りが十回過ぎたことでそれを知っている。春の森は何ひとつ変わるこ
となくソラや多くの生きものを育んでいる。
ソラは二十一歳になっていた。
身体は見違えるほどに大きく逞しくなった。太い首の下には盛り上がった両腕の筋肉が
あり、厚い胸板があり、引き締まった尻と強靭な足があった。
森の中をどれ程駆け回っても息が切れることはなく、敏捷性を失うこともなかった。弓
を引き、限りないほど息を止めて、獲物に狙いを定めることもできた。
長く黒い髪は、つる草でひとつに束ねて下げている。顔つきは精悍で、穏やかで深い眼
差しを持っている。
ソラの父ソパの面影をなんと強く残していることだろう。ソパを知る人が見たならばど
れほど驚くことだろう。それほどよく似ている。ソラ自身、泉の水面に映った自分の顔を
見て背後から父が現れたと錯覚することもあった。
毎朝、ソラは住処である洞窟の前で朝日を浴びながら長い時間座り、心を鎮める。
それが心地良いからするようになった。何者から追われているという不安も感じない。
追われていることさえ、忘れてしまったようだ。自分の境遇に不満も感じない。そもそも
境遇そのものを考えることもない。
十年前に再生した時にそれらはなくなってしまっており、それ以降も現れなかった。今
でもあの時の体験、少女との再会は不思議なものだったと思う。しかし、夢とも幻とも思
っていない。実際にあったことだと信じられる。
目を閉じて座っていると、まぶたを通して陽の光が、渦を巻いてソラの身体の中に入り
込んでくる。
光は、ソラの身体中の細胞のひとつひとつをくまなく包んでは解き放ち、包んでは解き
放ち、足の底からよどみなく流れていく。
光の循環が続くほどにソラは満足していく。時間を忘れてソラは光に身を任せる。
やがて高揚したソラの精神は、真っ白く輝く何もない世界に入る。そこでは何も聞こえ
ず、何も見えない。ただ、心地良いからそれを楽しむ。
そしてゆっくりと下がってゆき、我に引き戻される。すると、より多くの息を肺に取込
めるように感じられた。吐く息からは清涼な香りがした。
身体中すべての毛穴が開き、夜の間にこもっていた熱を放出させた。爪は桃色に輝きを
増した。
ソラは、満足して立ち上がる。
まだ親元で暮らしていた頃、毎朝起き上がると戸口に立って大きな伸びと深呼吸をして
いたことを思い出す。とても気持ちよく、よく目覚めることができるからそれを習慣とし
ていた。
子供の頃やっていたことと、今やっていることに変わりはない、とソラは思った。自分
自身がどれほど変わったのだろうと思う。根源は何も変わっていないような気がする。
そうだ、人の本質は生まれてから死ぬまで何も変わらないのだ。
ソラは弓と矢を持って森を歩く。
しかし、狩りはほとんどしない。狩りをしても本当に必要な最低限の獲物しかとらない。
すでに弓の腕前は極めているといえよう。
森の藪深くに潜む野兎を、遠くから知ることができる。だが、知っていても弓は引かな
い。野兎の息づかいを、遠い草薮の影に感じられるだけで満足する。
獲物を求める狩りをしない。森の中の様々な木の実の味を楽しむようになったからだ。
小さく濃い味がする野葡萄はこの森に来た頃から食べていたが、他にも沢山の森の糧を知
るようになっていた。長い森での生活が教えてくれた。
ソラは森の中を小走りしたり、ゆっくり歩くことを楽しむ。
素早く高い木のてっぺんまで登って、深い緑の屋根を見て楽しむこともある。
緑の屋根はどこまでも続いており青い空と相対していた。森は何と力強いことだろうと
ソラは嬉しくなった。
或る時は、住処である洞窟のそばから流れる小川をのんびりとたどる。
森の木々が小川に覆いかぶさるように茂っている。その隙間から青い空と白い雲が見え
ている。
しばらく歩いて池まで来ると草の上に座り込む。ソラの好きな場所だ。
池では青い背を持つ魚の群れが泳ぐ様を見る。魚の名前は知らない。ソラの村にはいな
かった魚だ。
数尾から十数尾の魚の群れが真っ直ぐ進んだり、急に反転したり、蛇行しながら泳いで
いる。獲物を追っているのか、楽しげに遊んでいるのか、ソラにはよく分からない。
座っているソラは魚の動きを飽きもせずに眺める。半日、そうしていることもある。
気持ち良さに、時折そのまま眠ってしまう。そして気がついて苦笑しながら立ち上がり、
またのんびりと小川をたどって来た道を帰って行く。
ソラはこの先のことを考えなくなっている。
森に留まって生きていくのか。森を出て村に帰るのか。他の国に出て行くのか。一切を
考えずに毎日を送っている。
何も考えていない、ということをソラは自覚している。
池の魚と同じようだな、と思う。
魚の群れは池に留まり毎日を送っている。明日、池に留まっている、などとは思っても
いまい。明日、池を出て小川を上っていく、などとも思ってもいまい。尚更、小川を下っ
ていくことも。
魚たちは何も考えてはいない。池を出て行く水路はある。池を知り尽くしている彼らは
それに気がついてもいるはずだ。
その時になって出て行くこともあるだろう。その時はいつか来るかもしれない。そして
その時まで魚たちは何も考えずに池に留まり毎日を送るはずだ。
自分もそれでよい。何も考えないことだ。
静かに死ぬ時までここにいるかもしれない。明日、死ぬかもしれない。しかし、それさ
えも考えることもない。何かに、我が身を預けてしまっている。
朝は必ずやって来るし、晩も必ず繰り返す。自分はここにいて、心を研ぎ澄ますことを
日課として送るだけだ。
ソラは寝床で目覚めた。
まだ日は昇っていない。静かで真っ黒な森の上に、夜空いっぱいの星が煌々と輝いてい
る。しかし、すでに夜明けが近いことをソラは知っている。
洞窟の入口に座り、夜空を見上げじっと待つ。
しばらく待つと、うっすらと深い漆黒の空が森の端から白んでくる。
じっと、視線を動かさない。
ゆっくりと、白みは増していく。
白みは夜空の暗黒を押し出してゆく。
やがて、朱色がさしてくる。
朱色はぐんぐんと勢力を増してゆき、空いっぱいに輝く広大な朝焼けになる。何と美し
いことだろう。誰か、崇高な存在が高い空の上からこれを指図しているのではないか、と
思えるような動きの流れだ。
そして、黄金の朝日が徐々に山の端から見えてくる。
ソラは今日も朝日が昇ったことを喜んだ。ありがたいことだと思った。そしてありがた
いと思う自らの心の持ち様を喜んだ。
ソラは座ったまま目を閉じる。心に喜びが更に満ちてくる。喜びはソラの体中の細胞を
覚醒させる。細胞の夫々が宇宙の星々であり、我が身がそのまま宇宙であることをソラは
知る。
ソラのこころはやがて鎮まり、意識は高みに上ってゆく。そこでソラの意識は自由に飛
び回り、極限まで広がり、その先で溶けて、全ての存在と同化していく。
ひと時の瞑目を楽しんだソラは、呼吸を整えてからゆっくりと静かに立ち上がり森の奥
に入って行く。
ソラは伸び伸びと良い気分で両手を振って歩く。
いつもと変わらぬ森を進んでゆく。
心は喜びに満ちている。
自然の営みを喜べるようになった自分を静かに晴れがましく思う。
目も口元も微笑んでいる。
歩き続けるソラはやがて小さな異変に気がつく。
歩き始めた時から、細い声のようなものが聞こえてきていた。
それは耳に入るというより頭の中に入り込んでくる。
最初は気にもとめずに歩き続けていた。しかしそのささやきは空耳とは思えないほどに
なってきている。
何だろう。ソラは立ち止まってじっと待つ。
やはり、聞こえる。ささやきは会話しているようだ。
さらにじっと待つ。するとはっきりと聞こえる。
「私たちの森の中を、今日もあのソラが歩いているよ」
「ずいぶんと大きくなった。ここに来た頃はほんの子供で、怯えて泣いてばかりいたのに」
「たった一人で気の毒だった」
「人間なのだから、仕方ない」
「人間だから寂しい時は寂しいのだろう」
「可哀相に。面倒なことを考え過ぎだからだ」
「人間はそうした種族だ」
「命が短いから考え過ぎるのかもしれない」
「考えなければ命が長くなる。我々のように」
「無駄なことを考えないということを学ばなくては」
「考えなければならないことは、殆どないのだから」
「ずいぶんと成長したようだ。落着いて静かなこころになっているということが分かる」
「あまり生きものを食べなくなったようだ」
「たしかに食べなくなった。命が長くなる」
「訪れは近いのかな」
「我々はまだソラをこの森で見ていることができるのだろうか」
「それはわからない」
「訪れは近いかもしれない」
「訪れはやってくるだろう」
「それは喜ばしいことだ」
「ソラを寿ぎ、ソラを祈ろう」
ソラはじっと耳を澄ませる。
たくさんの声が会話しているようだ。もっと聞こうと身構えると途端に何も聞こえなく
なった。
空耳だったのか……いや違う。確かに、聞こえていた。森全体から低く微かに響き渡る
ような声だった。
それも耳に聞こえたのではなく、こころに聞こえてきた。
自分のことを話していたようだ。声の主たちが敵ではない事はわかる。怖く感じない。
そればかりか自分のことを良く知っていて、よく思っていてくれているようだった。
そのままソラは池に向かって歩く。あまり気にするのはよそうと思った。気にすれば聞
こえなくなる。聞こえるものなら聞きたいと思ったからだ。
今日も池の傍にやってきた。
この森の中でもとりわけ好きな場所だ。いつものように畔に座り込んで目を閉じる。
微かな風が吹いてきて心地よい。
静かに目を閉じていると、ここでも聞こえてくる。
今度は違う感じの声だ。
さっきの声は落着いて太い声だった。今度の声は細くて調子のよい弾んだ声だ。草薮の
中、地面の上から声はするようだ。
「この冬は厳しかったから夏が暑くなるよ。そのおかげで秋にはたくさん木の実が生るね」
「よかった、よかった。子供がたくさん産めるわね」
「去年の春は子を沢山産んだのに、イタチに喰われてちまって可哀相なことをしたからね。
今年は沢山育てよう」
「沢山産んで、この森を私たちの家族でいっぱいにしたいわね。きっとそうなるわ」
さらに別の種族と思われる声が聞こえてくる。池の向こうの木の上から声がするようだ。
「人間たちは長い戦争をしていたね。ずいぶん長かった」
「やっと終わったけど、沢山人間が死んだね。無駄なことだ」
「なぜ、無駄なことを続けるのだろう」
「人間たちにとって、戦争は無駄なことではないのだろう」
「必要なことなのかね」
「何度も何度も繰り返すのだから、人間たちにとっては必要なことなのだろう」
「人間は賢い生きものだ。その賢い生きものが繰り返す戦争はやっぱり大切なものなのか」
「きっとそうなんだろうね」
「その戦争もやっと終わったね。なんだかみんな嬉しそうだったよ。人間の村まで出かけ
ていって屋根の上から様子を見てきたんだ」
「あまり危ないことをしてはいけないよ。弓で射られたら大変だ」
「でも、面白かったよ。村ではお祝いの踊りを踊っていたよ」
「何のお祝いだね」
「戦争が終わったお祝いのようだったよ」
「不思議なことをするね。大切なことが終わったのにお祝いするのか。お祝いを何度もや
りたいから何度も戦争をするのか。」
「やっぱり戦争が好きなんだな」
「無駄なことなのに、そうなんだな」
ソラはじっと耳を澄まして聞いていた。
そしてこの出来事に自分が少しも驚いていないことに気が付いた。今のこころの状態が
何者かの声を聞かせてくれたのだ。
だからこころの状態を保つことが出来れば、声は頻繁に聞くことができるだろうし、い
ずれ自分の意志も、それらに伝えることができるだろうと思った。
そのことに対して疑問もなく、不思議な確信があった。
ソラは、毎夜住処の前に座り、静かなこころを保ち瞑目した。
頭の上には満天の星々が輝いている。自分自身が昇華してゆき、星と同化してゆくよう
な気持ちになる。
数日経ち、声は聞こえ始めた。
高く遠いところから、声が伝わってくる。
その声は次第に明晰になってくる。
壮大な意志が、荘厳な音楽のように交わされていることが何となくわかる。
しかしその意味は伝わってこない。
心急くことなく、毎夜同じように過ごす。
昼間は頻繁に様々な声を聞くことができるのに、何故夜の声は伝わってこないのだろう
と思う。
考えることを押し鎮めて、こころを静かにすることだけに集中した。
ひと月が過ぎようとするころ、待ちに待った声は、伝わってきた。
音楽のようにうねりを持った声は言う。
すべては、たったひとつから出来ている。
すべては、ひとつであり、ひとつはすべてだ。
始まりはなく、終わりもない。
そのように、声は言う。
様々な言い回しをしているがそのような意味である、と感じた。聞き続けると、ずっと
同じことを繰り返しているようだった。
その声を聞いている時ソラのこころは研ぎ澄まされ、やがて無心になった。
東の空が白くなりかける頃までソラは座り、夜空からの声を聞き続けた。
そして、声の主は、夜空の星々であると確信した。
星々は遠い宇宙から、音楽のように、呪文のように、あの言葉を様々な言い回しで伝え
合っているのだ、と思った。
さらに、自分が森で聞いた声は森の木々の声であり、小さな獣の声であり、鳥の声であ
ったのだと分かった。
声や意志を感じることができるということは、自分の意志も他へ伝えることができると
ソラは考える。
いや、すでに自分の意志は他に伝播しているかも知れない。自分がそれに気づいていな
いだけかも知れない、とも思った。
直接、他の意志に自分の意志を伝えられるようになった時、どれほどの喜びを得られる
だろう。一人で長い月日を森で生きてきた自分に、それはこの上ない喜びとなる。
ソラは、どこからか聞こえてくる森の中の声に応えてみようと思った。そしてすぐに出
かけて行った。
日はすでに高く昇っていた。今日は少し歩いて森の奥へ奥へと進んで行く。
しばらく歩くとすでに声は聞こえ始めている。様々な生きものの声だ。
「じいさんが亡くなったよ。命の最後まで梟に喰われることもなく、イタチに襲われるこ
ともなく、静かに死んでいったよ」
「我々の眷属が巣の中で死ねるなんて大そうなことだよ」
「たいしたものだね。じいさんは用心深かったからね。思慮深くてそれに足も滅法速かっ
た。狼や狐だってあの足には追いつかなかった」
「今晩、皆が集まってお別れをするようだよ。我々も弔いに行こう」
「人間の村に飛んで行ったあの若い奴は戻ってきたのか」
「いや、三日経ったが戻っては来ない」
「射られたのか」
「多分、そうだろう。無茶をするからこうなる」
「奴が雛の頃を覚えているよ」
「もう、戻ってこない。人を甘く見るからだ。森に居れば何も心配ないのに」
「余計なことをするから命を落とすのだ」
「うさぎのじいさんが死んだようだよ。最後まで俺たちに喰われることもなく往生したそ
うだ。」
「たいしたものだ。じいさんが若い頃は俺たちが追いつけないほど足が速かった。足場が
悪い場所を選んで逃げて行ったから尚更追い切れなかった」
「歳を取ってからは用心して姿を隠し続けた。だから見つけることも臭いをきくこともで
きなかったよ」
「今晩、眷族が集まってじいさんを送るそうだよ」
「襲うのかい」
「一網打尽だな」
「いや、出かけないでおく。じいさんの弔いだから」
「そうだな。あのじいさんが見送られるのだから」
「乱暴なまねはできないな」
「ソラが歩いて行く。彼は自分の気持ちを我々に伝えようとしている」
「やはり迎えは近いようだ」
「あのかわいかった、弱弱しかったソラが森の住人になった」
「子どもの頃は、矢も届かない先から歩いてくるのが気配でわかった。だから安心して逃
げることができた」
「でも今はすぐそばまでソラが来ていても気づけないことがある」
「自分で気配を消していることに気が付ついているのだろうか」
「それでもソラはもう矢を放たなくなった」
「ソラがすぐそばまで来ていても射られることはない」
ソラは森の中の会話をよそに、気が済むまで歩き、大きな平たい石の上に座った。
目を閉じ、森全体に語り始める。
私はソラだ。この森の住人だ。
私は意志あるものたちの声を聞き始めている。
私の意志が通じているのなら返して欲しい。
私はこうして待っている。
どうか私に伝えて欲しい。
しばらくじっと待ち、返事がないことに少し落胆しながら再び森に意志を発する。
私はソラだ。この森に住む。
この森の皆の声を聞くためにここで待っている。
声を聞くことだけを望んでいる。他に求めるものはない。
どうか聞かせてほしい。
そして更に待ち続けた。日は傾き始めている。
すると、聞こえた。
((ソラ、あなたのことは知っていましたよ。この森に来た時から。
そして今、私達と話が出来るようになったことも知っています))
ソラは驚きを隠しながら応える。
「私に語りかけるあなたは誰だろう。そしてどこから語りかけているのだろう」
((あなたの目の前にいる、私たちです))
目の前にいる、と聞いてソラは辺りを見回した。
目の前には白い小さな花々が群生している。
ソラはじっと見つめる。
「白い花があなたたちか。名前を教えてほしい」
((そうです。今あなたが見つめているのが私たちです。
私たちにひとが付けた名前はありません。
ひとは、私たちのことを知りません。
この森の奥だけで生きているからです。
ここまでひとは入ってきたことはありません。
ただ、自分たちをリスリと呼んでいます。
あなたのことは知っています。
あなたは私たちのそばを度々通り過ぎていきました。
しかしあなたは私たちに目を向けはしませんでした。
あなたは他のことを考えていたからです。
目に入ったものでも、意識を向けなければ記憶することはありません。
いえ、責めているのではありません。
あなたは充分に苦しみました。
そして私達と話ができるようになりました。
あなたは取り戻したのです。
元々持っていたものを。
私たちはあなたを褒め称えます。
どうぞ大切な役目を思い出してください))
はっきりと聞こえてきた花々の声にソラは驚く。
「そうか、私を知っていてくれていたのだね。ありがとう。そして私の大切な役目とは何
を言っているのだろう」
((いずれ、知るはずです。
それは近い、と森の木々が話していました))
「森の木々とは、今私を取り囲んでいるこの森のことか」
((そうです。私たちは種族を超えて語り合うことができます。その森が言っていたことで
す))
「やはり、私が聞いた声にも森の声が入っていたのだね」
((その通りです。
森の木々は確かにあなたに意志を伝えた、と言っていました))
「では、私は森の木々とも話ができるということか。やはりそうか」
((その通りです。
あなたはこの森に生きるものすべてと意志を通じさせることができるのです。
あなたはその力を得ました。
これからは全ての森の生きものたちがあなたを助けることでしょう))
ソラは満足し、リスリと名乗る花々に礼を言い帰途についた。
すっかり日が落ちた森を歩きながらソラは周囲に向かって語りかける。
「私はソラだ。森の住人であり、皆と言葉を交わすことができるソラだ。これから先、こ
の森で共に生きていきたい」
それに対し、森の中で方々から声がソラにかかる。
((我々の世界へようこそ、ソラ。
寂しいひとの子ソラは私たちと言葉を交わせるようになった。
私たちはともにこの森で生きて行く))
住処に帰ったソラは安心して眠りについた
ソラの毎日は輝くばかりに嬉しいものとなった。毎日、ソラは森を歩いては生きもの達
に語りかけた。
ソラは小さな生きものたちがこの世に生まれた理由を知り始める。生命に位などないこ
と、ただしそれぞれの生命に役割があること、そして生まれ死んでいった生命はやがて再
びこの世に生命を受けることなどを知った。
その朝も夜明けが訪れる前に目を覚ました。
今日も生きているという喜ばしい気持ちがみるみる溢れ出てきた。毎日が、自分自身の
力の及ばない何かの力によって与えられているという気がしている。
横になったまま目を大きく開き、大きく深呼吸する。
その時、目の前が突然真っ暗になった。
そして頭の中にずっと上のほうから様々な色を発する輝く玉が降りてきた。
何も聞こえなくなる。
自分の鼓動さえ聞こえてはこない。
身体がまったく動かない。身動きできないままソラは混乱する。
この状態に身を任せることにする。
光の玉は語り始めた。
ソラよ、おまえは覚えているか。
妹を背負って倒れた山の中で、我が存在をおまえに知らしめた。
時は来たようだ。
今こそおまえに伝えよう。
朝悟った者も、夕べにはそれを忘れてしまう。
人とは、悟りとは、そういったものだ。
すべてのものは刻一刻と変幻している。留まることはない。
深層は変わることはなくとも、上辺は変わり続ける。
移り変わることによって、人は混乱し、やがてすでに得たものさえ失ってしまう。
このため、ひとはやがて力尽きてしまう。
せっかく知った大きな力を疑うことさえしてしまう。
おまえは精進してこころの状態を保ち続けた。
そのため、種族を超えた語り合いが出来るようになった。
おまえは知っているか。
世界の始まりの時には、種族を超えて生きとし生けるものは、すべて語り合うことがで
きた。大きな力がそうさせてきたのだ。
しかし、ひとは大きな力の存在を疑い、やがては忘れ去ってしまった。
ただし、その能力は消えてはいない。皆が持ち続けているのだ。
その能力を蘇らせることは誰でもできることなのだ。
大きな力を信じることだ。
そしてそれを継続し信じ続けることなのだ。
おまえは様々な生活の場を送ってきた。
すべての出来事に、意味はある。
出来事に、突発や偶然はない。
大きな力が介在して出来事を必然とさせている。
おまえの父ソパは、幼い頃から自らの意志に反して、人の間を渡り歩かなければならな
かった。
多くの苦労をした、と本人は考えている。得たものはやがて全て失ってしまったからだ。
こころに反する仕業も行なった。苦悩した。
ソパはこの世において、それを経験することを約束して生まれてきた。そしておまえに
その素養を引継ぐためでもあった。
ソパは生まれ出る前の約束を忘れている。
ソパに限ることではない。しかし、それでよいのだ。今、ソパは不自由な身になって生
きながらえている。
それは本当の自由を知るために、生まれ出る前のソパの魂が約束していたことなのだ。
おまえの生まれ育った村は襲われた。そして村の多くの家族は四散し、また命を失った。
この世の二つの大きな勢力の対峙を現すために必要であったのだ。
おまえの母親、弟、妹の命も奪われた。すべては自らの魂の為に、生まれ出る前に約束
してきたことなのだ。
ソラ、おまえもまた流転を重ねた。
一度は命さえ落とした。
肉体から魂が抜け出、大きな力の声を聞くことで静かなこころを持つことができたのだ。
正しい心を持つものと、邪悪な心を持つものたちの戦いは、ずっと昔から続いている。
邪悪な心とは、争いであり、奪うことから自らを富ませることだ。
妬み、嫉妬、他者と自己を比べることによって生じる感情すべてが邪悪の範疇だ。
苛立たず、忍び、信じ、望め。そして歓喜せよ。
おまえは、他者と自らを比べることをしない生活を続けた。
そのため聞こえない声が聞こえ、見えないものが見えてきたのだ。
隣国との戦争はすでに終わっている。
そうだ、約束の時は来た。
さあ、立ち上がり、森を出るのだ。
正しい生き方を広めるために、おまえは約束してこの世に生まれてきたのだ。
邪悪を振り払い正義を広めよ。戦いは激しいものになろう。
ただし、おまえは打ち勝たねばならぬ。
おまえは真実を広めよ。それがおまえの約束だ。
おまえこそが、伝説の弟王子なのだ。
おまえは千年続く魂の王国を作るのだ。
千年が終わる頃、また次の千年の王国が立ち上がる。
その礎となる最初の千年王国を作るのだ。
すべてのものはひとつだ。
それは見失われてしまった。
千年王国とは、すべてのものがひとつに戻る世界だ。
おまえは森の声を聞き、獣たちの声を聞いた。
元々は誰しもが意志を通じさせることができていたのだ。
本来、人知は限られたものではない。
この宇宙とつながりを持つものだ。
この大地と語らえるし、星々とも語らえるものなのだ。
通じ合わなくなった同士のこころの壁を、おまえは打ち破ることができる。
それを全ての人々に伝えよ。
戦いに打ち勝ち、全ての人々に伝えよ。
あなたは誰ですか、とソラは問いかけ、応えを受けた。
姿をかえた、おまえ自身である。
故に、すべてのものである。
以前おまえの前に現れた時の姿をかえ、おまえに入り込み、ずっとともにいた。
ずっとおまえを守り、おまえを抱いていた。
ソラは震えた。
私はそれを知りませんでした。
どれほどこの世を、わが身を恨み嘆いたことでしょう。
ずっと一緒にいてくださったのですね。
その通りである……。
語る光の玉が消え去り、ソラの気が戻ると、夜は白々と明けかかっている。
やがて空一面が深紅の朝焼けにぐんぐんと染まりはじめた。森の木々とソラ自身を紅く
輝かせる。
ソラは立ち上がる。
その時、森の奥から、仔牛ほどもある大きな二頭の褐色の狼が、ソラにゆっくりと向か
ってきた。一頭は黒い鼻で、もう一頭は赤い鼻だった。ソラは恐れずに狼の目を見据えた。
二頭はソラの前まで来ると並んで座り、少し頭を下げる。
黒鼻の狼のこころが、ソラのこころに言う。
「主の命により、戦いに向かうあなたをお迎えにきました」
赤鼻の狼が同じように言う。
「森を出て、主に、準備ができたことをお伝えなさい。すると主のお使いたちがあなたの
もとに集まってきます。弓と矢と剣をお持ちなさい。森を出た時、それらは大きな力を帯
びます」
ソラは、狼たちの言葉の意味をすぐに理解し、住処を出ることにした。
長く一人で暮らした洞窟を振りかえる。
そこには不安な小さな子供である自分が、涙を流しながら、膝を抱えている幻が見えた
ようだった。可哀相なソラは成長し、大きな力に突き動かされて戦いに出かけてゆくのか。
今までここで体験した不思議な出来事を思い起こす。全ては起こるべくして起こった必
然であったのだと教えられた。
いくつかの深い呼吸をした。
そして、長く触れることがなかった弓矢を束ねて左手に持ち、剣を腰に下げる。ここを
出てどこへ向かうのかは分からない。ただ、狼たちとともに森を出てゆけばそこに新しい
出来事があるのだ。全ては大きな力に従うのみだと考えた。
「さあ、行こう」
ソラは狼たちに言う。狼たちは頭を垂れて応える。そして黒鼻の狼はソラの前に、赤鼻
の狼はソラの後ろについて出発した。
ソラの様子を、ずっと遠くから脳裏に映し出している男がいる。額に十文字の傷がある
あの男だ。
「おお、あの小僧、ソラが森を出ようとしているのが見える。森の強い力に守られていた
から今までは手が出せなかった。我が身はあの森に長く居ることは出来なかった。あそこ
では息も出来ぬほど苦しかった。しかし、奴はその森から出ようとしている。この時を待
っていたぞ。だが……何かに守られているようだ。うむ、奴を守っているものは手強い。
力を与えられたものであるようだ。うかつには手が出せない。おおっ、何よりもソラの力
は恐ろしいほどに増している。考えていた以上だ。しかしこの機会に奴を倒さなければ、
我らの世界は滅びるかもしれない。今がその時だ。今、倒さねばならない」
男は目を閉じてじっと遠い場所にいるソラを見ている。そして配下の男たちに低く押し
殺した声で命じた。
「この世界の仲間をすぐに呼び集めるのだ。千年に一度の戦いになるだろう」
ソラと二頭の狼たちは森の中を歩き続ける。
昨日まで聞こえていた森のいきものたちの声は一切しない。
ソラはわかった。
森の木々も、けものたちも皆が押し黙ってソラたちを見送っているようだ。
森の木々たちが、示し合わせたようにソラに力強いエネルギーを送り始めた。
木々が発した緑色の力は、渦となってソラの周りをうねり、光を放ちながら重なり合う。
それはそのまま消えることなく輝きながらソラを包みこんでいる。
ソラは森に感謝した。
ソラと狼たちはなおも歩き続ける。
ソラが駆け始めると、狼たちもそれに従った。ぐんぐんと速度を速めていく。一行は全
く息を上げることなく駆け続ける。
この森に初めてソラが立ち入った時、追っ手を逃れて幾日もかけて奥に入り込んでいっ
た。それが今では強い力を帯びて藪を飛ぶように駆け抜けて行く。
数時間で森の外に出た。
広い草原に立ち、眩しい日の輝きをソラは受けた。
二頭の狼たちはソラの両脇を守る。
そして、赤鼻の狼がソラに向かって言う。
「さあ、主に、準備ができたことをお伝えなさい」
ソラはゆっくりと頷く。
両手を広げ、顔を青空に向けて叫ぶ。
「主よ、私はソラです。私は今こそ主の力を借りて邪悪な力に立ち向かいます。力尽きて
敗れ去ることはありません。なぜなら主が私の力であるから。私は、世界を打ち砕こうと
する力に対して、必ず勝利し千年王国の礎となります。なぜなら主が私の力であるから。
さあ、私と私の持つ弓矢と剣に力を与えて下さい」
ソラがこう言うと青空が開き、天空から巨大な光の柱が地上に射し込んだ。
光はソラに降り注ぐ。
ソラは目を開けてこれを受けた。そして光を受けたソラの弓矢と剣は黄金に輝き力を増
した。
その時、背に白い翼を広げ、輝く衣をまとった五人のとても大きな男たちがゆっくりと
舞い降りてきた。
その胸の、両腕の、腹の、尻の、両足の太い筋肉は激しい戦いに耐えられる力を帯びて
いるのがわかる。
手には長く太い抜き身の剣を捧げ持っている。刃は青白く光を放っている。
一同は、ソラを見て大きく頷いた。
それを見て二頭の大きな狼が声をそろえてソラに言う。
「天のお使いたちです。彼等は遠い昔から主の命により悪の一団と戦ってきました。」
五人の天の使いと二頭の狼はソラを守るように取り囲んだ。ソラは頷き、その気力は充
実する。
自分を囲んだ天の使いの一人とは、以前どこかで会ったような気がした。懐かしい気持
ちがうっすらと起こる。
その相手もまた自分を慈しむような目で見つめているような気がした。ソラは思い出し
た。そしてちいさく微笑んだ。
遠い北の草原から、暗雲が湧き上がってくる。
その方向を注視すると、黒い翼の大群がこちらに向かってくる。
「これから戦う相手がやってきました。ソラ、あれが敵です」
黒鼻の狼が落ち着いた様子で言う。
ソラは敵の大群を見て、一瞬たじろぐ。すかさずそれを赤鼻の狼がたしなめる。
「ソラ、恐れてはいけません。黒い翼を持つ邪悪の騎士たちの殆どは、幻です。目で見え
るものを恐れてはいけません。恐れは、あなた自身が作り出したものです。恐れが、どこ
から出来上がってきたかを知ることで、それは消えます。恐れは、あなた自身が産み出し
ました。あなたが産んだ恐れは、あなた自身が大きくもできるし、小さくもできます。そ
れは、あなたのものだから。すぐに恐れを消し去りなさい。あなたにはそれが出来ます。
さあ、矢を一本、暗雲のように湧き上がる敵の中心に向かって放ちなさい」
暗雲は見る見る迫ってくる。
蝙蝠のような翼と顔を持つ無数の敵が空を埋め尽くすようだ。驚くほど大きく、鋭い鎌
や剣、槍などを手にしている。
恐れるものは何もない。自分は守られている。それを疑わず、それを確信する。
ソラは大きく息を吸い、暫くそれを留め、そして恐怖と共に静かに長く吐き出した。ソ
ラは正気に戻った。
矢を引き絞る。すると黄金の弓と矢は、なお一層光を増した。更にソラは引き絞る。溜
めて、溜めて、そして矢は放たれた。
矢は輝く火花を散らしながら、暗雲に向かって弧を描いて飛んで行き、その中心に飛び
込む。その瞬間、とても大きな閃光とともに大方の暗雲は消滅した。空はまた明るくなっ
た。
赤鼻の狼が言ったように敵の殆どが幻であったことをソラは知った。
「さあ、ソラ、戦うのです。前へ前へと駆けてください。あなたが目指す相手は敵の主将
ただ一人です。それ以外の敵は私たちに任せてください。さあ、行きましょう」
ソラと二頭の狼は草原を走り出し、五人の天の使いはその上を飛ぶ。
そして両者の戦いは草原の中心で始まった。
二頭の狼は大きく咆哮し、地上で取り囲む蝙蝠のような姿をした敵を次々に噛み殺す。
五人の天の使いは、空を舞い取り囲む敵を剣でなぎ払った。見る見るうちに敵は地に落ち、
地に倒されてゆく。
しかし、敵の剣も狼や天の使いたちを傷つける。敵は強く、数で圧倒するその力は決し
て侮れないものがあった。
ソラの目は、剣をふるって戦いながら、額に十文字の傷があるあの男を探していた。ど
こを見ても、あの男はいない。
ソラは思った。
この場にはいないのか。ずっと遠いところからこの戦いを眺めているのか。
だが、あの男は姿を変えてソラのすぐ後ろにいた。大きな蝙蝠のような本来の姿に戻り
隙を窺っていた。大きく剣を振り上げ、ソラを後ろから見据える。
「ふふっ……ソラよ、今、お前はここで死ぬ」
その瞬間、ソラはその思念を読み、振り返って身構えた。
「しまった、読まれたっ」
大蝙蝠は、鋭い舌打ちとともにソラに向かって切り込んだ。その暗黒の剣をソラは光る
剣で受けた。その時、ソラの剣は生きもののように光を増した。
何度か打ち合い、切り返す。大蝙蝠の剣は、深い灰色の光を鈍く放っている。異なる色
の光を放つ剣同士は、鋭い音をたてて限りなく打ち合った。
ソラの体力が落ち始めた。蝙蝠の剣の捌きが優勢となる。ソラはジリジリと後ろに追い
詰められてゆく。
その時、大きな声が鋭く明晰に響き渡った。ソラを見つめていたあの天の使いの声だっ
た。
「久しぶりだな、ジュノよ、かつての同胞よ。おまえが主の元を去ってからとても長い時
が過ぎた。おまえは主の対極にある者の元に走ってしまった。今はその者の走狗となり果
てたか。主は、今でもおまえを憐れみ悲しんでいる。そして大いなる怒りをお持ちのまま
だ。ここで卑しい姿になったおまえと会うとは……私は辛く悲しい」
「だっ、黙れっ、誰だ、我が名を呼ぶのは」
ジュノと呼ばれた大蝙蝠は、チラリと横を見て罵った。声の主を認めると、激しく動揺
し狼狽えた。そしてその表情からみるみると生気が抜け出てゆく。
それを察したソラは剣を大上段から打ち込んだ。
剣は大きく大蝙蝠の左肩から右のわき腹にかけて切り裂いた。割れた腹から黒い血が噴
き出す。顔を歪めた大蝙蝠は、背中の翼を広げ高く飛び上り、地表に小さく見えるソラに
向かって叫ぶ。
「ソラよ、許さん。今日はこれで引き上げるが次は必ず亡き者にしてくれる。ずっとおま
えのすぐ後ろにいる。ずっと恐れているがよい。お前が死ぬときまでずっと」
憎々しげにソラを睨みつけ、翼の向きを変えて飛び去ろうとしたその瞬間だった。天の
使いの一人が、蝙蝠の正面から抱き合うように背中の黒い翼に両手を掛け、渾身の力を込
めてそれをもぎり取った。
翼をもがれた大蝙蝠は、大きな音を立て地面に落ちた。
「さあ。ソラ、その光る剣でとどめを刺すのです。首と胴体を二つにしなければ死にませ
ん。そうしなければ必ず蘇ります」
ソラの傍にひかえていた天の使いの一人が言う。
腹ばいのまま、黒い血にまみれながら頭を上げる大蝙蝠の顔に恐怖の表情が浮かぶ。そ
の目はすでに力を失っている。
ソラは頷き、光輝く剣を大きく横になぎ払った。鈍い音をたてその首を落ちた。
二つに分かれた蝙蝠の首と身体はみるみるうちに生気を失い、乾き始めた。そして干か
らびてしまい、砂のようになって風に崩された。
いつのまにか、残っていた沢山の配下も消え去っている。
戦いは終わった。
草原は陽の光を受けて、まるで今まで何も起こらなかったかのように、彼方遠くまで美
しく輝いている。
五人の天の使いと二頭の狼がソラのもとに集う。見覚えのあるあの天の使いが、こころ
を通してソラに言う。
ソラ、あなたはこの世の一端を占める闇を葬りました。
あなたは導かれ、気付き、意識を拡大させたために戦いに打ち勝つことができました。
全ての物事の意味がわかったからです。
全ての存在は元々繋がっています。
今、あなたが終えた戦いは、宇宙が始まった時から無数に繰り返されてきました。
今、勝ったあなたは光であり、敗れ去ったものは闇です。
どちらが優勢でも、どちらが劣勢でもありません。
お互いの存在は繋がっているからです。
この世界のすべての事柄は二つの面を持ちます。
男であり、女であり、
朝であり、夜であり、
楽しみであり、悲しみであり、
喜びであり、怒りであり、
富であり、貧であり、
調和であり、不調和であり、
開放であり、封鎖であり、
楽観であり、悲観であり、
流入であり、流出であり、
健やかであり、病みであり、
美であり、醜であり、
信頼であり、不信であり、
作用であり、反作用です。
そして、
善であり、悪であり、
誕生であり、死であり、
愛であり、憎しみです。
すべては共鳴し、共振します。
力は伝わります。
すべてはひとつです。
決して別々のものではありません。
目に見えないものも目に見えるものも、伝わり合っているからです。
実は、あなたが戦った時、闇に与えた力はそのまま闇の力になりました。
闇は力を得たのです。
力は決して消えることはないからです。
力は姿と場所を変えるだけです。
やがて同じ力をあなたは返されます。
作用に対する反作用であり、共鳴であり、共振であるからです。
あなたはその時に備えて力を蓄えなくてはなりません。
そしてその時が来ないように備えなければなりません。
識することです。
思うことです。
意識は何もないところに力を生じさせます。
意識は事柄となって現れ、形となって現れます。
この世界も意識によって生まれ、意識によって形を定め、意識によって保たれています。
あなたの意識の強さが、生み出す力の強さを定めます。
今までよりも強く意識して下さい。
あるべき姿を意識してください。
さあ、あなたが生まれる前に主のもとで約束したことを果たしてください。
愛の意識をこの世に広めていってください。
この世界は元々が愛で満たされた世界です。
すべては揃っていたのです。
言葉や気持ちは何の隔たりもなく互いに伝わりました。
信じ合う気持ちは、疑う気持ちを起こさせませんでした。
ほんの小さな気持ちの破れが、疑う気持ちを芽生えさせました。
そしてそれは大きくなっていきました。
それを誰もが見過ごしました。
気が付いていたはずなのに。
知っていたはずなのに。
今、あなたはもう一度、愛の意識を広めていかなければなりません。
あなたが広めた愛の意識がその地で一定の人々に達した時、それは驚くほどの力を得て、
各地に飛び火します。全く遠くの地まで忽然と飛び火するのです。
それはこの宇宙の意志です。
その時、誰も疑いません。
誰も争いません。
誰も盗みません。
誰も妬みません。
その地が楽園となります。千年王国となります。
疑いや憎しみの勢力はいつでも虎視眈々とひとのこころを狙っています。
朝、こころを得た者も夕べにはそれを忘れてしまうでしょう。
こころを保ち続けることは高く険しい山に登るように困難なことです。
途中で力尽きてしまう者がどれほど多いことでしょう。
そこから疑いが生れます。
そして、疑いは今までの精進を何もなかったかのように元に戻してしまいます。
こころを取り戻すことは自らによってのみ可能です。
あなたはその拠りどころとなるのです。
しかし、あなたでさえ自らを失うこともあります。
自らの使命に疑いを持ち、逃げてしまいたい気持ちになることもあるでしょう。
それはこの世に生まれたものの定めでもあります。
毎日、毎瞬、こころを強く持ってください。
それだけが闇からこころを守る手立てです。
闇は消え去ることはありません。一方を滅ぼすことはできません。
闇がこの世の殆どを覆った時でさえ、光の勢力は消えることはありませんでした。
それと同じことです。
一方が消えることはありません。
あなたの愛の王国が千年過ぎたとき、闇がそれを取り戻そうとします。
その時は次のソラがこの世に現れます。
今、次のソラの魂はどこかで学んでいます。
千年前のソラがこの世にいた時、今のソラであるあなたの魂もどこかで学んでいました。
出来事は繰り返します。
いつも、安心してください。
いつも、こころを鎮めてください。
さあ、では行きましょう。
最後のひと言と共に大空が黄金色に染まり、無数ともいえる数の小さな白い天の使いが
キラキラと輝きながら舞い降りて来た。
小さな天の使いの背中の翼が光を受けて輝いている。
彼らは手に持った黄金のラッパをそれぞれの音程で吹き鳴らした。ラッパの音は荘厳な
喜びの調べとなって空や大地に響き渡った。
ソラは両手を広げ黄金の空を仰いだ。そして笑った。
ソラと五人の天の使いと二頭の大きな狼は、ソラの故郷の村に向かって歩き始める。
その時、別の存在が一行を遠く眺めていた。
((宇宙に遍在する意識体のひとつである“我々”は、最初から最後までこの様子を見て
いた。これが起こることを知っていた。圧倒的に荘厳な光景を見た。“我々”は、ソラの成
長の過程をその時々で見つめてきた。この光景の確認を以って帰っていくことにする。貴
い魂であるソラよ、ありがとう。おまえは、いずれ“我々”の意識に昇華する。待ってい
る))
ソラを先頭にして一行は歩き続ける。
歩き続けるうちに空を埋め尽くしていた小さな天の使い達の姿は消えていた。そして五
人の天の使いもいつのまにかいなくなっている。今は二頭の大きな狼がソラの左右に付き
従っているのみだ。
ソラは狼たちに尋ねる。
「皆はどこに行ってしまったのだろう。私と一緒に来てはくれないのだろうか」
黒鼻の狼が答える。
「主の元に帰っていきました。主の命によるものです。彼らの姿は見えなくなりましたが
安心して下さい。あなたは守られているからです。しかも守られているのはあなただけで
はありません。この世界に生きるもの全ては守られているのです。あなたは守られている
事を知っています。これは大きな知恵です。しかしこの世界に生きるひとの多くがそれを
知りません。あなたは皆にそれを知らしめるのです。たったそれだけを知るだけで、多く
の生きるものの命が救われ蘇ります」
それを聞いたソラは頷く。そして微笑んだ。
一行は歩き続ける。
谷を越え、広い荒地を突き進む。
途中、ソラは誰かに見られている事に気が付く。視線はずっと付いてくるようだ。
赤鼻の狼が言う。
「気が付きましたね。闇の勢力の残党です。彼らはすでに息を吹き返しているのです。用
心してください。あなたの確信でさえ、脆いのです。こころを強く持ってください。毎瞬、
息をする度にそれをこころがけて下さい。さあ、急ぎましょう。決して視線の元を見ては
いけません。意識の中に彼らを入れないことです」
一行は小さな村に行き着いた。
荒れ果て朽ちた貧しい家々に人影はない。きっと軍隊か盗賊かがここを通り過ぎて行っ
たのだろう。かつての自分と同じような多くの子供たちが犠牲になったのだろう。
そう思った時、ソラの脳裏に軍人と思われる屈強な男達に追い回される村人の姿があり
ありと映った。
誰しもが泣き叫んでいる。土埃が舞っている。弓で射られ、剣で切り回されている。大
切な食料が奪われている。
しかし、村人を追い回している数人の軍人たちの目も泣き叫んでいる。激しい咆哮とと
もに泣き叫んでいる。
どうしたことだろう。なぜ、襲う側が悲しみに包まれているのだろうか。そしてソラは
分かった。憎しみと悲しみのこころを理解した。
奪う者も同時に奪われているのだ。そのこころを、奪われているのだ。何ものにも換え
難い、こころを奪われることこそ最も深い悲しみなのだ。
奪われた者は、「与えた」と思えれば、それは尊い知恵となる。救われる余地はある。
しかし、奪う者には何の知恵も救いも与えられる事は決してない。
命を奪われた者は、大きな力によって救われるに違いない。だが、奪った者には何の恩
恵も与えられない。苦しみの螺旋の中でいつまでももがき苦しむだけだ。
そのような考えがソラに浮かんだ時、黒鼻の狼が言う。
「その通りです、ソラ。何の罪も罰もなく尊い命を奪われた者は、いずれ必ず再生します。
それが幼ければ幼いほど、早い時期に再生します。あなたの大切な妹ピナはすでに別の生
を与えられて遠い国で産声を上げました。いずれあなたの元にやって来ます。あなたの約
束の遂行を助ける者になるのです。戦乱で命を落とした幼い者たちも同様です。それぞれ
の命を、それぞれに、主は見ています。尊い法則です。そしてそれを知ることは、最上の
知恵です」
ソラは黙って聞いた。そして黒鼻の狼に問う。
「苦しみの螺旋の中で、もがき苦しむ命はどうなるのか。救われる余地はないのか」
黒鼻の狼が応える。
「知ることによって救われます。苦しみを以って知ることで救われます。あなたの父ソパ
は今も苦しんでいます。奪うことによって、奪われたこころのために苦しみ続けています。
そして苦しみの中で、あなたの帰りを待っています。あなたに会い、全ての生に謝罪する
ことで救いの門は開くでしょう。彼の口から出た謝罪の言葉は、この世界全体に向かって
放たれるものだからです」
それを聞いたソラは更に黒鼻の狼に問う。
「父は生きているのか……。生きて私を待ち続けているのか……。そして、父は、奪う者
であったのか……」
「彼の口からお聞きなさい。闇の勢力の者共に手足の腱を切られ、不自由な身のままであ
なたを待ち続けています。あなたが必ず帰って来ることを、不思議な確信を持って彼は待
っています。その確信こそが今のソパの生きる力です。今やあなたの存在が生きる力の拠
りどころとなっているのです。彼はすでに救われています。あなたはいずれそれを知るこ
とになります」
ソラは狼の言葉を聞いて満足した。
一行は小さな清流の畔に行き着く。そこで腰を下ろし休息を取ることにした。
流れの冷たい水で喉を潤す。空はどこまでも青く澄み渡っている。
もうすぐ故郷だ。
父に会えるのなら早く会いたい。そして、故郷は約束を果たす為の行動を起こす場所だ。
早く帰りたい。ソラは伸び伸びと深呼吸する。
するとどこから現れたか、一人の貧しげな老人がソラの背後から話しかけた。
「あなたはどこに向かっているのですか。見ての通り、私は大変歳をとっています。この
ずっと先の村まで帰る途中なのですが、足元が危ういために道中が不安です。ご一緒願え
れば有難いのです。いや、必ずそうしてください。私を背負って行きなさい。なぜ黙って
いる。そこにいる二頭の怖い狼を私から遠ざけなさい。恐ろしい目で私を睨んでいる。な
ぜ、私に唸るのか。私は善良な老人です。唸り声をあげられる理由などない。喰われてし
まったら大変です。さあ、狼を追い払いなさい。私を背負って行きなさい」
ソラは突然現れた老人の話しを見つめる。狼たちは老人が言うように低く静かに唸り声
をあげている。
老人は黒く長い衣を着け、袖口から出た皺だらけの右手に長い杖を持ち、腰に皮袋をぶ
ら下げている。
ひと呼吸置いて、ソラは微笑んで老人に応えた。
「おまえに旅の道連れは必要ない。なぜならばおまえは一人で千里を行くこともできれば、
千人を欺くこともできる。更には、すでに死んでいる者に施すものは何もない」
老人はそれを聞いて驚き、黄ばんだ白目を剥いて言う。
「何を言う。この気の毒な老人に施すものは何もないだと。すでに死んでいる者とまで言
うのか。やがてお前には恐ろしい災いが降りかかるだろう。そして一生、茨の道を素足で
歩むことだろう」
ソラは老人の正面を向いて言い放つ。
「その長い袖に隠したおまえの左手を見せるがよい。手首から先がないその左手はかつて
沢山の人の命を奪うことに使われ、そして最後には、我が母に噛み切られて落としたもの
だろう。そうだ、お前こそが我が母と弟の命を奪った者なのだ。そしてその時、おまえも
命を落とした。それ以来おまえは救われることなく荒野をさ迷い続けている。おまえが自
ら求めた迷いの道だ。気の毒な魂よ、私はおまえと争わない。おまえを恨むことはない。
だから、おまえはこの場から立ち去るがよい。さあ、行くがよい」
老人は憎悪の気を吐き、袖から手首から先のない左手を振り上げる。
「この左手を言うのか。いかにもその通りだ。あれからずっと荒野をさ迷い続けたのも確
かだ。ずっと荒野に立ち続け、道行くひとに憑りついて呪い続けてやったのも確かだ。し
かし、この俺が何をしたと言うのだ。誰も、何者も俺を救ってはくれない。誰も救っては
くれないのだ。いつまで彷徨い続けなければならないのだ。俺は生きるために生きていた
だけなのに。命を失った後も救われることはないのか……」
そう言うと老人の姿は消えて見えなくなった。
赤鼻の狼が言う。
「ソラ、よく気がつきました。あの男こそ、闇の勢力の下にいた者であり、沢山の罪のな
い人々の命を奪った者であり、それに喜びを見いだした者であり、最後にはあなたの母親
に手首を噛み切られて絶命した者です。あの男はこれからも長い時間をこの世界の荒野で
過ごすでしょう。生に対する罵詈雑言を吐き続けながら過ごすでしょう。そして、あなた
はいずれあの男の魂をさえ救いにこの地に戻るでしょう」
ソラは問う。
「いずれ私はこの地に戻ってくるというのか。そして、あの男の魂を探し出し、救うとい
うのか。それも私が主と交わした約束のうちなのか」
赤鼻の狼は応える。
「すべては同じものから出来上がっています。ある時は光が当たっていた部分が影になり
ます。ある時は影の部分に光が当たります。ものごとの根源を見据えてください」
じっと考えるソラに、二頭の狼は言う。
「ソラよ、私たちの役目は終わりました。今の出来事への言葉を以って、主から預かった
言葉は、すべてあなたに伝えきりました。私たちは主の元に帰ります。どうぞ、どうぞ、
お元気で」
二頭の大きな狼の姿が、見る見るうちに変わってゆく。
そして、その姿は、懐かしく愛おしいソラの弟ピスとピノに変わった。
背中には天の使いの印である白い翼がある。
ソラは驚き、目を大きく見開いたままだ。
二人とも光を放ちながら、ソラに向かって微笑んでいる。
ソラは何か言おうとするが、言葉が出てこない。
二人はソラに穏やかな目を向けた。
そして、お互いに頷きあうと、背中の白い翼が少し動いて、ゆっくりと、ゆっくりと浮
き上がっていく。
二人は微笑みながらソラに向かって手を振る。
ソラの声は震える。
「ああ、ピス、ピノ、なんて懐かしい、大切な弟たちよ。おまえたちを失っていなかった
んだ。ずっと傍にいてくれたんだね。何と嬉しいことだろう。だが、気が付かなかった。
そして帰ってゆくのか……。もう、帰ってしまうのか……。もっと一緒にいたい。それは
叶わないのだな……。ありがとう、ピス、ピノ……」
天の使いとなった二人の弟の姿が空高く舞い上がっていく。どれだけ高く遠くに上って
いっても、弟たちが微笑んでいるのがソラには見えた。
小さく見えなくなるまでソラは見送った。
そして、すっかり見えなくなると、涙を拭き、故郷に向かって一人、歩き出した。
ソラは微笑んでいる。
ソラには見えている。
故郷の村の入り口で、歳老いた父が不自由な身体で今日もソラの帰りを待っている。そ
してその傍には美しい娘となった幼馴染のシラが付き添い、共にソラを待っている。
了