前編
宇宙は、静寂のうちに膨張を続けている。
星雲が、刷毛で掃いた銀粉のように、限りなく撒き散らされている。
音の無い巨大な爆発が、無限空間の端々で起き、閃光が走る。
無数の星が消え、無数の星が生まれる。
エネルギーの渦が、一瞬にして形を変えて放射状に広がり、泡沫となり見えなくなる。
その泡沫は、長い時を経て別の空間で結集し、エネルギーの螺旋となって宇宙を走る。
宇宙は、呼吸をしている。
宇宙に遍在する意識体のひとつである“我々”は、この様子を遠望する。
そして、小さな青い星、地球をみとめる。
この星で始まろうとしている(ある出来事)を見とどけなければならない。
“我々”は、地球に向かう航路を楽しむために、あえて瞬時に移動することをせず、光を
圧倒する速さで往く。
一面にきらめく星雲が、上下左右に細い光の尾を引いて飛び去っていく。
“我々”は、この情景を悦ぶ。
やがて地球が小さく現れた。
そして、瞬く間に“我々”の前に圧倒的に大きな弧を描く地球が出現した。
地球は、太陽の光線を受けて未知の宝石のように美しく輝いている。
“我々”は今まで何度もこの美しさを楽しんできた。この星が好きだ。
さらに進もう。
“我々”は大気圏をくぐり抜け天空に入った。
突き抜けるような純粋に青い世界だ。
ゆっくりとしばらく進む。
すると、眼下に遠く強い光を放ちながら飛ぶものがある。
その輝きは広い周囲に及んでいる。
殆ど宇宙圏といえる高々度を、この地球で飛ぶものはいったい何だろうか。
よく見るために、距離を縮めてみよう。
この星に住む者の姿かたちをしているのがわかる。
だが、背中には白い翼がある。
身の丈はこの星の住人の倍はあろう。
左右に広がった白い翼は身の丈の数倍はあろう。
その美しい金色の髪は天空の気流にたなびいている。
“我々”はじっと注視する。
白く薄い衣を纏っている。
深い白金色の瞳、高い鼻梁を持ち、艶やかな肌の下には強い筋肉が存在しているのが見
てとれる。
“我々”は、彼を以前見たことがある。
遠い昔、別の次元の星で見た。
その時の姿とはまったく違っているが、彼に違いない。
決して見誤ることはない。
彼がこの姿に昇華していることを寿ぐ。
やがて彼は、翼をすぼめ、頭から垂直に急降下する。
高度をぐんぐんと下げる。
さらに、さらに下げていく。
“我々”もそれを追う。
すると蒼白い大気の世界から、朝焼けの空の世界に入った。
むら雲は静かに流れながら、その上部を紅紫色に染め、その下部は漆黒が覆う。
冷たい夜の大気は、清涼な朝の大気と入れ替わりつつあった。
彼は、雲をくぐり抜け高い空から眼下を見る。
地表の大部分は赤茶けた土に覆われている。
背の低い木々が所々にある。
その葉は、目覚めて呼吸を始めたばかりのようだ。
一本の小さな川が流れ、その川沿いに数十軒の家々が並ぶ。
すべてが小さな板の屋根と土の壁の家だ。
彼は宙に漂い、静かな表情でその風景を見据えている。
風景の中の何かを見ているようだ。
両手を胸にあて視線を動かさない。
何を見て、何を思っているのか。
疑問は解決した。
“我々”は、それを知る。
そして、彼は、深くゆっくりと頷いた。
おだやかな呼吸を幾つかしただろうか。
やがて翼を反転させ一気に飛び去って行った。
その姿はすぐに彼方に消えていく。
“我々”は去っていく彼を見送った。
彼が(ある出来事)に関わっていることがわかった。
彼がその場面に登場する時を楽しみに待とう。
“我々”もまたこの場から退出する。
誰かがこの時、地面から見上げていれば、早朝の夏空に写る遥かかなたの白い一点の動
きに、気がついたかもしれない。
しかし誰も知ることはなく、この事は終わった。
ずっと昔の、世界の隅の小さな国の、小さな村を舞台としてこの物語は始まろうとして
いる。
ソラは、床の敷き藁の上で目を覚ました。
汗をかいている。寝床の中で一度伸びをすると起き上がった。
小さな家の戸口に行って、胸の底いっぱいに何度か深呼吸した。涼しい風が心地よい。
この毎朝の習慣は、彼の身体の隅々の細胞を目覚めさせ、新しい活力を呼び込んだ。
母は、すでに朝食の卓を整え、野良に行く準備をしていた。
「おはよう、母さん」
「ソラ、おはよう。ぐっすり眠れたかい」
日に焼けた母は、白い歯を見せて息子に微笑んだ。
「うん、とてもいい気分だよ。でもね、不思議な夢を見たよ」
「どんな夢だい」
「とっても大きな人が、ぼくをじっと見つめていた。知らない人だけど、怖くはなかった。
だって優しい目をしていたから。なぜか、とても懐かしかった。やっと会えた、って思っ
たよ。夢の中で、とっても嬉しい気持ちでいっぱいだったよ。きっとどこかで会っていた
人だよ。その人はぼくに大切な何かを伝えてくれた。その知恵は大きな力をもたらすはず、
って夢の中でぼくは知った。それなのに……伝えてくれた何かを覚えていない……」
「不思議な夢だね。大切な何かを忘れてしまったのは残念だったね。いつか思い出すかも
しれないよ。そもそも、ソラの心はそれを刻んでいるはずだからね。忘れてしまっても、
なくしてはいないはずだよ。ソラの心はそれを持っている。だから、がっかりしなくても
いいんだよ。さあ、笑顔になりなさい。大丈夫、きっと大丈夫だから、安心しなさい」
おだやかに言うと、籠を背負い、鍬を担いで野良に出て行った。ソラは戸口に立ってそ
れを見送った。
しばらくして次々に起き出してきた弟妹達とソラは食卓についた。
朝食は、炙ったイナゴ、山羊乳、硬いパン、野蜜だ。母が整えた滋養ある朝食を弟妹達
と伴にすると、山羊を連れて野に出る準備をした。
今年十歳になるソラには、二人の弟と末っ子の妹がいる。今、旅に出ている父と野良に
出て行った母と合わせて六人家族だ。
ソラは、父の血を引き黒い髪と黒い瞳を持っていた。他の弟妹たちは母の血を引いたの
か、亜麻色の髪と茶色の瞳だった。
ソラの父は、幾面かの麦畑と数十頭の山羊を所有している。父が旅に出て不在の時は、
母が一人で畑を耕し、ソラと弟妹たちが山羊を連れて野に出るのだった。
昼になると、彼らは藁で編んだ包みから昼食を取り出す。朝食の残りの炙ったイナゴ、
硬いパン、そして皮袋に入った水だ。同じ食事を母も離れた畑でとっているはずだ。決し
て豊かではないが、幼い子供たちにとって食事を伴にすることはとても楽しいことだった。
末の弟と妹は、兄達に甘える。少しでもまつわりつこうとする。妹ピナは長兄ソラの胡
坐の上に、末弟ピノは次兄ピスの胡坐の上にちょこんと座って食事をする。
「ねえ、ソラ兄ちゃん、ピス兄ちゃん、父さんは、今頃何処にいるのだろうね。いつにな
ったら帰って来るのだろうね」
妹が長兄と次兄に尋ねる。
「ピナは、父さんが大好きだからね、寂しいね、もうすぐ帰って来るよ。もうしばらくの
辛抱だよ」
ピスもすぐに相槌を打つ。
「もうすぐだよね、きっともうすぐ帰ってくるよ。お土産たくさん持ってね」
「うん、でも兄ちゃん達もいるし母さんもいるから寂しくないよ。兄ちゃんは、毎日、野
で遊ばせてくれるからとっても楽しいよ」
幼いながらも長兄に気遣ったのだろうか。ピナは首を振ってしきりと寂しくないと言い
張った。
「ピナは、昨日の夜も寝床の中でメソメソしていたよ。きっと父さんのことを考えて泣い
ていたんだよ」
末弟ピノがイナゴの頭をかじりながら教えてくれる。しかし決して妹を責めるような言
い方ではない。ソラは、山羊の小さな群れを視野に入れながら、幼い末弟と妹の様子をい
じらしく思った。
昔、大きな川が村近くをゆったりと婉曲しながら流れていた。毎年、豊かな農作物の収
穫がもたらされていた。麦、豆、様々な果実、そして少なくはない家畜を村人達は所有し
ていた。
また、村は都への通商路の通過点にあった。様々な国、人種の隊商がひと時の休息を求
めることがあり、結果として東西南北の文化の香り、工芸品や生活物資が振り落とされて
いった。
村人は、生まれてから死ぬまで村で過ごす者が大半であったが、僅かに隊商に付いて村
を出て行き、生涯村には戻らない者もいた。また、隊商に付いて村を訪れ、隊商が去った
後も村にそのまま残る者も僅かにいた。
村は、他所から来た者も受け入れることを拒まなかった。村の立地と歴史がおのずとそ
うさせるのだった。
ある年、大雨がこの地方一帯を襲った。
雨は幾日も続いた。村を流れる川は破れ、氾濫は地面を削り、木々をなぎ倒し、家々や
畑を押し流し、多くの村人と家畜の命を奪った。
大雨が去った後の村は一変した。
村を流れていた大きな川はずっと遠方に位置を変え、替わってごく小さな支流が残され
た。村は川の恵みを享受することができなくなった。少しずつゆっくりと村は力を削がれ
ていった。隊商の訪れもなくなった。ソラ兄妹が生まれる前のことだ。
ソラは父ソパのことを考える。子供たちは皆、父が好きで誇りに思っている。
低い背に逞しい筋肉を持ち、働き者で、正直で、誰彼を非難することなく、口数は決し
て多くはなかったが、周囲を和ませる不思議な雰囲気があった。整った容姿ではなかった
が、父の無類の笑顔が人の心を救うことがあった。
おのずと誰からも警戒されることなく、愛され、村の若いリーダーと目されるようにな
っていた。
父が昔、異国の隊商に附いて村を訪れ、そのまま村に留まって今に至ることをソラは知
っていた。まだ、村が豊かだった頃のことだ。
北からやって来た艶やかな黒い髪と輝く黒い瞳を持った小柄な少年ソパは、村長の家に
買われ従僕として働いた。
夜も明けぬうちから山羊の世話をし、日が暮れるまで野良に出て鍬をふるい、戻っては
農具を整え、縄を打ち、籠を編んだ。
たっぷりと肥って首もないように見える村長は、まずは思わぬ買い物を喜んだ。人が見
てもいないところでも懸命に働くソパは、まことに買い得だった。村長は決して吝嗇な男
ではなかったが、にんまりと、ほくそ笑んだ。
次に村長は考えた。なぜこの少年はこれほどまでによく働くのだろうと。人がいないと
ころで懸命に働くことを村長自身が理解できなかった。しかし、答えが出る前にその疑問
さえ忘れてしまった。
他の使用人達はよく怠けた。誰も見ていないところでは手を休め、見られているところ
でも隙を窺い手抜きした。課せられた義務をこなす前に口泡を飛ばして手振り身振りを交
えて権利を主張した。しかしその権利と称するものは決して認められることはなく、尚更
彼らは義務を果たさなかった。
また、使用人同士で諍うことも度々あった。その原因は博打の勝ち負けであったり、課
せられた仕事の配分であったり、食事の盛りの量であったりした。そのどれもがほんの些
細なことから始まったが騒ぎはいつでも大きくなった。
彼等の主人である村長が仲裁し、裁量することも度々あった。そのたびに村長は脂汗を
かきながら手こずり、うんざりした。そのようなわけでソパの働きぶりを村長は大いに喜
んだのだった。
やがてソパのその働き振りが災いすることになる。
ソパはよく働くが故に、働かない使用人達に妬まれた。使用人頭からあてがわれる仕事
の量が度を越したものになる。週に一度の休日(売買された従僕にも休日は与えられてい
た)にさえ、身体を休ませる隙を与えられなかった。
増えた仕事をこなすために毎日の眠る時間は減り、さすがに若い身体にも堪えた。朝、
寝床から起き上がれなくなるほどに疲労は溜まった。
半年に一度、主人から与えられる革のサンダルが紛失したことがあった。サンダルは言
わば仕事の道具であり、働く身体の一部であり、何よりも消耗品だった。誰が盗ったか明
らかであったがソパは何も言わず、擦り切れて破れたサンダルを繕い、親指を痛めながら
履き続けた。
蔑まされ理不尽な叱責に対して不平も言わず、ふて腐れず、懸命に働くソパに対する他
の使用人達の嫉妬心は燃え盛った。なお一層のいじめは続いた。
ある夜遅く、博打から屋敷にこっそり帰った使用人が庭先にソパを見かけた。男はとっ
さに身を潜めた。気づかれてはいないようだ。博打帰りを主人に告げ口されたら使用人頭
からどのような恐ろしい折檻を受けるか知れたものではない。その使用人は怯えた。
物陰から臆病にソパを覗き見る。
ソパは庭先にひとりたたずみ、月を見上げているようだった。月の光に蒼く照らされた
その横顔はひとりでいるのに嬉しげで、とても安らかに見えた。
月はこの世界と死者の世界を繋ぐという。死者の呼びかけに耳を傾けているのか……。
ソラは死者の世界に通じているのか。男はそう考え恐ろしくなった。気味悪くなった男は
忍び足で寝床に入り、このことは自ら忘れてしまうまで誰にも言わなかった。
五年経った頃、雇い主である村長はソパを使用人頭に据えた。
突然のことであった。しかし、五年間ずっと村長はその働きぶりを見ていた。ソパが村
長の家の全ての仕事を把握していることを知っていた。それでいながら、言われのない妬
みの中に置かれている忍従を見ていた。いつ逃走するか、とも思っていた。しかしソパは
耐えて残った。
もはやこれ以上ソパが苦しめられる事を村長は許さなかった。村長の心にソパを慈しむ
温かな心が生まれていた。
最もソパを蔑みいたぶった使用人頭は、職を失い村長の家から出ていくことを命じられ
た。ひざまずき、両手を合わせて許しを請うこの男を村長は許さなかった。
男は逆上し、村長の顔に唾を吐き、汚い言葉をとめどなくまき散らした。唾を吐かれた
村長の命により、男は他の使用人に容赦なく鞭で打たれた。
血だらけになって出て行く男には一袋の麦も与えられなかった。
すでに青年となっていたソパは、使用人達の仕事を割り振り、監督する立場となった。
報酬も与えられることになった。
ソパは、自分を含め誰に対しても公平に仕事を割り振った。
辛い仕事の後には気の楽な仕事が廻わされた。身体の具合の悪い者は休ませた。そして
その者の仕事はソパを含めた他の者たちに等しく分配された。
ソパは誰にも罰を与えなかった。
そればかりか、よく働く者には労いの言葉と僅かでも褒美を与えることを村長に進言し
た。労われる使用人を見た他の使用人達もそれを欲した。
水に落とされた一滴が波紋となって静かに広がっていった。
ソパの裁量に村長は感心した。
やがて使用人たちは、新しい使用人頭に守られていることに気が付き始めた。歳の若い
順に気がついてゆき、ソパに好意を示し協力するようになった。しかし、歳嵩になる程な
かなか納得しなかった。
次に村長はソパに読み書きと計算を学ばせた。ソパは瞬く間にそれらを覚えた。その明
晰さに村長は自分の目が確かだったと考えた。
さらに数年して、ソパは村長の家の家計運営も任されるようになった。これは家で最も
重要な仕事であり、本来、家長である村長、若しくはその長子の仕事であった。
この仕事を請けたソパはまずは無駄な出費を抑え、小さな金銭から蓄えた。そして、そ
れらが一定量に達すると許しを得て新しい農具を整え、農作業の効率化を叶えた。使用人
達は農作業の労力が軽減したことを喜んだ。
更にはこれも許しを得て、家畜を購入し増収を図った。その間、ソパが私腹を肥やすこ
とは決してなかった。そのことも村長は出納帳を丹念に調べ知っていた。感心する以上に
不思議な気持ちでもあった。
村長の家の富は増していった。村の有力者たちは村長の家の、この掘り出し物を羨んだ。
譲ってくれないか、と申し出る者もいた。その度に村長は、大仰にお手を振って答えた。
すでに我が家の宝だ、譲るわけにはいかない、と。
さらに十年が過ぎた時、村長はソパを家族に迎え入れることに決めた。計画を聞いた妻
はとても驚いたがすぐに同意し、夫の決断を褒めた。
村長には二人の息子と二人の娘があった。
息子達は都に出て商売の修行をしていた。どちらも聡明で正直な青年だった。長男はい
ずれ都から戻り、家を継ぐ立場にあった。次男は都に留まり、商いで身を立てることを村
長に命じられていた。
二人の娘のうち、上の娘は隣の村の有力者の家に嫁いでいた。
村長は末娘のアサテの婿にソパを決めたのだった。
アサテは背の高い細身の娘だった。
美しい兄達や姉に比べ、自分は見劣りすると幼い頃から思っていた。彼らのように自分
の考えを自由に話せて、闊達であればいいのに、と言葉の少ない彼女はいつも思っていた。
両親は末娘がそんなことを考えているとは思ってもみなかった。
アサテは空想することが好きだった。
空想は何処でもいつでもできた。寝床の中であったり、布を織る織機の前であったり、
道を歩きながらであったりした。
自分が囚われの王女であったり、野を駆ける狩人であったり、旅の楽士であったりする
ことを好んで空想していた。
逆臣によって城内に幽閉された気の毒な王女は、許婚であった隣国の王子の助けを待ち
続けた。だが、待てども救いは来ず、暗い石の部屋で寂しく息絶えた。王女の魂は亡骸か
ら抜け出て、白い鳥になって空高く王子のもとに飛び去っていった。
腕自慢の若い狩人は、雌鹿を追い詰め矢を引き絞った。怯えた目の雌鹿は、見逃してく
れたら望みのものをやろう、応じてくれなかったらおまえは大切なものを失う、と言った。
狩人は表情を変えることなく矢を放った。家に帰ると狩人の女房が射殺されていた。雌鹿
と同じ場所に矢が刺さっていた。
旅の楽士は、訪れた村の老婆から人の心を躍らせるという笛を手にいれた。お前の一番
大切なものと引き換えるがよいか? と聞かれたが何も差し出さずに笛を奪って逃げた。
しかし自分のこころと引き換えされてしまったのか、それ以来いくら笛を吹いても自分が
楽しむことはできなくなった。
空想は、自分を何にでもしてくれたし、どこへでも連れて行ってくれた。ひとり、静か
に泣かせてくれた。いつか自分は違う世界へ行くのだと、うっとりと夢見ていた。
ソパが家にやって来た時のことは覚えている。
髪と瞳が黒い小柄な少年が商人に連れられてきた。隊商に連れられてどこか遠いところ
からやって来たのだと、そして父が隊商から買ったのだと思った。
あの少年は自分より少し歳嵩だろうか。貧しい身なりをしていたし心細そうな顔つきで
あったので気の毒に思った。
その後、たまに少年を見かけることがあった。もちろん、名前も知らなかったし(周囲
の者に少年の名前を尋ねる理由も動機もなかった)、口をきくこともなかった。なによりも
少女は村長の娘であったし、少年は売り買いされてきた従僕であったからだ。
空想好きな少女は少年の心に入り込んでその心情を察しようと試みたことがあった。
故郷には貧しい両親と兄弟がいるのだろう。飢えた家族の生活を救うために、少年は身
を挺したのだろう、などと考えてもみた。心底、少年が可哀そうに思え寝床で少し涙を流
した。
そのうち、少年のことなどすっかり忘れてしまっていた。
幼馴染の少女たちと歌ったり、おしゃべりすることのほうが楽しかったからだ。だから
といって少女は、決して薄情ではなかった。むしろ賢く優しい心根を持っていたが、その
年頃がそうさせてしまった。
あれから年を経て、気の毒な少年であったソパが父に気に入られ頭角を現し、使用人頭
になっていたことも知っていたし、さらには家職にとりたてられたことも知っていた。我
が家にとって、いつの間にか自分よりもずっと大きな存在になっていることに驚くばかり
だった。
ある日、父と母に呼ばれ、ソパをどう思うか、と聞かれた。
突然のことで何も答えられなかった。両親は顔を見合わせ、頷き合ってからこう言った。
「アサテよ、ソパを婿に迎え一家を成し、兄を助けこの家を盛り立てなさい」
秋の晴れた一日、アサテとソパの結婚の儀式が村の小さな聖堂で執り行われた。
屠った山羊を載せた祭壇を背にした神官の前で、二人は両膝と両手をつき、頭を垂れて、
この地と民を治めている祖神サイの忠実なしもべとなることを誓った。サイの預言者であ
る神官がこれを認め、言祝ぎ、二人は夫婦となった。
アサテは、儀式の間中、首を落とされ木の台に置かれた山羊の薄く開いた目がじっと自
分を見つめているような気がしていた。山羊の白い毛に散った鮮血に、明るい日差しが反
射している。山羊の薄目は、呪っているように、恨めしそうにしていた。
ふっと、現実から離れ空想の世界に入りかけた時、一層大きな声で神官が言葉を発した
ので吾に返った。注意深く視線を隣りに移すと、夫となったソパの横顔が見えた。立派な
青年になった異邦人が自分の夫として隣にいた。
式の後、聖堂の前庭に幔幕を張り、親族縁者たちによる祝宴が開かれた。
新婦の父である村長は終始上機嫌であったし、この日のために帰郷してきたアサテの二
人の兄達も同様だった。母も姉も嬉しそうであったのでアサテは安心した。何も怖いこと
はないのだ、不安になる必要はないと思った。
村の広場では敷物に坐した村の有力者達に酒や肉、パンや果実が村長の使用人達により
配膳された。有力者たちは酒を飲みながら、肉を食いながら、今日の掛かりはいか程なの
だろうとそればかり考えていた。
幔幕の外の村人にもご馳走は振舞われた。村人は、口々に村長の家の繁栄振りを誉めそ
やした。そしてそれ以上にソパの幸運を羨み同時に嫉妬した。汚い言葉が酒を飲む口々か
ら吐き出された。
日が落ちるまで人々は振る舞い酒で酩酊し、すっかり酒がなくなってから渋々と我が家
へと帰っていった。
その日を境にソパは、この村において余所者でなくなり、村長の家において家族の末席
におかれた。そして敷地内の小さな別棟が二人に与えられた。
ソパは、アサテに対し誠実で礼儀正しかった。しかし決して謙っているわけではなかっ
た。謙虚でありながら自信に満ちた態度で何よりも優しかった。アサテは、素晴らしい恋
と夫を手に入れたことを知った。
幸福なアサテはソパに尽くそうと思った。夢のように素晴らしい人生が始まったのだと
考えた。
一週間が過ぎ、実家に滞在していた兄達や姉も、都へ、嫁ぎ先へと帰っていった。
二人の新しく静かな日々が始まってからひと月が過ぎようとしていた。
その日は昼から南風が強く吹き始めた。厚く黒い雲が流れて集まってきたが、人々は何
も気が付かなかった。
そして雨は夜半から降り始めた。
遠くで雷が二度三度と鳴り響くと、それが合図のように寝静まった屋根を大粒の雨が叩
き始めた。はじめから雨脚は襲うように強いものだった。
強い横殴りの雨が家々の屋根を、戸を、壁を叩いた。耳をつんざくばかりの大きな音が
鳴り響く。
弾けた独楽のように人々は飛び起きた。
慌てて不用意に窓を開ければ、雨が固まりのようになって吹き込んできた。
木々の枝が風にしごかれて鈍い音をたてている。
時折、稲妻が走り、辺り一面を白く輝かせる。
鶏や山羊が怯えて鳴いている。方々で犬が吠える。やがて怯え切ったのか諦めたのか鳴
き声は次第に止んでゆく。
男たちは窓や戸を押さえて耐えた。女たちは泣き叫ぶ子供たちを腕に抱えた。暗闇の中
でどの顔も青く恐怖に慄いている。
ソパとアサテは両親を守るべく敷地内の屋敷へと走る。
真っ暗闇を雨風に押されながらずぶ濡れでたどり着いた二人は、土間で怯えて震えてい
る村長とその妻を見つけた。使用人達が周囲に見当たらない。主人を置き去りにし何処か
に逃げて震えているのだろう。
「ご主人様、お怪我はありませんでしょうか」
息を整えてからソパは訊ねる。
「いや大丈夫だ……何も心配はいらぬ。我が息子よ、ソパよ。娘よ、アサテよ。ソパよ、
おまえはもう使用人などではないのだ。ご主人様などと呼ばないでほしい」
血縁でない者への体面か、村長は落着いた様子で応える。
アサテとその両親は抱き合った。娘と母親は涙ぐんでいる。
村長は胸を押さえながら言う。
「恐ろしい雨嵐だ。このような嵐は私が生まれて初めて経験することだ。爺様の時代にも
大爺様の時代にも決してなかっただろうよ。しかし一体この嵐はどこから来たのだ。夕方
までは何も変わりはなかったのだ。まったく突然にこんなことが起こり得るのか。神罰か、
誰が一体何をしたというのか。天罰か、この村はどうなるのか」
駆けつけた娘夫婦が村長を安堵させ、そして多弁にさせた。
「貴方、落着いて下さい。この嵐も明日になればきっと静まります。大丈夫よ、アサテ」
四人はひたすらじっと耐え、暗闇の恐怖が過ぎ去るのを待つしかなかった。
山の端がうっすらと、ごく弱く白みはじめ、夜が明けようとしている。
風は止んでいる。しかし、雨はなおも続いている。人々は一睡もせずに耐え続けた。
アサテが言う。
「お兄様達が都へ帰っていった後でよかったわ」
村長が応える。
「本当に良かった。ここから十日離れている都にはこの雨も及んではいないだろう」
「でもお姉さまはどうしているかしら。二日で行き来できるのですもの。きっと大変な思
いをしてらっしゃるわ」
「今、案じても仕方あるまい。雨が止んだら人を遣って様子を見てこさせよう。手伝いの
者も遣ろう。だからアサテ、案じるな」
涙を流してアサテは小さく頷いた。
次の日もまた次の日も雨は降り続く。そして雨は六日続いた。
すでに人々は恐れ始めている。山が崩れ、川が破れることを。どこに逃げたらいいのだ
ろう。思案の行き着く場はなかった。
そして七日目の夕刻、恐れていたことは全くその通りになった。まるで約束が果たされ
るかのように。
やっと雨が止んだかと人々が安堵すると、何処からか水が湧き出だすように溢れてきた。
川が氾濫したのだった。雨を受けるだけ受けて耐え続けてきた川の命が落ちた。
壁のように、水と土砂が音をたてて押し寄せてきた。
そして家々を押し流してきた。ある家は、屋根だけがそのままの形で流れて来たし、あ
る家は、バラバラに崩されて流れて来た。
必死の形相の幾人もの村人が流されてきた。皆、頭一つを出して声も出せずに流されて
くる。何かにしがみついて流されずにいる者も、目前を流れて行く者に手を差し伸べて助
けることができない。そして同様に多くの家畜が流されて行った。
生きる者の頭はしばらく流されると沈んで見えなくなってしまった。
翌日は、雲ひとつない晴天となった。まぶしい日差しが辺り一面に積もった泥に反射し
ている。
ソパは何も覚えていない。
あの時、突然家の壁が破られ濁流が押し寄せてきた。
一緒にいた四人は散り散りに流された。村長夫妻や妻がどこにどう流されていったのか。
自分の視界にあったのは黒い水しぶきだけだった。鈍い音を立てて壁が崩れる音や鋭く柱
が折れる音を聞いた覚えはある。だが、それから以降の記憶は濁流とともに流されてしま
った。
気がついた時、身体が半分泥の中に埋まっていた。口や耳の中まで褐色の泥が入り込ん
でいた。独特の臭気が漂っていた。
明るい陽光が頭と首筋に差していた。喜びを錯覚させるような日の光だった。家からだ
いぶ遠くに流されていたようだった。起き上がってみれば、泥だらけの身体からは所々鮮
血が滲んでおり、足や背の打撲痛でしばらくは歩くことができなかった。流されながらい
ろいろなものにぶち当たったのだろう。泥に覆われた皮膚はきっと腫上がっているのに違
いない。
よろよろとしばらく行く。
村の惨状は、目を覆うばかりだった。気が遠くなるような思いで歩を進める。
なおも歩くとアサテが呆けたように泥の中に座り込んでいた。奇跡のようだった。彼女
は顔中体中、乾いた泥と血で汚れていた。
身体の力が抜けるように嬉しかった。涙が溢れる。その涙が顔の泥の上をいく筋かなぞ
って流れた。
「アサテよ……良かった……無事だったのだな……身体は痛むのか、大丈夫か……ご主人
様は、奥様はどこにいるのか。知っているのなら教えて欲しい」
汚れた顔に涙を滲ませてアサテが応える。
「ああ……あなた……無事だったのですね……体中が痛くて立ち上がることができません
……ずっとこうして動けずにいました……父や母とはあれっきりです……どこにいるのか
見当もつきません……」
ソパはアサテの腕をとって付近を探し始めた。同じように家族を探している村人を幾人
も見かけた。
一日探し回り、二人は望みが薄いことを知った。諦めきれるものではなかった。しかし
何も期待できないことは村の惨状をみれば明らかだった。
その晩、二人は崩れた家畜小屋の隅で抱き合って眠った。
翌日も綺麗な青い空が広がっていた。
人々は疲れ切り絶望の淵にいた。皆、うな垂れて座り込んでいる。身体は重くだるく、
皆どこかに怪我を負っている。
押し黙った村の中で、最初に声を上げたのは子供達であった。怪我をしながらも空腹を
訴える子供の声に大人達はやっと腰を上げて食べられるものを皆で探し始めた。
水に浸かった麦の袋が幾つか見つかり、それを練って焼いて食べた。まずは食べること
によってその場から救われた。
水が引くのを待った。
引いた場所から、泥のなかから腕や足を出して埋もれている遺体を引きずりだしては広
場に集める作業を始めた。
子供達は別の場所に集めこれを見せないようにした。そして遺体は祈りの言葉で清めら
れた後、次々に埋葬された。これらの作業を監督指揮したのはソパだった。
水が完全に引き切るまでに五日かかった。
その後の土砂にはさらに多くの遺体が埋もれていた。腐臭の中、掘り起こす作業が続け
られた。遠くまで流されてしまったと思われる者は捜しようもなかった。帰ってこない者
は全て死んだものと見なされた。
ソパは不明者の数を調べた。村人の五人のうち三人は帰ってこなかった。百五十人の世
帯主は五十人に減っていた。そして殆どの家畜と畑は流された。あの嵐は三つの県を押し
流して過ぎていったことを人々は後で知った。
両親を亡くしたアサテの表情は消えて白い顔をしていた。
その後、アサテの兄達が都から見舞いに訪れた。アサテの姉とその家族の行方がわから
ないことを兄達から聞いた。
そして彼等は、自分たちが相続するものは全て押し流されたと知ると不機嫌に、よそよ
そしく帰って行った。寂しそうに兄達を見送ったアサテは、肉親の話をその後決してしな
かった。
人々は、長い時間をかけて村を復旧するべく働いた。土砂や流木を除け、少しずつ畑を
掘り返していった。
しかし、川の流れが変わり引き込まれる農業用水の量が減った為に、豊かだった村を取
り戻せないまま十二年が過ぎていた。
その間、ソパとアサテには、四人の子が生まれていた。
ソパは、二年程前から同世代の男達数名と定期的に行商に出かける。半年毎、大抵がひ
と月程の旅だった。彼等は、村で織られた布を売りに行くのだ。十数頭のロバの背に荷を
負わせ、遠い都やその周辺の町々まで売り歩く。
あの嵐で農産物の収穫は激減した。富や文化を振り落としていった隊商のルートも変わ
り、村を通過することはなくなった。だから、村は貧しくなった。
共同事業として、村で織った布を遠くの町々で売り、道中で得た産物を他所で売ること
をソパは提案した。以前も、布を隊商に売り渡すことはあったが、村の復興の為規模を広
げたものだった。
男達は旅先での稼ぎで、農産物、農具や家畜を買って村に帰ってきた。荷を負うロバも
そのようにして買ったのだという。
疲れた顔で帰ってきた男達も、待っていた女房や子供たちに迎えられると表情をほころ
ばせた。豊かに富んだ以前の村には遠く及びもしなかったが、村はどん底から立ち上がろ
うとしているように見えた。
ソラにとって父の不在は寂しかったが、母を助け弟妹たちと家畜の世話をして留守を預
かることは誇らしいことだった。
父の黒い髪と黒い瞳を、きょうだいの中でただ一人受け継いだことは、ソラにとって密
かな喜びだった。一人でいる時はいつも父のことを考えていた。今日も父の言葉を思い出
す。以前、父がソラに話してくれた村に伝わる昔の話だ。
「ソラ、この村には古くからの言い伝えがある。とても短い話だが、それだけに含みを持
っていて人によっていろいろに解釈される話だ。私がこの村に来た頃に聞いた話だ。古い
人なら皆知っているが今では誰も口には出さない」
「どんな話なの。どうして今は誰も話さなくなってしまったの」
「古い話は年寄り達が話してくれるものだ。あの嵐が多くの年寄り達を流してしまった。
残った若い者達は、今更、言い伝えを口にすることは悲しいことだと考えているからね」
「どうして悲しいことなの」
「言い伝えが、未来は素晴らしいと謳っているせいだ。嵐で何もかもが無くなってしまっ
て、今更その話を信じても仕方ないということだよ。でもソラはこの村に生まれた子だ。
この村の言い伝えを知っておく必要がある。いつかきっとソラを助ける時がくる。だから、
伝えておくよ」
ずっと昔から村に伝わるこの話は、最初にこの地に流れてきて住み着いた人たちが、遠
い国から持ってきたという。その子孫が村の人々だ。
『善き人が帰り来て、吾らに命を与え、過去を変え、未来を知る力を与えてくれる。そし
て分かれていたものを再びひとつにする』
この世の始め、人は万物と一体であった。養生すれば望むだけ生きることができた。
ある兄弟がいた。
兄は、選ばれた者であると自らを信じ、この世を治めようとした。この為、弟と争いを
起こした。
兄は弓矢で弟を射殺したが、危機の到来を察した弟はこっそり兄の弓の弦に毒を塗っ
ておいた。
兄が弓の弦を引き、矢を射った時、弦の毒が跳ねて目に入った。兄の目は閉ざされ、
何も見えないままでこの世を生きてゆかなければならなくなった。
弟を亡き者とした兄は万物の王となったが、周りが何も見えないので絶えず不安で、
いつも憤っているようになった。絶え間ない憤りは王の精神と肉体を蝕んだ。そして弱り
切った末に寂しく死んでしまった。
何も見えない王に統治された人々も何も見えない世に生きていた。もともと、万物と一
体である人間だったが、そのことをすっかり忘れてしまった。お互いの心はすっかり離れ
離れになっていた。
今はそれ以来続く世なのだと言い伝えは言う。
いつの日か、何らかの条件が満たされた時、射殺されたはずの弟が現れ、この世を元通
りにするという。全ての心と言葉をひとつに戻すという。その条件を知る者はいまだにい
ない。
『善き人が帰り来て、吾らに命を与え、過去を変え、未来を知る力を与えてくれる。そし
て分かれていたものを再びひとつにする』
長い間、村人はこの不思議な言い伝えを素直に解釈し伝承してきた。もし、その者に忌
まわしい過去があったならそれを取り消してくれ、未来を知ることで様々な富がもたらさ
れると。未来を知ることは、未来を操ることと同じ意味であると。
父は続けて、昔の人の言葉をソラに話した。
命ある者はやがて命を失う。富める者からはやがて富は去る。若い美貌はやがて醜く衰
える。信じ通じ合った気持ちさえ長く続くことはなく、いずれ憎しみさえ生じる。全ては
たえず変化していく。多くを望む者は多くを失う。他者への怒り恨みはやがてそのまま己
へ返ってくる。望むことは、所詮空しい。死ぬ時、手には何も握っていない。
しかし、ソラよ。人は絶えず求める心が必要だと信じる。求める心こそ生きる力だ。何
も求めず、何もせずに生きていくのはあまりに意味がないとは思わないか。欲しいものを
欲しいと、はっきり言って行動できる男になってほしい。自分は何が欲しいのか、よく考
えて答えを出すことだ。そして欲しいものに向かって、ソラよ、正直に、戦って生きてい
きなさい。
父は子供の自分に熱心に語りかけてくれた。その時の父の真摯な目の輝きを忘れない。
平らで茶色い荒地の上を青い空に白い雲がゆったりと浮かんでいる。
ソラの父ソパは五人の仲間たちと、高く荷を積ませた十数頭のロバを引いていた。遠く
に小さな家々が点々と見える。村の入り口に近づいているのだ。
長い道を帰って来た。男たちは脂じみ疲れきった表情を浮かべている。
仲間のリーダーであるソパの懐には、革袋にずしりと銀貨や銅貨が収められている。い
ずれ仲間たちと山分けする。それまでは村内のある場所に埋めて隠されることになる。埋
めた金を掘り返す者がいないか、仲間たちが毎日確認できる場所と決められている。
これとは別に、行商品の売上と購入した農作物と農具などは村で分配される。多くはな
い金額ではあったが、それでもこの収入は村を潤す。
家に帰れば妻と子が待っている。待っている家族に早く会いたい気持ちと、帰りたくな
い気持ちが複雑に交錯している。
自分には、夫、父である資格はなくなってしまっている。人としても、ない……。
帰り着こうとするソパたちとは別に、別の道筋から村に向かっている一団があった。馬
を早足で駆けさせる八人の男たちだ。
彼らは、陽に反射してキラキラ輝く抜き身の槍や剣を肩に担ぎ、背には弓矢を負ってい
る。誰も口を利かず、武人のように巧みに手綱を操っている。
村の外れに入ると、一斉に馬の歩を駆け足に変えた。道筋で数人の村人と唐突に出くわ
したが、異様な一団を見た村人は踵を返して四方に逃げた。騎乗の八人は、それには見向
きもしない。
一団はいよいよ村の中心に入った。
地に響く蹄の音を聞いた村人は異変に気づいた。村は騒ぎになった。
八騎は、村の中心部にある大きな納屋の前で下馬する。そこは村の共同食料庫だ。六人
が刀を鞘に収め納屋に走り、残りの二人は食糧庫を背に弓を引き絞って身構える。
扉を叩き割り、中から麦の袋を運び出す。それを次々と奪ったばかりの荷車に積み込ん
でいる。誰も口を利かない。
素早い行動で全ての荷を積み終わると馬一頭にそれを牽かせて引き上げようとする。
村への侵入から略奪までほんのひと時だ。彼らが迷うことなく村の食料庫に向かったの
は事前に調べてあってのことだろう。
その時になって村は応戦の準備を整えた。村人たちは、手に剣や農具を持って荷車の進
行を阻止しようと遠巻きに八騎を取り囲んだ。
「村の様子がおかしい。聞こえるか? 何か起こっているぞ」
この旅の辛い行程を噛みしめながら歩いていたソパは、仲間に言われ、我に返った。
「うん?……(何か聞こえてくる)急ごう」
ソパたちは駆けに駆けて村に入った。
村人たちが馬に乗った男たちを遠巻きに囲んでいる。ソパは何が起こっているのか直感
した。
「盗賊だ、盗賊たちに村の食料を奪われようとしている」
村人が、駆けて着けて来たソパたちに事を伝え、剣を渡す。村に帰った六人の男たちは
盗賊に立ち向かった。
「賊め、許さんぞ」ソパが叫ぶ。
すると、それを合図にしたかのように、盗賊たちが、どっと村人たちに打って出た。盗
賊はソパたちには見向きもせず、遠巻きにしていた村人たちを狙った。騎馬が迫ると村人
たちは逃げ惑った。反撃しようとした村に対し、盗賊たちは明らかに憤っていた。
これを阻止すべく、ソパたちが立ち向かった。だが、すぐに盗賊たちに取り囲まれた。
「気をつけろ、皆離れるな、背を賊に向けるな」ソパは仲間たちに叫んだ。
「親を狙え、子は狙うな」仲間の誰かが叫んだ。
「おう、わかった」ソパたちはこの意を解しこれに応えた。
それぞれは手にした剣を馬の尻に鋭く突き回し、盗賊たちの落馬を目論んだ。
盗賊たちは新手の男たちが他の村人とは違い、戦いを知っていると即座に理解した。
馬を充分に駆け回らせ、六人を引き付け引き回し、そして追い回し疲れさせた。格段に
動きが鈍った足は盗賊たちに付いていけなくなった。繰り出す剣も鋭さが鈍った。
それでも盗賊たちは自分たちの安全圏から出ようとはしなかった。繰り出される剣が届
かない距離を保ちながらソパたちを引き回した。
そして彼等の足が動かなくなったと見ると、舞い踊るようにソパの仲間たちを次々に切
り倒した。
ソパは仲間たちが倒れた後、尚も盗賊たちに立ち向かった。そして騎乗の盗賊の足を剣
でなぎ払った。ソパに足を狙われた盗賊は巧みにその剣を避けたのでかすり傷程度にしか
ならなかった。
ソパの立ち回りが盗賊たちの注目を集めた。
そして彼等は残ったソパを取り囲んだ。馬はぐるぐるとソパの周りを回る。ソパの背後
から剣が伸びてくるのが分かる。身を反転させてそれに備える。するとまた背後に気配が
忍び寄る。
弓を引く音が聞こえた。ソパが全身の毛を逆立てた時、尻に火のような激痛を感じた。
矢が突き刺さっている。ソパが倒れると同時に盗賊が馬から飛び降り、襲いかかる。腹這
いのソパの両手両足が盗賊たちに押さえられた。
額に十文字の傷のある騎乗の男が薄ら笑いながら言う。
「手足の腱を切れ。殺すよりもそれがよい。これからは、虫のように這いずって生きるの
だ。獣のように地べたからものを食うのだ。我らに歯向かいおって。よい気味だわ」
ソパの手足を押さえる盗賊たちは腰の短刀を抜いてその言葉に従った。
両手足からおびただしく出血させられたソパは、腹這いのまま気を失った。
面倒な敵を始末した盗賊たちは、次の獲物に標的を定めた。遊びまわるように村人を追
い回し、次々と背中から切り捨てた。同時に家に火を付けた。
火が上がると家の中に隠れていた女や子供たちが飛び出してきた。そして待ち構えてい
た盗賊に追い回され、あっという間に首筋を切られ脇を刺されて倒された。
盗賊たちは一撃で人を殺す術を知っていた。
返り血を浴びる間もなく次から次へと村人を殺戮した。騎馬は縦横無尽に駆け回り、人
の命を奪い続けた。
家の中に隠れていたソラは、母アサテ、弟妹と裏手から逃れようと走った。他の家々
からも老人や子供たちが走り出している。
若い盗賊の一人がそれを見逃さなかった。手綱を引いて追う。あっという間に追いつか
れ、槍の柄で一人の子供と老人を叩き殺した。盗賊の目は、興奮して真っ赤に充血してい
る。
アサテは娘ピナを抱き、三男ピノの手を引いて逃げる。長男ソラと次男ピスはその前を
走っている。盗賊は容易に追いつき先回りし、続けざまにピスとピノの頭を槍の柄で殴り
割った。
盗賊の左手がアサテの髪の毛を掴んだとき、勇敢にもこの若い母は抱きかかえた幼い娘
を守るため盗賊の手首に噛み付いた。目の前で我が子の命を奪われたアサテの面相は鬼神
のようだった。
盗賊は思わぬ反撃に慌てた。しかし振りほどこうにも女の顎はしっかりと自分の手首に
喰らいつき離れない。痛みで気が遠くなりかけた。しかし気合を充実させ、右手の槍を捨
て、抜いた剣でアサテのわき腹を貫いた。同時に、盗賊の手首もその腕から離れ、身体も
ろ共馬からドウッ、と落ちた。血しぶきが上がる。
しばらく転げまわって苦しんでいた盗賊もやがて動かなくなった。白目を剥いたアサテ
も絶命している。
母の手から離れた妹ピナを抱きかかえてソラはそのまま逃げた。妹は兄の脇に抱えられ
ながら短く激しい息をしている。
凄まじい恐怖がソラを駆けさせた。駆けて、駆けて、駆け抜けた。
目の前で起こったことは、想像も絶する光景だった。
馬に乗った盗賊が槍や剣を振り回して村人を追い回す。追い回される村人は恐怖で白い
目を剥いている。追い回す賊は怒りで真っ赤な目玉を剥いている。人の身体に槍が刺され、
剣が薙ぎ払われると、肉が破られ赤い血が噴出する。
さっきまで笑いながら固い麦の菓子をかじっていた少女が腹を割られ臓物を地面に垂
れ流して横たわっている。
派手に口げんかしていた若い夫婦は共々頭蓋を割られ、流れでた脳しょうが汚した顔を
二人そろって空に向けている。
昨日産んだばかりの子を残して首を切られ地面に横たわる母親がいる。地面の上で乳を
もらえず身動き出来ぬ子の呼吸もじきに消えいってしまうだろう。
皆、死んでしまっているのに体温はまだ少しも失われていない。
恐ろしい光景が、ソラの頭の中をぐるぐる回っている。
何よりも、母と二人の弟の命も奪われてしまった。
山羊を連れて帰って来たばかりの出来事だった。
弟や妹を連れて帰ってきたソラを、少し前に戻っていた母は家の前で迎えてくれた。そ
して一人ひとりを順に抱きしめた。
「お帰り、ソラ。お帰り、ピス、お帰り、ピノ。お帰り、ピナ。皆、元気に働いてくれて
ありがとう。疲れたかい。たくさん働いて偉かったね。おやつがあるわよ。顔を洗ってお
あがりなさい」
きょうだいは小さな歓声を上げた。
優しい母が先に家に戻って自分たちを迎えてくれたこと。労ってくれたこと。褒めてく
れたこと。何よりも母がいてくれたことが嬉しかった。
しかしこれらの楽しい思いはもう二度と訪れない。もう奪われてしまった。少し前に抱
きしめてくれた母のにおい、体温を覚えている。喜んだ弟妹の顔も覚えている。でももう
二度とこの幸福と再会することはない。
駆け続けたソラの心と身体の力は、ふっ、と途絶えた。ぐったりとした妹を抱いたまま
草むらに倒れこんだ。
意識が、宙の中に沈み落ちてゆく。
大きく渦を巻きながら下降し上昇する。
周囲は暗黒だ。何も見えない。
そこに、何条ものごく細い光の矢が差込み始める。
光の矢は闇を突き通す。
その数は増してゆく。
急速に闇は薄れ明るくなってゆく。
明るさが増してゆく。
それに伴って意識が膨張してゆく。
どんどん大きく広がった意識は波打ち始める。
一定の調子で大きく波打っている。
さらに明るくなってゆく。
微細な光の粒子が踊っているようだ。
波打っている意識にそれらは入り込んでゆく。
意識に入り込んだ光の粒子が暖かく感じる。
冷え切った意識が暖かくなってゆく。
ここはどこだろう。
とても暖かな白くまぶしい光に包まれている。
ここはどこだろう。
自分は死んでしまったのか。
いやそんなはずはない。こうして幸福な気持ちでいられるのだから。
今自分はとても嬉しい。
誰かが自分を見つめている。
誰だろう。
誰かが自分を呼んでいるのか。
横を見ても、後ろを見ても誰もいない。
顔を正面に戻したとき、そこに誰か、がいた。
「ソラよ、ソラ。とても恐ろしい思いをした、かわいそうな、ソラよ」
誰か、が語りかける。
「おまえは誰だ、なぜ名前を知っている」
自分と同じくらいの歳と思われる少女、肩まで伸びた黒い髪、黒く濡れた大きな瞳、白
く輝く肌、薄く赤く小さな唇、白い衣は光を放っていて眩しい。
不思議と怖くない。生きている人間とはとても思えないのに。いや、それどころかとて
も懐かしい気持ちがおこるのはなぜだろう。
「私はずっと前からおまえを知っている。おまえとこうして会えて、とても嬉しい。おま
えにこうして語ることができて、とても嬉しい」
少女は少し微笑んだ。
「おまえのことは知らない。村にはおまえはいなかった。村の者はみんな知っている。家
の遠い縁者なのか。おまえは誰だ」
少女は、問いかけに一拍置いて答える。
私はおまえであり、おまえは私だ。
そして私はすべてであり、おまえはすべてだ。
おまえは永遠であり、一瞬である。
おまえは言葉であり、山であり、川であり、岩であり、日の光であり、森の木々であり、
風であり、土であり、鳥であり、虫であり、人々であり、すべてのものすべてだ。
おまえはすべてのものすべてだ。
私はおまえであり、おまえは私だ。
おまえは辛い思いを幼いながらした。死ぬような辛い思いをした。
しかしそれらは皆必然だ。
すべての出来事にはすべて意味がある。偶然はない。
おまえは心に恐怖、悲しみ、憎しみや恨みを負った。
しかし、それらの感情を心の中から放ってやる術を学ばなければならない。
心の中にこれらを生じさせない術を学ばなければならない。
すべての出来事が必然であることを忘れてはいけない。
出来事を無駄にしてはいけない。
おまえは今、仮に死んでいる。死んで私の言葉を聞いている。
しかしおまえは目を覚まさなければならない。
しかしおまえは生き続けなければならない。
生き続けて、おまえは約束を果さなければならない。
おまえは生まれ出る前に、天の主と約束をしてきた。
やがて、約束を思い出さなければならない。
約束を思い出さずに死ぬことは許されない。
約束を思い出しても、それを果す前に死ぬことも許されない。
それまでおまえは死なない。
おまえはこの世に留まらなければならない。
約束を果たすために、おまえは何度でも使命を背負って生まれ変わらなければならない。
私はおまえにそれを伝えるために、それを思い出させるために、ここに現れた。
「そんな約束はしてない、そんな覚えはない」
懐かしい思いのする少女の理不尽な言葉にソラは苛立った。
そんなことは意に介さぬかのように、少女は慈愛に満ちた瞳で微笑んでいる。
そればかりか瞳は涙で濡れている。
今はそれでよい。
この世に生まれたときに、一旦は全て忘れてしまうものだ。
しかし、思い出すことも約束のうちだ。
思い出さずにいることはすでに罪だ。
これからのおまえの長くもない人生のどこかで思い出させるだろう。
思い出すということは、創り出すということだ。
それはある日突然来る。
覚えておきなさい。
おまえの気持ちをいつも瞳に現せ。
強い気持ちを瞳に現せ。
くじけない気持ちを瞳に現せ。
心と瞳がつながっていることを忘れてはいけない。
この玉をおまえに与えよう。
しかし、元々おまえの持ち物だ。
この玉は印だ。
この印を持つことで、おまえは自身を助けるだろう。
いつも心安らかにあれ。
おまえは調和であることを知っておくがよい。
少女はそう言うと手のひらに乗せた、たくさんの色の光を放つ玉をソラの前に差し出し
た。するとあっという間もなく、玉はソラの口から喉奥に入り込んでしまった。まるでソ
ラが望んだかのように、玉が自ら意志をもって身体に収まるかのように。
森の朝露がソラの瞼に落ちた。気が付くと、山中に倒れていた。うっすらと目を開ける
と、木々のこずえの先に青く高い空が見えた。白い雲が流れていた。鳥がさえずっている。
しばらくは動く事ができなかった。
一体何がおこったのだろう。何故自分はここにいるのだろう。
何だか安らいだ気持ちだ。
ほんの少しの間の平安な気持ちはすぐに、恐ろしい記憶の再来によって破られた。
胸に激痛が走るような感覚を覚えた。動悸が早まる。身体中が熱く、痛い。気がつけば
足や腕や首、身体中が擦り傷で赤黒い血で塗られている。
大変なことが起きたんだ……。だが、この記憶は正しいのか?
かたわらを見れば、幼い妹が眠っている。
ああ、良かった、妹は自分が守った。
うれしくなって眠っている妹を起こそうと頬に触れてみた。……冷たく硬くなっている。
息をしていなかった。死んでしまっている。自分は取り残されてしまった。
こめかみと眼球が鋭く痛んだ。どうしていいかわからなかった。自分が殺してしまった
かのように思えた。
激しい悲しみと孤独がソラを嘔吐させた。苦しい声とともに胃の中のものが逆流した。
胃の中のものがすべてなくなった。涙を流しながらしばらくの間、ソラは座り込んで考
えた。
自分が見た村の惨状が実はすべて幻だったのではないかという気がしてきた。
考えが混乱している。村はどうなっているのだろう。母や弟はどうしているのだろうか。
父はいつ旅から戻ってくるのだろう。早く家族に会わなければ、早く母に自分を抱きしめ
てもらわねば。さっき見たものは全部うそに違いない。
ソラは村に向かって山を下りはじめた。
背中には死んでしまった妹を負ぶっている。妹の両手を自らの両手で持って負ぶってい
る。妹の死だけが今のソラにとっての真実だった。
驚くほど山に深く入り込んでいた。遠くに村が見えた時、日は頭の真上にあった。
村に入ると、火を放たれた家々はまだ燻って煙を立てていた。きな臭い。血の匂いがす
る。烏の群れが遠巻きに様子をうかがっている。あちらこちらに人が倒れている。生きて
いる者の姿は見えない。村中の者すべて殺されたわけはない。どこかに逃げたのだろう。
「みんないなくなってしまった」
昨日まで貧しくとも生きて暮らしをたてていた人々が今は冷たくなって、道に、家の戸
口に無残な姿を横たえている。
ソラは妹の亡骸を背負ったまま自分の家に歩をすすめる。
「父さん、母さん、ピス、ピノ。今帰るからね。ピナは死んでしまったけどちゃんと家に
連れて帰るからね」
絶望の中にも「もしかしたら……」という気持ちがあった。もしかしたら皆無事で、旅
から帰った父とともに自分の帰りを待ちわびているのではないかと、傷ついた心はほんの
少しの灯火を持っていた。
その時、大きな太い声が自分を呼び止めた。
「小僧、待て。おまえはこの村の者だな」
ソラは恐怖で立ちすくんだ。背後からの声の主は昨日の盗賊の一人であると直感した。
口がカラカラに渇いて声もでない。このまま殺される。妹の亡骸をここまで連れて帰った
のに、自分の家までもうすぐだというのに。
「うまく逃げおおせたものだな。おまえが村に入ってくるのをずっと物陰からうかがって
いた。おまえを連れて帰ることにする。背中に負っている子はすでに死んでいるから放し
てしまえ」
ソラがやっとの思いでふり返ると若い男が立っていた。手には抜き身の短刀を下げてい
る。
さて、首領には何と言い訳するものかな。ソラから目を離さずに盗賊は考えた。
金目のものが残っているかもしれない、もう一度村に行って探して来い、何か土産を持
ち帰れ。
こう首領に言われて村中を探していたのだ。更に首領は付け加えた。
帰ってこない手下が一人いる、あのまま逃げたとは思えん。逃げても行くところもない
だろう。だが、念のために探して来い、と。
村に来てみれば辺りには多くの死体が散らばっていた。村人すべてが殺されたわけでも
ない。生き残った者も多かろうが、皆どこかに逃げ去っているのだろう。
帰って来ない仲間はどこにも見当たらない。逃げたのか。逃げ切れると思うのか、あの
首領から。馬鹿な奴だ。
やはり村には何も残されていなかった。最初からそうだったのだ。村人が蓄えなどを残
しているはずもない。元々何もなかったのだ。俺は金になるものを何も持ち帰らないで、
こんな小僧を連れて帰って何と言われるだろう。仕方ない、手ぶらで帰ればどんな手厳し
い仕置きを受けるかわからない。首領の機嫌次第だ。
若い盗賊はソラの首に荒縄を巻きつけて馬に乗って行く。ソラは小走りで引っ張られて
行く。
妹の亡骸はその場で放された。ソラはピナを地面に置いた時、そっとその冷たく硬くな
った頬をなでた。まだ小さいのだから一人にされたら寂しいだろうなと思った。もう会え
ない、と思った。
小半日も行くとそこに盗賊の隠れ家があった。
そこは朽ち果てた狩人の小屋だ。
小屋の脇には盗賊の馬が繋がれていた。村を襲った馬達はとても大きくみえたものだが
実際には小柄なものだった。馬の首の位置は大人の背たけより幾分高いくらいだった。長
い体毛でおおわれ、太い足をしていた。皆おとなしく優しい目をしていた。村で何をさせ
られたか、知っているのだろうか。
狭い小屋の中には六人の男達がいた。火を囲んでいる。火の端には羽をむしられ小枝に
刺された小鳥が燻されている。
ソラを連れ帰った若い盗賊は、真ん中に座る一番小さな男に経緯を報告した。
額に十文字の刃物傷のある狡猾な目のその男は、ソラを一瞥しただけで何も言わなかっ
た。若い盗賊はほっと胸をなでおろしたようだった。
この小さな男は殆ど言葉を発しなかった。他の男たちは彼を上目遣いに見ている。皆語
ることもなく、じっと押し黙ったまま鳥の肉をむしっては口に運んでいた。
大勢の盗賊たちに村を襲われたと思っていたが、実際にはこれだけの人数だったのだ。
いや、忘れてはいけない。戻ってこなかった盗賊が一人いた。若い母親に手首を噛み千切
られて死んだ男を加えれば八人の盗賊たちに村は襲われたのだ。
この男たちに村は壊滅させられ、僅かな蓄えは奪われた。あの嵐から少しずつ築かれた
村の暮らしは一撃で破られた。もちろん、逃げおおせた村人は何人もいるだろうが、村に
帰っても何もなく、結局はあてどなく流浪して道ばたで死んでいくのだろう。
小屋の外はすっかり暗くなっていた。
囲炉裏の火が男達の髯面を橙色に染めている。誰もが黙っている。
ソラは僅かな鳥の肉片を放られた。食欲などまったくなかった。しかし男達が怖くて、
無理をして食べた。
その夜は寝付かれなかった。
暗闇に男たちの太いいびきが聞こえる。ソラの頭の中で大きな何かがうねっている。つ
ぶっている目がぐるぐる回った。
たった二日間でソラの生活は全く変わってしまった。これからどうなっていくのだろう
か。考えても答えは得られなかった。所詮、十歳の子供であったし、捕らわれの身であっ
たからだ。
翌朝早く、一人を除いて男たちは馬に乗って出かけて行った。
残った一人は怪我をしていたので、ソラが逃げ出さないよう見張りの役目も担ってアジ
トに留まったようだ。怪我の理由は落馬だった。村を襲った帰り道に不用意に落馬したの
だった。この落ち度のために昨夜、この男は食事することを首領に許されなかった。不平
を言うでもなくこの男は命令に従っていた。
ソラは逃げ出したかったが、男が怖かった。男の視界には必ず自分が入っていることが
わかっていた。男は腫れあがった片足に添え木をあてて布で縛り付けていた。
昼も過ぎるころ男が口を開いた。
「おまえは幾つだ」
答えずに黙っていると強い口調で問われた。
「……十歳」
「親兄弟は死んだのか」
「……何も知らない」
その日に口をきいたのはそれだけだった。
翌日からソラは薪割りを命じられた。また、木の実を採ってくることも命じられた。男
は自分の目の届かないところまでソラが行く事を禁じた。実際には木の陰に入ることで男
の視界からはソラは消える事もあった。逃げようと思えば逃げられたかもしれない。しか
し怖くて逃げることができなかった。
足を怪我しているとはいえ男は弓を持っていたし、吹き矢も持っていた。いったん立ち
上がれば、どんなにか早くソラを追い駆けてくるかもしれない。
結果としてソラは男の命令に忠実に従うことになった。
一週間が過ぎた。盗賊達は一度戻ってきてまたすぐに出かけて行った。
アジトにはソラと男が残っていた。男の足の腫れは引くことはなく、添え木も当てたま
まだった。骨折していることはソラにでもわかった。それでもソラを追えば、犬のように
早く走れるのではないかと恐れた。
ソラは命じられて薪を拾い、木の実を拾う。時折、男が吹き矢で仕留め地に落ちた小鳥
を拾いに行かされた。
羽と内臓を抜かれた小鳥は干された後、火で燻され保存食となった。抜いた内臓は火で
炙り二人で食べた。
恐怖は毎日の暮らしで少なくなってはいた。殺されるかもしれない、という思いはなく
なった。ソラの観察力は男が思いのほか若いということを教えてくれた。自分の父親はも
ちろん、首領よりもずっと年下に見えた。そしてとても寂しそうに思えた。
ある夜、ソラは男に勇気を出して訊ねた。
「聞きたいことがある」
男はソラに背を向けたまま、何が聞きたいのだと言う。
「あんたたちは何で村を襲ってみんなを殺して食べ物を奪ったのか」
男はふり返り、じっとソラを見つめた。怖くなってソラは目を背けた。
「俺の名前はトクだ。これからはそう呼ぶとよい。お前の名は」
「……ソラ」
「そうか、これからはそう呼ぶ」
そして節くれだった指先に視線を落としたまま、トクはしばらく押し黙った。暗闇の中、
わずかな炎の明るさに男のひげの顔が浮き上がっている。
「おまえの問いに答えよう。……奪わなければ生きてゆけないからだ。生きているものは
皆、他の生を犠牲にして生きていかねばならない。鳥は虫を食い、狼は鹿を食い、人はそ
れら全てのものを食っている。そして地に果てた屍を虫が食う。皆、他の生の命を奪って
自ら生き長らえている。それがこの世の中の秩序だ。首領と俺たちはそうして生きている」
聞いていて、家族を殺された怒りがみるみる込み上げてきて、思わず口走った。
「でも、村の者は誰も殺したりなんかしない。助け合って生きてきたんだ。そんなの言い
訳だ。人のものを奪って、もっともらしいこと言ってる」
男の表情に悲しみが現れた。
「……その通りだ。おまえの言う通りだ。人を殺めて奪うなど鬼畜の仕業としか言い様も
無い。ただし、俺はおまえの親を殺していない。他の誰も殺していない。今まで誰も殺し
てこなかった。……しかしそれも言い訳だ。俺も盗賊の一味だ。やっていることは同じだ。
捕まれば死罪になる。死ねば親は悲しむだろう。ただし、親がいればの話だ。親がいない
俺には悲しむ者は誰もいない。死んだ俺をどこからか俺の魂が眺めて悲しむしかない。親
がいれば俺はここにはいなかったろう。親がいないからここにいる、というわけでもない
が。誰かを悲しむという気持ちは貴いものだ。慈悲という言葉ととても似ているものだと
俺は思う。心配してもらったり、悲しんでもらったりすることは、人のこころを撫でてく
れる。誰も悲しんではくれないことは、とても淋しい……」
そう言うと、少し驚いたように目をソラに向けた
「ソラよ、ソラよ、俺は今までこんなことは他の誰にも話したことはなかった。その前に、
考えたこともなかった。……考えたこともなかった……はずだ。とても不思議な気持ちだ。
そしておまえは不思議だ。村で見つかった時、殺されていても不思議でなかった。それが
連れてこられた。ここでは誰もおまえには手を下さなかった。おまえのことを、なにか不
思議なものが覆っているような気がする。そしておまえは人を不思議な気持ちにさせるよ
うだ。この一週間、おまえを見ていてそう思ったし、今、おまえに言葉をかけていて、そ
の気持ちは一層強くなった。ソラ、おまえは何者だ」
「……そんなこと言われても」
ソラは困った。盗賊の一味であるこの男への恐怖がなくなってしまっていた。
トクは言葉を続けた。
「俺もおまえと同じように親兄弟を殺された者だ。国と国との戦の一団が俺の村を通り過
ぎて行き、何もかも奪い去ってしまった。我々の仲間の者はすべて家族を亡くした孤児だ。
首領を除いて……。首領は、孤児になった我々を一人ずつ拾い上げて、食わせ、鍛えて大
人にしてくれた。野垂れ死んでいたはずの我々を育ててくれはしたが、その代わりこころ
はすげ替えられてしまった。俺の仲間は首領の下にいる間に変わってしまった。眼つきも
声も変わってしまった。顔の作りまでもが変わってしまった。人の顔がそうまで変わるも
のかと思う。こころは顔を変えてしまうということが分かる。しかし、皆ここから逃げた
いと思っているはずだ。子供の頃から知っている仲間だから俺には分かる。だが、首領が
怖い。どこまでも追ってくるように思う。皆、そう思っているから逃げられない。そうし
ていつまでも他から奪い続けている。ソラ、首領はおまえを手下にするつもりだ。一年も
しないうちにおまえも村を襲い奪うようになるだろう。おまえの顔も変わってしまうだろ
う。おまえの声も変わってしまうだろう。……おまえは逃げるがよい。逃げたとて、生き
ていられるとは限らない。何処かで野垂れ死んでしまうかもしれない。我々の仲間になっ
たほうが生きながらえるかもしれない。しかし、ここから出てゆくのだ。首領たちはそろ
そろ帰ってくると思う。馬の上でおまえのことを考えている首領の姿が俺には見える。明
日か明後日には帰ってくる。いや、もっと早いかもしれない。今から逃げろ。暗闇の中に
おまえは逃げ、走ることの出来ない俺はおまえを追うことができない。矢を射る間もなく、
おまえは逃げたのだ。首領にはそう言う」
ゆっくりとトクは矢じりに塗る毒の小さな壷を持ってきた。
蓋を開け、唇を当てた。口に含んでしばらくするとトクは苦しみだした。体中から汗が
噴出す。声も絶え絶えに男はソラを見上げて言う。
「さあ、ソラ、逃げろ。おまえは俺に毒を食わせた。俺が苦しんでいる間におまえは逃げ
てしまったのだ。弓と矢を持って東に走れ。走り続ければ深い森に辿り着く。そこには人
は誰も来ない。さあ、早く……」
ソラは小屋を飛び出した。
言われた通りに東に向かう。右手に矢を、左手に弓を握っている。家族を殺した盗賊の
一味に言われた通り、東に向かう自分が不思議だった。なぜ、言われたことをそのまま信
じるのだ。
草薮の中をソラは走り続けた。
満月がずっと自分を追ってくる。
まるで盗賊の首領が自分を見つめているようで怖い。いや、違う。月は自分を見守って
くれているのだ。家族と一緒に見上げた懐かしい月は何も変わりなく夜空にある。そして
自分を追い続けていてくれるのだ。ソラはそう自分に言い聞かせながら走った。
ソラは走り続ける。
途中、休みたくなったが立ち止まらずに走り続けた。立ち止まれば盗賊たちが自分を捕
まえにくるような気がしたからだ。
村が盗賊に襲われる前に、時間は遡る。
ソラの父ソパは、仲間たちとロバを引いて村へ向かっていた。長い道を帰ってきたのだ。
男たちは一様に疲れきった表情を浮かべている。どの顔も暗く重い。
布だけを売りに行く旅ではなかった。他にやっていることがあった。それが旅の主な理
由だった。
男たちは行商の途中、子供をさらっては金に換えていた。
水汲みする子、畑仕事をする子、荷を背負う子、子守する子。親のいない間を狙って連
れ去ることもあれば、強奪することもあった。皆、貧しい親の大切な子だったに違いない。
さらわれて恐怖に怯える子供たちは一様に声も出せなかった。
ソパたちは連携して事を行った。そして仲買人の元へと連れ込んだ。子供は働き手とし
て価値があり、ソパたちに充分過ぎる報酬をもたらした。
むろん、最初から人さらいをしていたわけではない。地道に布を売り歩いていた期間の
ほうがずっと長い。ある時のある偶然が、その後の偶然を呼び込んでしまったとしか言い
ようもない。
最初の思わぬ報酬が男たちの心を歪めてしまった。それ以来、子と親を引き離す、業火
のような仕業が度々行われるようになった。
どの男にも家庭があり子がある。旅から帰るたびに迎えてくれる妻や子の顔を見ること
ができないこともある。それでも貧しい自分たちの生活を守るという意識の為に、後ろめ
たさを自らに隠し続けた。
ソパは歩きながら考え続ける。
自分はいったい何をしてきたのだろうか。
幼い頃、市場で親きょうだいとはぐれてしまった。六歳か七歳の頃ではなかったろうか。
二日かけて家族そろって市場まで歩いて来てすぐのことだった。
取り残された市場の雑踏の中で見上げた空は、突き抜けるように悲しく青かった。
泣いて座り込んでいる自分に誰かが声をかけてくれた。そのやさしいおじさんは冷たく
甘い飲み物を買い与えてくれた。そして名前と歳を訊ねてくれた。その後、自分の手を引
いて少し離れた場所に連れて行ってくれた。
他のおじさん達と何やら話し合っていた。そしておじさんは安心して待っている様にと
言い残して去っていった。
おじさんの後姿を心細く見送っていた自分の気持ちを覚えている。
翌日、別のおじさんが大きな家に連れて行ってくれた。長い距離を歩いた気がする。
その家には大勢の人が出入りし、働いていた。家の外には何頭もの馬が繋がれていた。
沢山の大きな袋や織物が運び込まれ、運び出されていった。
数人の同じような年頃の少年がいた。その日から彼らに混じってそこで働かされた。
幼いながら自分がさらわれ、売られた事が分かった。
いつ、親が自分を取り返しに来るのかといつも考えていた。そして、何度親元へ逃げよ
うと考えたことか。しかしどこに逃げてよいのか分からなかった。怖くて外に飛び出せな
かった。
朝早くから夜遅くまで立ち働いた。店の掃除、馬の世話、織物の運び入れと運び出し。
大人達に怒鳴られ、鞭で打たれながら他の少年たちと働いた。
夜、仲間らと寝床に入ると誰かが声を忍ばせて泣いた。すると他からも嗚咽する声が聞
こえてきた。皆、泣き声を聞かれまいとして泣いた。
店の周囲から外に出ることは決してなかった。それは大人たちから厳しく禁じられてい
た。多分、自分の親は捜し続けていてくれたに違いない。店に訪ね入ってくれたかも知れ
ない。失くしてしまった我が子を悲しみ続けてくれたに違いない。
ある夜、目を覚ますと窓から大きな明るい月が見えた。
その夜は満月だった。
窓辺に寄って月を見上げた。真っ黒な夜空に輝く月は自分に語りかけてきた。じっと月
の語りかけに心を澄ませた。
次の晩も夜半に目を覚ますと窓辺に寄ってしばらく月を見上げた。それ以来、不思議と
毎晩夜半に目が覚めた。呼び出されるように毎晩寝床を出た。月は毎晩、形を変えながら
自分の上に大きく現れた。
その家で数年間働いた。幼かった身体は敏捷な少年の身体に成長した。
いなくなった仲間がいる。
一人は死んだ。
仲間のうちでは最年長で、皆を励まし助ける少年だった。物陰で泣いている子供をそっ
と慰めるような優しさを持っていた。
熱を出して二日寝込んだ翌日の朝、寝床で息絶えていた。
死ぬ前の晩、その少年はうわ言でしきりと母親に呼びかけていた。何度も何度も母親を
呼んでいた。
夢の中に現れた母親は呼びかけに応えてくれたのだろうか。夢の中で少年を抱きしめて
くれたのだろうか。大人たちが少年の遺体をどこかに運び出していく様子を見ながらソパ
は思った。
店を逃げた者もいた。
一人は昼間の店先からふっといなくなった。
しばらくはいなくなった事に誰も気がつかなかった。その日の夕刻、その少年は連れ戻
された。
そして翌朝、どこかに連れて行かれたまま戻ってこなかった。
一人は寝静まった夜、家を抜け出した。
その少年が寝床を抜け出してゆくのを何人かは知っていたが息を殺して寝たふりをし
ていた。彼はそれっきり帰ってこなかった。
翌朝、残された者は大人たちに激しく叱責され鞭で打たれたが、なにをされても誰も知
らないと言った。彼は自分の家に帰りつくことができたのだろか。
ある年、この店は町に到着した隊商と大きな取引をした。隊商へ沢山の織物が渡された。
そしてソパ自身も一緒に渡された。何十頭もの馬の背に織物が括り付けられ、ソパもそ
の最後尾に付いて店を出て行った。
仲間の少年たちは、半ば気の毒そうに半ば羨ましそうにソパを見送った。
ずいぶん久しぶりに外の風景を見た。遠くの町へ、知らない国へ、自分は終わることな
く歩き続けるのだろうか。もう帰るところもなくなるのだろうか。淡々とそう考えながら
歩いた。もう何年も辛いと思う気持ちも起こらなかった。
しかし、ある村で自分は残された。隊商は村を去って行った。
村長の家で働くことになった。あれはまだ子供といえる年頃だった。
いつから自分は違う道を歩くようになったのか。
市場ではぐれたことか、この村に残されたことか、洪水か。この道は引き返せるのか、
このまま進むのか。
居場所さえあれば安心できると考えていた。そのために村長の家では懸命に働いた。
月が自分を見ていてくれた。月は懐かしい両親でありきょうだいだった。月の語りかけ
を聞けるようになってから悲しい気持ちを封じることが出来た。
月は、父親のように励ましてくれたし、母親のように慰めてくれた。兄のように話を聞
いてくれたし、妹のように傍にいてくれた。
何年間も懸命に働く自分を村長は認めてくれた。そして末娘を自分に添わせてくれた。
村長とその一家は月が与えてくれたのかもしれない。
村長の家を富ませ、添わせてくれた末娘に不自由させないことが村長への恩返しであり、
自分自身の価値だと考えた。やっと自分の安住の場所が見つかった、もう何処にも追いや
られなくともよいのだと思った。
しかし、大雨と洪水が全てを洗い流してしまった。
何の罰なのだろうと思った。知らぬ間に自分に罪が湧いていたのだろうかと思った。落
胆の後、村と我が家の復興のために働いた。
しかし何をやってもうまくはいかなかった。何も報われなかった。一切が無駄だった。
この村に来た頃に聞いた伝説をよく思い出した。
太古の昔、大きな二つの力の争いがあり、一方が破れ去り一方が残った。しかし残った
一方も力を失い世界は混沌とした状態にある。
大きな二つの力の争いは続いている。やがて知恵あるものが現れて、二つに分かれてい
たものを一つに戻しこの世界を救うという。人々に未来を見通せる力と過去を変えられる
力を与えてくれるという。
この力を得られれば、大雨と洪水が起こる前に戻って、村の被害を少なくすることもで
きるだろう。
そればかりか、幼い頃に親とはぐれた市場の朝にも戻れるだろう。人生をやり直せるこ
とができたなら、全ての人が幸福に暮らせるはずだ。そして未来を見通す力を得ることで
禍を避けることができる。
しかし、何も起こらない。何も変わらない。不幸は渦を巻いて大きく広がるばかりだ。
結局、自分の人生は報われない道を歩き続けることなのだと蔑んだ。
そんな中で、村の女たちが織った布の行商を仲間と始めた。
少しでも良い条件で売るために遠くの町にまで出かけて行った。村の生活が少しでも豊
かになるように仲間たちと何度も旅に出た。
旅の途中、遠くの国で戦争が始まったという話を聞いた。
遠くでは兵士たちによる略奪があるという。家と土地を捨て、戦から逃れる人も出てい
るという。
誰にも安住できる場所はないのだと思った。そして今のうちに少しでも行商しておこう
と仲間と語った。
ある旅の途中、自分の中に別の気持ちが突然入り込んできた。
そこには一人で水汲みをする男の子がいた。その時、自分が自分ではなくなった。まる
で本能のように子を引っさらった。従う仲間たちも同じ眼つきになっていた。その子を抱
え皆で走った。
怯えて震えている子を金に換えた後、気持ちが覚醒し後悔の念が生まれた。皆、後悔し
たはずだが誰も何も言わなかった。誰かが何か言えば、その子を取り戻しに行っただろう
し、二度と繰り返すことはなかっただろう。だが、皆、終わらせたくない気持ちがあった。
取り返しのつかない道を歩き続けていた。旅の疲れと後悔の気持ちが村へ帰り着く道を
遠くしていた。
「ソパ、村の様子がおかしい。何か起こっているぞ」
仲間に言われて我に返った。
「急ごう……」
男たちは駆けに駆け村に入った。
見れば、馬に乗った男たちを村人たちが遠巻きに囲んでいる。
そして、仲間と共に戦った。
その戦いは短いものだった。
仲間は、皆次々と倒された。最後まで自分は盗賊と向き合ったはずだ。後は何も覚えて
いない。
血の臭いの中でソパは気がついた。
自分は村の広場でうつ伏せになって倒れている。どのくらい気絶していたのだろうか。
首を動かして見てみれば全身が血だらけだ。
我に返る。
妻や子供たちは無事なのか、どこにいるのか。起き上がろうとしたが身体が動かない。
手と足が動かない。起き上がれない。
気が焦る。全身から冷たい汗が吹き出る。固まった血に汗がにじむ。
どうしても動けない。どうしてなんだ、どうしてこんなことになってしまったんだ。腹
ばいになったままソパは声をあげて泣いた。
ソラは走り続けていた。
だんだんと行く手の空が明るくなり始める。
白くなった月が見守り続けてくれている。両手にそれぞれ持った弓と矢が重たくなり始
めた。
そう思った途端、何かが覆いかぶさったように身体が重くなった。腿が上がらなくなっ
た。もう走れない。茂みで休むことにした。腰をおろした途端、力が抜けすぐに眠り込ん
でしまったらしい。
どのくらい経ったのだろう。微かな物音と話し声がする。気のせいだろうか。
ぼんやりと目覚める。何かが自分を取り囲んでいるようだ。薄く目を開ければ周りはす
でに明るくなっている。日は高く上がっているようだ。
上体を起こしたその時、正面から声がする。
「おい、おまえ、動くなよ、おとなしくしていろ。歯向かったら容赦しない」
男子の声変わりの途中のかすれた声が言う。
目を開けて見据えれば、汚れた身なりの少年がいる。袖も裾も短く、身体に合っていな
い。顔も手足も汚れている。そして手にこん棒を持っている。自分より年嵩である印象が
する。開けた口の前歯が上下とも無い。他にも同様に汚れた少年が数人いる。
「おまえはどこから来た。どこの者だ」
ソラは応えずに身を硬くしている。
「ふん、どうでもいいや。こいつを連れて帰ろうぜ、兵隊が増えれば伍長さんに褒美がも
らえる」
褒美と聞いて、他の少年たちが歓声を上げる。ソラは弓と矢を取り上げられ、少年達に
囲まれて歩き始めた。
その頃、朽ち果てた狩人の小屋に騎馬の盗賊たちが戻ってきた。
トクが小屋から迎えに出てこないことに皆は気づいた。トクなら遠く離れた蹄の音にも
気が付くはずだ。用心し、誰も下馬しない。
首領が目配せし、小屋を取り囲むようにして少しの間様子を窺う。
小屋の中では毒を飲んだトクが冷たい汗を全身にかき、荒い息をして横たわっていた。
首領の指示で先に小屋に入った盗賊たちが騒ぎ立てる。
「トク、どうしたんだ」
「首領、トクが倒れています」
「小僧がいない、小僧がいません」
「きっと小僧にやられたんだ」
「首領、来てください」
ゆっくりと首領が小屋に入り、トクの様子をじっと見つめる。トクは視界の端に首領を
置きながら荒い息で喘ぐ。
首領はトクをじっと見据える。
首領には見えていた。
連れてこられたあの少年と配下との今までのやり取りの情景が小屋の中に広がって見
えていた。
首領は小さく溜息をついた後、ゆっくりと口を開いた。
「トク、辛そうだな。しかし、おまえと小僧のやり取りは見えた。この俺に芝居は意味が
ない。おまえは自ら毒を食った。そしておまえは俺を裏切った。そしておまえは大切な小
僧を放してしまった。この俺を裏切った者はこの場にいる必要は無い。もう帰ってよい。
少し短かったようだが、帰ってよい」
首領の目配せでトクは盗賊たちに小屋の外に引きずり出された。そこが処刑の場になっ
た。誰かが即座にトクの顎下に刀の先を差し込んだ。殆ど即死のようだった。舌を長く垂
らしたその亡骸はすぐに穴を掘って埋められた。
首領は長いこと目を閉じて思いにふけった。
「仕方あるまい。これもあの小僧が選んだことなのだ。追っ手を差し向けても小僧は逃れ
て行くだろう。それでも探し出さねばなるまい。いずれ何処かで見つけることになるだろ
う。見つけ出した時、いずれかが命を落とすことになるだろう。そしていずれかの魂が永
遠に抜け出すことのできない暗い穴に落ちてゆくだろう。それが定められたことであるこ
とは分かっている。この世界が出来たときに定められたことだ。仕方あるまい。しかし、
お互いの使命を終える時まで会わずにはいられないものだろうか……」
少年たちは森を抜けソラを軍隊の野営に連れて行った。
なだらかな丘一面に小さく粗末なテントが百程も並んでいる。数十頭の馬が繋がれてい
る。ロバがいる。荷車がいくつも置かれている。
兵士たちは所々で車座になったり、格闘の稽古をしたり、剣を振り回していた。
少年たちは伍長を探し出しソラを連れて行った。
ひげ面の伍長は焚き火の前で一人、拳ほどの大きさの赤黒い肉の塊を食べていた。惜し
むように少しずつ千切っては口に入れ、いつまでも咀嚼している。
脂で汚れた伍長の口元と手の中の肉片を少年たちは食い入るように見つめる。
伍長は汚れた軍服の袖で口をぬぐい煩わしそうに言う。
「小僧、何の用だ」
前歯の無い少年が誇らしそうに答える。
「伍長殿、兵隊を一人、捕まえてきました。兵隊が一人増えます」
「ああ、わかった。わかったからさっさとあっちに行け」
顔色をなくした少年がしどろもどろになって言う。他の少年達の表情も変わっている。
「でっ、でも約束の褒美をもらわなくては。兵隊を増やしたら山羊の肉をくれるって言っ
たじゃないか、約束したじゃないか」
「うるさい、褒美はまとめて次に遣る。戦いでおまえたちが敵の一人でも殺したらな」
「そんなの無理だ、話が違うじゃないか。だって俺たちは兵隊じゃない。こん棒しか持っ
てない。兵隊みたいに槍や剣がなければ無理だ。それよりも俺たちは子供なんだ」
肉の塊を拳の中に隠して伍長が言う。
「俺の言うことを聞かないのならここから追い出すぞ。ここから出ればおまえ達はすぐに
野垂れ死ぬ。ここにいるからおまえたちは食い物にありつけるのだ。有難く考えろ。それ
とも俺を怒らせて首を圧し折られたいのか」
顔を真っ赤にした伍長が素早く剣に手をかけたので少年たちは逃げ出した。ソラもつら
れるように後を追う。野営の端まで皆で走った。息を切らして皆でしゃがみ込む。
前歯の無い少年が言う。
「まったく汚い奴だ。あれだけ約束したのに。あんな奴ばかりだから国軍は負け続けなん
だ。敵と戦ってもすぐに逃げて、勝ったためしなんか無いじゃないか。自分の国の村を襲
って物を奪うばかりじゃないか」
他の少年が言う。
「その通りだよな。国軍が俺たちの村を襲ってロバや山羊を奪っていった。そのせいで家
族はみんな散り散りになったんだ。誰も好き好んで此処にいるんじゃない。此処にしか居
られないんだ。伍長は此処から出れば俺たち皆死んでしまうと言ったが、国軍が俺たちの
村に来なければこんなことにはならなかったんだ」
別の少年たちも口々に言う。
「領主様がいけないんだ。隣の国と戦争するのに国軍に食べ物も武器も寄越さない。だか
ら国軍は村から奪うようになったんだ」
「戦争は始まったばかりなのにこんなことじゃ戦えるはずもないよな」
「国軍なのに、軍人のくせに武器も満足に持ってないものな」
「剣の使い方だっておかしいぞ。知らないみたいだ」
「だってみんな、元々は俺たちと同じ農民だ。耕す土地がないから軍人になったらしい」
「誰から聞いたんだ」
「伍長さんたちが話しをしているのをこっそり聞いたんだ」
「みんなニセモノなんだな」
「みんなニセモノだ」
「結局、隣の国が一番悪いんだ。この国に攻めて来たからこんなことになったんだ。一番
強い者が人の物を盗ろうとするから、一番弱い者が辛い思いをするんだ」
ソラは、少年たちの話を聞きながら、彼らの素性や隣国との戦争をうっすらと理解した。
戦争が始まったことなどソラは知らなかった。ソラの村の人々も知らなかっただろう。自
分の村とそれほど離れていない土地で、隣国との戦争が起こっているらしい。
少年たちに連れてこられてから数時間も経っていない。
不安な気持ちは強い。しかし、何者かに村を襲われたという境遇が似ている。自分と同
じ村から出てここで会ったような気さえする。
少年たちは、ソラの身の上も聞き出そうとしない。名前さえ聞かれない。彼等がなぜ、
それを聞こうとしないのかは分からない。
少年たちは互いに名前を呼び合ってもいない。互いの名前をしらないのか。ただ無関心
であるのかも知れない。
しかし、今のソラにとって思い出したくもないことを口にしないでも済むことは有難か
った。ただ、母や弟妹が受けた辛い出来事を思い出したくもないと考えた自分を恥じた。
日が暮れかかった頃、少年の一人が人数分のパンを持ってきた。野営の中で少年たちに
も配給されるらしい。前歯の無い少年がソラにパンを放る。
「おまえの分だ。もう仲間だから、おまえの分もある」
カチカチに硬く黒いパンをソラは受け取る。車座になって皆でパンをかじった。
前歯のない少年がソラに聞く。
「おまえ、肉を食ったことはあるのか」
貧しい暮らしを過ごしてきたが、それでもずっと幼い頃、祭りの日に山羊の肉を食べた
記憶がある。しかし、とっさに「ない」と答えた。
途端に、皆の表情が嬉しそうになる。
「そうだよな、肉なんか食ったことないよな」
「俺たちも食ったことないんだ」
「そりゃそうだよ。当たり前だよ」
「領主様や坊様や偉い軍人しか肉は食えないんだ」
「伍長さんも食ってたな。偉いんだな」
「あれは本物の肉かな。黒い肉なんてあるものか」
「でも一度でいいから喰いたいな。どんな味がするんだろ」
「大人になったら食えるよ。いつか、戦争がなくなって平和になるんだ。みんなが金持ち
になって欲しい物が何でも手に入るようになるんだ」
「何でも食えるようになるんだな」
「みんなが領主様くらい、金持ちになるのか」
「いつになったらそんな風になるんだろ」
「ずっと先の話だ」
「俺たちが生きてるうちかな」
「生きてるうちは無理かな」
「いつまでも待つんだ。きっとそうなるからさ」
「何度でも生まれ変わって戦争がない時代に生まれ変わってくるよ」
「生まれ変われるの」
「生まれ変われるよ」
「そしたらみんな、また会えるかな」
「会えたらいいな」
一週間が過ぎた。
毎日、少年達と水汲みや軍馬の世話に明け暮れた。
ソラは、両親や弟妹のことを考え続けた。
妹の亡骸はあれからどうなったのだろう。誰かが埋葬してくれただろうか。それとも野
犬か鳥に食い散らされてしまったのだろうか。可愛かったピナの笑顔が浮かび胸が痛む。
母さんとピス、ピノはどうしてしまったのだろう。父さんはまだ旅の途中なのだろうか。
村に帰ってあの惨状を目の当たりにして驚き、家族を探しているのではないだろうか。
寂しくて、家族がどこかで楽しげに暮らしていて、一人になった自分の帰りを待ってく
れているような空想をして心を慰めた。
盗賊の隠れ家でしばらく一緒に過ごした若い盗賊はどうしているだろう。
自分を逃がしてくれた不思議な人だった。自分の身寄りのような気さえした。それより
もずっと以前から見知っているような気さえした。
あの人がいなくても村は盗賊に襲われただろうし、あの人がいなくては逃れてくること
はできなかっただろう。そう考えると恩人にも思えた。しかしすぐにその思いを打ち消し
て自分を戒めた。
野営地の暮らしにソラは順応していった。
今は食料に余裕があるのか、少年たちから聞いたように近隣の村を襲うことはなかった。
ソラは、少しずつ野営地の様子を知っていった。
全体では三百人を超える陣容で、軍服をきた軍人は百人もおらず、司令官と二人の副官
がいた。
この三人は軍人たちに毎日の訓練を課し、軍律を犯すものには厳しい処罰を与えていた。
しかし、軍人たちは目の届かないところでいくらでも勝手に行動できた。
軍人たちが村々を襲っては略奪行為をしていることについて司令官達は黙認していた。
略奪してきた食料や酒は司令官たちに上納された。司令官たちは満足してこれを受けた。
酒がなくなり掛けると暗に催促した。部下の軍人たちは、隠し持っていた酒を更に上納
して司令官たちの歓心を得た。
残る二百人超は村々から召集された農民兵たちだった。軍隊が進軍の途中で召集してき
た。軍隊が通り過ぎた村々は、働き手である男たちと僅かに蓄えられた食糧を奪われた。
拒否する場合、力ずくで略奪された。命を奪われる場合もあった。
農民兵には、その多くに妻があり子供があった。働き手を失った家族は、畑仕事や家畜
を世話する仕事に手が回らなくなり収穫は激減した。何よりも大黒柱を失った家族の悲し
みと不安は大きかった。
軍隊での彼等の仕事は、軍馬の世話であり、食料の調達であり、軍務の雑用であり、戦
闘の際の先兵だった。
小競り合いの際、農民兵は戦闘態勢の内側にいる軍人たちの矢面となって戦わされた。
陣容の先頭に立たされた農民兵は、武器の使い方も知らずあっけなく命を落とすことも多
かった。軍人たちは剣を以って彼らの背後から前に進むことを強要し、戦闘が劣勢になる
と真っ先に退却した。
農民兵が軍隊から脱走した場合、軍人たちに馬で追われ、結局は連れ戻された。軍人た
ちは狩りを楽しむように脱走者をいたぶりながら追いかけ、へとへとに疲れさせてから召
捕った。
首に縄をかけられ、殴られ蹴られながら連れ戻された脱走者の処遇は厳しいものだった。
司令官と副官たちによる形ばかりの軍事裁判にかけられ、すぐに公開処刑された。
脱走が割に合わない賭けであることを見せしめるものであったが、脱走者がなくなるこ
とはなかった。
野営地での喧嘩は頻繁にあった。
誰もが殺伐としていきり立っていた。軍人同士の殴り合いがあったし、農民兵同士のつ
かみあいもあった。鬱憤が溜まった軍人が理由も無く農民兵を殴りつけることもあった。
農民兵も黙って殴られるだけではなかった。殴り合いは、娯楽であったし、充満した悪
気の排気口として機能することを副官たちは知っていた。
相手を間違えて殴りつけた軍人が、農民兵に反撃され殴り倒されることもあった。しか
し、勝ち残った農民兵はその後軍人たちに取り囲まれ足腰が立たないまで痛めつけられる
ことになる。
殴り合いが始まると、当事者の二人を野次馬が取り囲んで声援を送って煽り立てた。副
官たちが見物していることもあった。
皆興奮していた。歯を折られ血だらけになった戦闘者は周囲に抱きかかえられ、奮闘を
賞賛された。そして背中を押され、拳を握り締めた相手の前に送り出された。そして、再
び殴り倒された。
ソラがこの野営地にやって来て三週間が過ぎた。ソラもまたここを逃げ出さなかった。
脱走兵も出なかった。戦が無い以上、ここは安全だった。
ソラは注意深く、野営地の様子を観察していた。
軍人たちは、普段は粗い目で織った薄い緑色の軍服を着ていた。戦闘時には、軍服の上
から手札状の厚い革を革紐で繋げた鎧兜を着けるようだった。鎧兜は二十人程いる伍長が
それぞれ管理していた。これは伍長に与えられた重要な権限であり特権だった。防具は命
を守るものであったからだ。受け取れなければ、一本の矢で命を落とす。
二百人を超える農民兵は軍人よりも数で勝っていたが、武器の扱いを知る軍人の戦闘力
は農民兵を圧倒していたので逆らえなかった。剣の握り方、振り下ろし方を正しく知るだ
けで戦闘力は格段に向上するものだったからだ。
少年たちの群れは三十人程いた。皆、国軍に略奪された村々から身の置き場所を求めて
集まっていた。農民兵の子もいた。出身の村ごとにグループが出来ており、お互いに交わ
ることはなかったが反目することもなかった。同じ境遇の者同士は、子供であっても尊重
し合った。
ある日、司令官が方々に放った諜報者の一人が戻ってきたらしかった。
旅の行商人の姿をした諜報者が入れられた司令官のテントの周りを軍人達が取り巻い
た。
テント内の話し声は外に筒抜けた。北から隣国軍が我が軍の方向に向かって進軍してい
るとの凶報だった。半日でこの野営地に到達する速度で進んでいるらしい。
その軍勢は、国軍の倍以上はあり、皆、鎧兜に身を包んだ純粋な軍隊とのことだった。
国軍のように農民兵は含まれていない。その戦闘力は国軍を凌駕すると考えられた。
こわばった表情で情報を受けた司令官は直ちに野営地の撤収準備の命令を下した。
敵軍が至近に迫っていることはすでに知れ渡っているので、農民兵の誰しもが必死にな
ってテントをたたみ、荷を造り、馬やロバの背に結んだ。積み残した軍備はそのまま捨て
置かれた。
軍人は伍長の管理する鎧兜を受け取りに走り、受けるやいなや身に着けた。そして剣を
腰に下げ、槍をつかんだ。
馬に乗った司令官と副官の前に、各隊は伍長を先頭に隊列を作って集合した。手短に司
令官から言葉が発せられたが、最後尾にいるソラ達には何も聞こえなかった。
国軍は南に向かって進軍を開始した。隣国軍が来る北の方向に進軍するのではない。
逃げるのだ。攻めてくる敵から逃げるのだ。
隊列の後尾を進む農民兵たちが活気付いた。剣の使い方も知らないまま、敵に向かって
進軍するとばかり思っていた彼等は恐怖に包まれていた。しかし、死への恐怖は一瞬で生
への期待に変わった。
軍人たちも表情を変えることなく胸を撫で下ろすような気持ちだった。農民兵と一緒に
なって歓声を上げたい気持ちだった。戦いは誰しもが怖かった。自分の命を懸けて国王に
殉じる気持ちなどは軍人といえども持ち合わせていなかった。あくまでも報酬が目当てで
あったし、退役してからの暮らしが何よりも大切だった。
このまま隣国軍の進路から逃れて進み続ければ敵も追い続けてくることもないだろう。
誰しもがそう期待していた。急ぎ足で進軍することに皆が安心しだして来ていた。冗談を
言い、仲間を笑わせる農民もいた。傍にいる軍人もそれを咎めることなく一緒に笑ってい
た。
両軍の距離はどんどん離れているはずだった。しかし、敵の進軍速度は予想をはるかに
上回っていたらしい。
行軍の最後尾を守る軍人が後ろを振り返った時、敵の先頭集団の旗が遠くに見えた。男
は慌てて先を行く司令官に向かって走った。他の者も振り返って事態の急変に気付いた。
遠くに土煙が上がっている。敵の進軍の激しさが見て取れる。敵の吹き鳴らす太鼓やラ
ッパの音が微かに聞こえ始めた途端、それはすぐに大きく鳴り響きだした。
国軍の誰しもが怖気づいた。情報は遅すぎたのだ。そして敵の進軍速度を見誤った。
突然、側面の木立の中から敵軍が現れた。待ち伏せしていたのだ。敵は少数だったが雄
叫びを上げながら勇猛に攻め込んできた。
その怒声に動揺した国軍は怖気づき、防戦一方となる。斬り合いになったが、攻める者
と逃げようとする者では勢いに大きな差があった。軍列はあっという間に乱れ、敵に背を
向けた途端に切られ刺された。
側面の敵に右往左往して逃げ回っている間に、土煙とともに背後から敵の主力が追いつ
いた。さらに攻め込まれ、なで斬りにされた。
最後尾にいたソラたちにも敵軍は襲い掛かってきた。敵の誰もが雄叫びを上げている。
響き渡るその声は一瞬にして国軍を怖気させる。
軍人たちは敵の剣を掻い潜って逃げ出した。恐怖に怯え、剣を構える間もない農民兵の
胴に敵の槍が差し込まれた。何も防具らしいものは着けていない為、槍は深々と生身の胴
に差し込まれ、抜かれると同時に男たちは倒れた。
皆、他を押しのけて必死の形相で敗走する。走りやすいように剣や槍を投げ捨てる者も
いる。隣国軍の兵士にとって切りつける相手の目印は明確だった。逃げようとする者全て
に襲い掛かればよかった。
騎乗の国軍の司令官が敵軍兵士に囲まれている。
恐怖の形相をしたこの中年の男は、言葉に成らない怒号を何度も発していた。手綱を右
に左に引き、馬の腹を蹴りつけるが怯える馬は言うことを聞かない。いたぶるように敵の
兵士は槍を繰り出した。司令官は胴回りにいくつも槍を差込まれ、落馬して息絶えた。
国軍の副官たちは馬を下りて軍勢の中に紛れ込んで逃げようとした。しかし、その立派
な装束が目印となって敵に囲まれ、無数の槍を刺し込まれて倒された。
凄まじい怒号と土煙の中、ソラは目をひん剥いて声もでなかった。
他の少年の姿が消えていく。逃げて行ったのか、切られて倒れたのか。突然、頭に衝撃
を感じ目の前が真っ白になった。
うっすらと意識が戻った。長い時間が経ったようだ。
倒れているようだが目を開けることができない。頭が割れるように痛む。身体に力が全
く入らない。混濁した意識だけがここにある。
声が聞こえる。
懐かしい少年兵たちの声だと知る。少しずつ近づいてくるようだ。また、意識が閉じよ
うとした時、声がすぐそばに来た。
「おい、こいつ、こんな処に倒れていたんだ」
「死んでるのか」
「揺すってみろよ」
「死んでるよ、息してない」
「死んじゃったのか」
「せっかく仲間になれたのにな」
「こいつ、肉も食べないままで死んじゃったんだ」
「大人になる前に死んじゃった」
「可哀相にな」
「でも、今死んだほうが幸せだよ」
「そうかもしれない」
「俺たち、行くところもないしな」
「食べるものもないよ」
「じゃあ、やっぱりこいつは幸せなんだ」
「よかったな、死んでしまって」
「羨ましいな、楽になれて」
「これからどうすればいいんだろう」
「誰かわかるか」
「……」
「……」
「……」
少年たちの声が遠ざかって行く。意識が途切れた。
辺りに物音が全くしない。再び意識が戻ったようだ。
静寂の中、ゆっくりと目を開くと満天の星空がソラの視界に広がった。漆黒の半円球を
埋め尽くす冷たく鋭い星の輝きが目に痛い。
しばらく星の輝きに見入った。星達が人の耳には聞こえない音曲を奏でているような気
がする。
頭の痛みが消えている。
軽く手で頭をぐるりと撫で回してみる。大きなこぶがあったが傷はないようだ。手も足
も動く。
ゆっくりと時間をかけて立ち上がってみる。
周囲を見渡せば、星明りの下で沢山の死体が横たわっている。死んだ者たちの中で自分
だけが生きてぽつんと立っている。
風がそよぐ。
もし、あの戦いの渦中で気を失わずにいたら、自分は敵に狙われて死んでいたかもしれ
ないと思った。気絶して倒れたから、今ここに目覚められたのかもしれない。
ソラはここから立ち去ることした。此処に長く居てはいけないと考えた。
朽ち果てた狩人の小屋で若い盗賊トクに言われたように、ずっと東にある深い森に行こ
う。そこには誰も来ないという。
歩き始める。
足元に皮袋が二つ落ちている。二つとも拾うと手にずしりと重い。一つの栓を抜いて口
に含めば冷たい水が喉を潤した。一気に全部飲み干した。
空になった皮袋はそのまま腰に下げる。残る一つも自分のものとした。落ちている剣を
腰に下げる。弓と十本程の矢も拾う。ソラは森に向かって歩き出した。
やがて夜が明けてきた。
うっすらと白くなりかけた目の前の東の空は見る見るうちに明るさを増してゆく。
草や木々から立ち上った水分と冷気が混ざり合って朝靄となる。
朝靄は広大な大地を覆いつくして日の光を受けている。
ソラは走り出した。
隣国軍と出会うのではないか、敗残兵とかち合うのではないかと怯えた。だから、日が
高くなると草陰に潜んで仮眠した。日が暮れ始めてから用心深く東に向かった。夜通し走
り翌朝、森の入り口に辿り着いた。
森の中へと入って行く。
高い木々の上から薄っすらと日が差すが、森は深く暗い。朝露に濡れた藪がソラの腿や
すねを傷つける。
立ち止まることはしなかった。立ち止まることで何かに追いつかれてしまうと思った。
何時間走ったのだろうか。
森は静寂の中、どこまでも深くうっそうと生い茂っている。
どこまで進めばよいのだろう。あてもない。それでも前に進む。途中、草の葉に溜まる
朝露を集めて飲んだ。冷たい水はソラを歓喜させ生き返らせた。そしてさらにソラは森の
中を進んだ。
やがて日が傾いた。あたりは驚くほど早く暗くなってゆく。座り込み、草の葉を噛んで
空腹を紛らせているとそのまま眠ってしまった。
翌朝、目が覚めるとソラはまた走り出した。一日中、走り続け、疲れると歩いた。歩き
ながら木の実を摘んで食べ空腹を癒した。こうして三日間、森の奥へ進んでいった。
四日目、歩き続けている自分から疲れが抜けていることに気がつく。
張り詰めていた腿や脛の筋肉の張りが抜けている。重かった身体が軽くなっている。ど
こまでも歩いて行けるような気がする。何かに追われているという恐怖心もなくなってい
る。
安らいだ気持ちで笑顔になった。とても久しぶりに笑顔になったことに気がつく。
すると岩場の裂け目が洞穴となっているのを見つけた。すぐ傍には小さな泉が澄んだ水
を湛えている。
用心深く、洞穴に入ってみる。
洞窟は、寝床三つ分ほどの広さとソラの背丈ほどの高さがある。ここは動物の住処とな
っているのかもしれない。いつ、洞穴の持ち主が帰ってくるかもしれないがソラはここに
いようと決めた。そして座った。
まだまだ森は深いのだろう。しかし、もう充分に安全なところまで来ることができたは
ずだ。これで逃げおおせた。そう思い込み、これで森を進む旅が終わったと思うと嬉しか
った。
ほっとすると今までの出来事が次々と脳裏に湧き上がってきた。
隣国軍に攻め込まれた国軍はどうなってしまったのだろう。逃げた者もいただろうが大
多数は殺された。
あの少年たちはどうしているのだろう。
意識の薄れた自分の周りで哀れんでいてくれた。仲間だといって親切にしてくれた。過
ごした時間は短かったがとても懐かしい。彼らの生きる拠りどころである国軍がなくなり
行く場所もなくなってしまっただろう。どうやって生きて行くのだろう。
そして他の国に攻め込まれる祖国はどうなってしまうのだろう。村はどうなってしまう
のだろう。
隣国はなぜ他から奪おうとするのだろう。誰しもが大事にしている暮らしをなぜ奪おう
とするのだろう。
他から奪った大事なものは、自分のものとした時には別のものになっているのに。奪わ
れた者には何も残らない。しかし奪った者も何も手にできない。人はどうして意味の無い
奪い合いをするのだろう。なぜ、自分や自分の家族が奪われる側にいなければいけないの
か。奪われて泣かなければいけないのか。
ソラはじっと考え続けた。
森の住人となったソラの生活が始まった。
洞穴のすぐ傍の小さな泉からは、冷たく澄んだ水がこんこんと湧き出ており、小さな流
れは森の中へと続いているようだった。
泉にたっぷりと身を沈め、上を見上げれば高い木々のこずえの隅間から青い空が見えた。
冷たい水はソラの体中の筋肉と神経を安らげ、夢見心地にさせた。
ふと、優しかった母の顔と声が脳裏に浮かぶ。
ソラの名を呼んでいる。続いて父や弟、妹の姿が現れる。皆、楽しげに自分を呼び続け
ている。
ソラはしばらくの間、楽しかった家族との空想の時間を愉しんだ。うっとりと目を閉じ
て愉しんだ後、とても悲しくなって涙を流した。
食べ物の確保は最も重要な仕事だった。
幸い、季節は秋に向かっていた。森は豊かな実りをソラに与えた。山葡萄はいくら摘ん
でも食べきれることはできず口の周りを赤く染めたソラを喜ばせた。そして冬のためにそ
れを干して溜め込んだ。
野ねずみは巣穴を探って捕まえることができた。内臓を抜いて干し肉にした。
木の枝に刺したばかりの野ねずみの肉が、夜間何者かにかすめ取られたので、その後は
用心して住処に仕舞い込んだ。ずっと後になってそれはイタチの仕業だとわかった。
日中、ソラは戦場から拾ってきた弓矢の稽古をする。定めた木の幹に向かって矢を放つ。
初めの頃は殆どの矢は的を外れた。
毎日、長い時間繰り返した。
少しずつ上達して矢は木の幹に当たりだした。だんだんと的との距離を離していく。厭
きもせず毎日熱心に稽古を続けた。木の幹に当たった矢じりの刃が少し甘くなると石で研
いで鋭さを甦らせた。
弓の稽古の合間に住みかとなった洞穴の周囲を探索した。
あまりにも深い森には誰も来るはずが無いと知ってソラを安心させた。
遠くの木立の影に鹿を見かけることもあった。鹿はソラを黒い瞳でじっと見据えると白
い尻の毛を見せて走り去っていった。
鹿は思いをもって自分を見つめていたような気がした。いつか鹿が寂しい自分に語りか
けてくれればいいのにと思った。
弓矢の腕前が上達したソラは野鳩を狙った。
小さな動く的はソラを苛立たせる。しかし度重なる失敗の末に偶然射ることができた一
羽の野鳩は大変なご馳走となった。苦労して火を起こして炙ってむしり食べた。野鳩を食
べたいがためにソラは熱心に弓矢の稽古を続けた。
森の中を駆け回って狩をするうちに、ソラの身体は敏捷になり剛健になってゆく。微か
な物音もソラの耳は捕らえることができるようになった。
遠くの草薮に潜む野兎の息づかいが聞こえるようになる。一度走り出すと長い後ろ足で
駆け抜ける野兎は矢で追うことはできない。じっと潜んでいる野兎は藪を通して射るよう
にした。しかし、野兎が獲物となるのはまだまだ先のことだった。
ある日、泉からの流れを追ってみようと考えた。干した山葡萄を持って出かけた。
流れは茂みに覆われて見えなくなるときもあったが、少しずつ幅と深みを増して続いて
いく。日の当たる部分ではキラキラと輝き、日陰では輝きを消して陰鬱に流れていく。
流れの端には、白く可憐な花や黄色く小さな花がとても綺麗に咲き誇っていた。
ソラは流れの端に咲き続ける花々を見ながら歩く。誰がこの花を見てきたのだろう。深
い森の中でこの花々を見る人間は自分が初めてなのかもしれない。あるいは最後に人の目
に触れたのはずっと昔のことなのかもしれない。
誰のために花は咲き続けてきたのだろう。
誰も見ることがなかったはずなのにどうしてこの花は嬉しげに楽しげに咲いているの
だろうと思った。咲くだけで花は嬉しいのだろうか。
それしか考えられない。
花は咲くだけで嬉しく、嬉しいから綺麗に咲くのだと思う。たった一人で隠れ住んでい
る自分の心に喜びを分けてくれた。ありがたく思った。嬉しい気持ちでソラは歩く。
ずっと歩くと流れは少し大きな池になっていた。
池には溢れるほどの魚の群れが泳いでいるのが見えた。そっと水に足を入れてみる。魚
達は驚き、さっと散ってしまった。
群れて泳ぐ魚達を羨ましいと思った。魚達に言葉はなくともきっと思いが通じ合ってい
るのだろう。互いに仲間同士であることを知っているのだろう。だから群れて泳いでいる
のだろうし、自分が足を入れた時は外からの敵だと知って群れを散らせたのだろう。魚達
にとって自分は敵でしかない。
かつてソラにも仲間はいた。それは家族であったし、村の友達や大人たちであったし、
国軍の野営地に連れて行った少年たちも仲間と言えたのだろう。
しかし、この森の中にいるソラに仲間はいない。鳥は仲間同士でさえずる。野ねずみは
仲間同士で敵から身を守る。花は仲間同士で咲き誇る。木々は仲間同士でうっそうと茂る。
どの仲間にも属していないのは自分だけだった。
鳥になってしまえればいいのに。
木々になってしまえればいいのに。
そうすれば怯え、隠れて一人で住む必要もない。
いつか自分の敵が自分を探し出しに森に入ってくるかもしれない。
人である自分の敵は同じ人であるのだと思うとやりきれない寂しさが包み込む。
ソラは来た道を戻って行った。帰り道の風景は色あせていた。早く住みかである洞窟に
帰って身体と気持ちを休めたいと思った。
秋が終わりかけ、冬が迫っていた。
森の木々のずっと上に見える空は青さを増しているように感じられた。白い雲がぐんぐ
んと流れていた。あの雲が流れ去った後には冬の雲が青い空を覆ってしまうのだ。
ソラは一人きりで迎えようとする初めての冬が不安だった。誰か一緒にいてくれればい
いのにと何度も思った。
ソラは貯めておいた枯葉、野兎の毛皮、野鳩の羽を使って防寒の準備をする。
矢じりで野兎の毛皮の端に穴を開け、蔓で繋ぎ合わせて何日もかかって上着を作った。
背中と胸腹を覆う程度のものだったがそれでもソラを満足させた。
以前、戦場から持ってきた二つの皮袋はそのまま履物にした。野鳩の羽毛は枯葉ととも
に洞窟の寝床に敷き詰めた。
やがて初雪が降り、洞窟の外一面が白く覆われた。
ソラは白い森の中を歩く。
何もかもが白い景色のなかで、木々の黒い幹だけが真っ直ぐに立ち並んでいた。動物達
はどこに身を潜めているのだろう。一向に気配がない。鳥のさえずりだけがどこからか聞
こえてくる。
去年までは雪が降れば村の子供たちと雪のつぶてを投げ合って遊んだものだった。妹を
背負い、弟達を連れて凍った川を見に行ったものだった。夜には子供たちだけで家の外に
出て、撒き散らされたような星を見上げて驚きの声をあげたものだった。
雪の中を歩きながら楽しい思い出が溢れてくる。
以前はみんなと一緒だった。初めから一人じゃないと思うと少しだけ心が和んだ。
寂しい気持ちは、楽しい思い出が癒してくれることをソラは知った。これからは寂しく
なった時や悲しい時には楽しかった時のことを思い出せばいいのだと思った。
寒さは日に日に増していく。
秋のうちに集めて干しておいた枯れ枝を薪として使った。しかし枯れ枝の消費は長い冬
を持ち堪えてはくれそうもないことにソラは気がついた。
必要な薪の量の目星が立っていなかったのだ。一日に使う量を決め朝と晩だけ用心しな
がら火に枝をくべることにした。
そして洞窟の入り口を雪の壁で大方塞いだ。これで冷たい風の吹き込みを大分防ぐこと
ができた。洞窟の中は殆ど暗くなったがソラは何とか寒さに耐えられた。
日が差すことも殆どないない毎日が続く。今日も暗い。毎朝、ソラは目覚めると外を見
てそう思った。
語る相手もおらず、薄暗い毎日に気持ちは少しずつ沈んでいく。食欲もなくなり泉の水
を少し飲んでは洞窟で横になって一日を過ごすことも多くなった。みるみると腹がへこみ
身体が細くなってきているのが分かる。
ソラは洞窟の中でじっとしている。このまま冬を越せるのだろうか。春が来る前に自分
は死んでしまっているのではないだろうか。
楽しかった頃の出来事を思い出そうと努めた。楽しい思い出が今の自分を救ってくれる
だろうと思ったがそれは湧いて来なかった。
辛く悲しい思い出だけが湧き出てくる。
逃げ惑っている自分、母親の手から引き離される自分、妹を見殺しにする自分、小突き
回されている自分、殴られている自分、裏切り者と罵られている自分。その情景が頭の中
をぐるぐる回る。
父さん、母さん、助けて。
洞窟の中で声を殺して泣いた。大声を出しても誰も聞く者はいないはずなのにソラは声
を殺して泣いた。火を起こすこともなく冷たい洞窟の中で震えながら毎日を過ごした。
その日は、朝起きた時からとても身体がだるかった。そしていつにも増してとても寒く
感じる日だった。
膝を抱えて寒さに耐えているとやけに喉の渇きを覚える。
洞窟の入り口で雪を口に含んで舌の上で熔かす。雪は冷たい水になりひりひりと喉の粘
膜にしみわたっていく。さらに雪を頬張り口の中で溶かして飲み込んでいく。やけに喉が
痛む。
ふと、腕に手を当てると皮膚が熱い。
慌てて手を他の箇所にも当ててみる。胸も腹も首もうなじも熱い。身体中が熱い。最後
にソラは額に手を当てた。火のように熱い。身体中がこんなにも熱いのに凍えるような寒
さは何だろう。
しまった……風邪を引いている。それもきっと重い風邪だ。
この先、熱は更に上がって起き上がることもできなくなるだろう。今までに経験してい
るので自分の身体がどうなっていくのかは想像できる。しかし、今の天候とこの状態で発
熱して伏せることはとても危険だと思った。
燃料となる薪も食料となる干した野葡萄や野ねずみの肉の蓄えもこころもとない。まし
て看病してくれる人などいるはずもない。
さらに風邪は人を簡単に死に至らせる病であることも知っている。
自分の村でも毎年、数人の老人と子供が風邪のために命を失っていた。働き盛りの一家
の主でさえ風邪のために命を落とすことは珍しい話ではなかった。亡骸を送り出す家を何
度も見てきている。残されて泣き叫んでいる家族を見るのは切ないことだった。
自分は今、その状態におかれている様だ。
しかし自分には誰も看病してくれない。このまま死に、やがて干からびてしまうかもし
れない。
動揺して心臓の鼓動が高鳴ってくる。
洞窟の奥に丸くなって横になった。
風邪を自覚した途端に身体はさらに寒くなり熱くなってきている。本当はもっと前から
症状は現れていたのかもしれない。
どうしよう、どうしよう。助けて、母さん。ソラは何度も思った。
身体中が燃えるようだ。熱い。この身体の中にはいられない。意識が遠のいていく。
深く暗い底に静かにゆっくりと落ちていく。まわりは何も見えない。底はどこまでも続
き、どこまでも漂うように落ちていく。
どこまで落ちていくのだろう。身体のまわりをねっとりとした気味悪いものが絡み付い
ていく。そしてゆっくりと底に着き、ゆっくりと横になる。細かな粉のようなものが舞い
上がる。
ソラは見た。
誰もいなくなった村の道端に置き去りにした妹ピナが笑顔で駆け寄ってくる。
嬉しくなって駆け寄る妹を抱き上げようと両腕を広げると、妹は急に立ち止まる。
妹の顔は真っ白に変わっている。唇も肌も髪の毛もみな真っ白になっている。妹のその
唇が開く。口の中だけが真っ赤に染まっている。
兄ちゃん、なぜ私をひとりにして置いていってしまったの。
あれから私はとても寂しくてひとりでずっと泣いていたよ。
でも死んでしまっていて身体を動かせないから、涙を拭くこともできなかったよ。
たくさんの烏が私のまわりで啼いていたよ。
とってもうるさかった。とっても怖かった。
追い払いたかったけど、身体が動かないからどうしようもなかったよ。
兄ちゃんがいてくれたら烏なんか追い払ってくれたのに。
知らない人とどこかに行ってしまったから。悲しかったよ。
私の身体はもうないの。
烏に喰われてしまったから。
くちばしで突かれてとっても痛かったよ。残った骨は方々に散らかってしまったよ。
私の身体はもうないの。だから兄ちゃんにそれを伝えに来たの。
妹は寂しげに笑うと消えてしまった。
その次に母と二人の弟が現れた。
母が言う。
ソラ、どこに行ってしまっていたの。
ずいぶん探していたんだよ。
母さんは、ピスとピノとよその国に住んでいるんだよ。
人と争うことも、人を疑うことない国だよ。
すぐ近くの国なのに、こんなにも違うからみんなで驚いているんだよ。
とても大きな立派な家に住まわせてもらってるんだよ。家主はとってよい人なの。
食べ物も沢山あって何にも不自由しないんだよ。
早くこっちにおいで。ソラとピナを待っているんだから。
ピナはどうしたの。
ソラがちゃんと守ってくれているんだよね。
それを知っているから母さんは安心しているんだよ。
ねえ、ピナはどうしたの、どこにいるんだい。
弟のピスとピノが口々に言う。
兄ちゃん、早くこっちに来てよ。
ピナを連れて来てよ。
早くこっちでみんなと遊ぼう。
笑顔でソラに語りかけていた三人が黙り込む。
そして突然、目を剥いてゲラゲラと恐ろしい声で笑い出す。
そして消えてしまった。
ソラを盗賊の小屋から逃がした若い男、トクが現れる。
うまく逃げられたのか、ソラ。
しかし、追っ手は必ずおまえの前に現れるぞ。
気をつけるがいい。
おまえが死ぬ時まで追っ手はおまえを探し続けるだろう。
おまえは死ぬ時まで逃げ続けなければならない。
おまえは片時も気を休めることはできない。
おまえは眠っている間もびくびくしながら耳を澄ませていなければならない。
首領の元を逃げ出した者は皆そうなのだ。
あの人は逃げた者を決して許さない。
さあ、早く逃げろ。
追っ手は近くまで来ているぞ。
俺を連れて行け、俺を背負って行け。
一人で逃げるな、俺を連れて行け。
戦場で死んでいった兵士たちが現れる。
沢山の兵士たちがソラに歩み寄ってくる。
血だらけの姿かたちで口々に言う。
生きたいぞ、俺たちも生きたいぞ。
おまえだけがなぜ逃げて生きているんだ。
俺たちにも妻もあれば子もあったぞ。
嬉しい毎日の暮らしがあったぞ。
鍬を振るっては笑ったぞ、子を抱き上げては笑ったぞ。
なぜ死ななければならない。
なぜ殺されなければならない。
俺たちが何をした。罰を受ける理由などないぞ。
兵士たちがソラに手を差し伸べる。
白目を剥いた形相でソラをつかもうとする。
そして兵士たちは消えていった。
盗賊の首領が現れる。
どうだ、楽しいものを見ただろう。
皆、おまえを恨んでいるぞ。おまえを憎んでいるぞ。
決して消えない憎悪の念がおまえを取り囲んでいる。
恐れるがいい。
恐れておまえの心を痛めるがいい。
今までおまえが見たものは全ておまえが作り出したものだ。
おまえの恐れているものが形を与えられて現れてきたのだ。
おまえが作り出す限り、いつまでもおまえの前に現れてくるのだ。
どこに隠れているのだ。
俺はおまえを探しているぞ。
俺がおまえに送ったこの思念はこうしておまえに届いたようだ。
おまえが震えているのがわかる。
おまえが弱っているのがわかる。
いずれおまえとまた会えるだろう。
とても楽しみだ。
そして盗賊の首領も消えていった。
そのまま三日間、ソラの熱は続き意識は薄れたままだった。このまま死んでしまう。ソ
ラは何度も思った。そしてその都度やがて眠りに沈んでいった。
四日目の朝、ソラは目覚めた。
仰向けに寝たまま、目を開けてみる。
なんということだ、熱が下がったようだ。
熱を出し続けたまま死んでしまっても不思議ではなかった。しかしこうして意識が戻っ
た。なんとか助かった。
だけど、身体が動かない。
三日間、口にしたものは水だけだった。何も食べてはいない。
自分が見たものは何だったのだろう。
夢だったのか、本当に皆が自分の前に現れたのか。
弱りきり、ぐったりしたまま考えた。
怖かった。
妹や母や弟達は自分を恨んでいる様だった。
自分は肉親を裏切ったのか。母や弟達はやはり死んでしまっているのだろうか。父が現
れなかったのは死んではいないからだろうか。
そしてまた眠りに落ちていった。
翌日の昼からソラは起き上がることができた。
水を飲み、残っていた干した野葡萄を食べた。
空っぽの胃袋に落ちた野葡萄は実に美味しいものだと感じた。
そしてまた身を横たえて安静を心がけた。
数日経ち、珍しく晴れた日であったので洞窟を出て狩に行こうとする気持ちが起きた。
弓と矢を持ち、おぼつかない足取りで森の中を歩く。数日間、ほとんど歩くことをしな
かったために足の筋肉と敏捷性は簡単に落ちていた。しかし歩くほどに足取りは確かにな
ってくる。
獲物はいないか、用心しながら前に進む。
住処からだいぶ歩いた頃、雪の上に獣の足跡を見つけた。狐の足跡だと分かる。まるで
今、ここを通り過ぎたような足跡だ。鳥たちが囀っている。
またしばらく行くと今度は野兎らしい足跡を見つけた。足跡は雪の上を延々と続いてい
る。さっきここを野兎が通ったのだと思うとソラは久しぶりに嬉しい気持ちになった。
矢を射らないから自分と目を合わせて欲しい。自分をじっと見つめて欲しい。それだけ
で寂しさから救われるのにと思った。しかし、足跡を見ただけでも充分だった。
厳しい冬の森の中で獣は生きて暮らしている。吹雪の間はどこに隠れているのだろう。
きっと安全な棲家があるはずだ。そこで家族や一族と丸くなって寒さを防いでいるはずだ。
長い冬を越すための充分な食料と心の備えを持っているはずだ。
獣たちが持つその術をソラは知りたいと思った。ここで朽ち果てるわけにはいかない。
一人で誰にも知られずに死んでしまうわけにはいかない。何とか気持ちを強く持ち続けな
ければならない。
そう考えながら歩いていると自分が進む方向のずっと先に生き物の気配を感じた。久し
ぶりの感触にソラは震えた。
静かにゆっくりと腰を下ろし立膝になる。
音もなく腰に差した矢を抜き取り、細く息を吐きながら弓のつるを引く。
つるを引き切ったところで息を止めて待つ。
目を細め、じっと待つ。ソラの視線は動かない。
そして矢を放った。びゅん、と短く音を立てて矢は雪の草むらに飛んでいった。
ばさばさと音を立てて大きな野兎が雪の中から現れてそして倒れた。ソラが駆け寄ると
矢は野うさぎの横腹に鋭く突き刺さって赤い血が散っていた。
大きな獲物にソラは歓喜した。大きな声で笑った。声は森の中に響き渡った。上を向い
て何度も笑い声をたてた。
久しぶりに笑い声をたてたことは、体中の血液や細胞を生き生きとさせた。笑うことで
自分の身体が躍動するのをソラは知った。このことを忘れまいとソラは思った。
そして考えた。
矢を放ったソラは強者であり、射られた野兎は弱者であった。しかし、熱にうなされて
いたソラは弱者であり、雪野原を駆けていた野うさぎは強者であったと。生きる者の置か
れた状況が強者と弱者を振り分けることをソラは感じた。
ソラは野兎の胴体を首に回し両手で両脚をつかんで洞窟に帰った。
さっそく剣で野兎をばらした。臓物を泉で洗い、火を起こして炙って食べた。
心の底から美味しかった。口の奥がじんじんと痛んだ。心地よいその痛みをソラは愉し
んだ。
もうすぐ冬は終わり、春がやってくる。
そうすればこの薄暗い風景も緑に溢れる。森は豊かな恵みをもたらしてくれる。それま
であと少しの辛抱だと思う。
野兎は命を失い、自分に生きる力を与えてくれた。今こうして喜びを感じることができ
るのも命を失った野兎のおかげだと素直に思った。
強者となった自分が弱者となった野兎を食べている。しかし、熱を出したまま自分が死
んでいれば弱者となったであろう。自分の死骸を洞窟の外から、生きる力に満ちた強者で
ある野兎が覗いたことだろう。
森は強者と弱者をその状況に応じて作り出した。だから、強者はいつまでも強者である
ことはないし、弱者はいつまでも弱者であることもない。その状況が両者を頻繁に差し替
えることもある。
森は絶対的なものは作り出さないのだ。自分がこの森においていかに力をつけても絶対
的な強者であり続けることはないし、弱者で居続けることもない。その状況に任せること
がこの森で生きるうえで必要なのだとソラは考えた。
森は春を迎えたらしい。
風が雲を吹き流していく。
残雪の間から新しい緑が芽吹きだす。
泉から湧き上がる水の色が光を受けて鮮やかになる。
森を包む空気の香りがソラの鼻の奥につんと沁みる。
日が経つと共に、春は静かに勢力を増してゆく。
雪が融けだし、明るい日差しが戻ってくる。
葉を落としていた枝は新しい無数の若い緑を一斉に吹き出させる。
芽吹いた木々の緑が鮮やかさを増していく。
ソラは厳しい冬を乗り越えることができた。
若い身体は骨と皮ばかりになってしまっていた。頬の肉は落ち頬骨が尖って見える。ま
ぶたの肉さえ落ちて目が異様に光っている。
食べ物や燃料の蓄えに対する意識も不充分であったし、防寒の知識もなかった。さらに
は高熱のために臥せていた数日があった。どれもこれも命を落としかねないことばかりで
あった。
ソラは助けられた。
ソラは漠然と、しかし心底そう思った。自分はいつまでこの森に潜み暮らしてゆくのか
はわからない。生涯、ここに居続けるのかもしれない。万端の備えをしておかなければな
らない。寒さに対して、食べ物に対して、そして孤独に対する心に対して、ソラは備えな
ければならないと思った。
春の森はソラに豊かな食料を与えてくれる。
茂みに現れた野ねずみを犬のように四つ足で追い、捕らえては火で炙って食べた。泉を
泳ぐ蛇を捕らえてこれも食べた。そしてソラは少しずつ体力を取り戻していった。
父が先ごろの旅に出る前、ソラを呼び寄せたことを思い出す。父は納屋の裏で二人きり
でこう言ったのだ。
ソラ、お前はまだ幼い。
親は子を守る。しかし、いずれ子は親元から離れていく。
誰かに仕えて働くようになるだろう。自分で商いを起こすようになるかもしれない。
これからの人生で、様々な困難がおまえに訪れるだろう。
何度振り切っても、困難や災難はおまえに降りかかってくる。親は何もしてやれない。
用心するのだ。
最悪の状況に陥ることを、私は考えながら生きてきた。そして、いつもその通りになっ
た。私は無駄骨を折り、最初に引き戻された。
積み重ねが台無しになるかも知れぬ覚悟がなければ、私は重い落胆に耐えられなかった
だろう。
しかし、私とて望みがあった。
豊かになりたかったし、人を束ねる立場になりたかった。
だが、高く望むほど、深い落胆があるように思えてならなかった。
わたしはいつも不安だった。懸命に働き、上り詰めたと思った時でもその後、奈落の底
に落とされることばかり起きた。不安ばかりが的中した。
いつでもそうだった。人生とはそういうものだと思わざるを得なかった。
実際に、神を恨んだことさえあった。しかし、この冒涜に気がつき、恐れおののいた。
だが神は、決して私を許さなかった。だから、私は罰を受けた。
人の生活には成功と失敗の二通りしかないのだ。
最初の失敗で神を恨んだ私を、神はことごとく試した。確かに、私は或る時は神を信じ、
或る時は疑った。
そして多くの時間で自分を疑った。自分を疑うことは最も苦しい罰だ。
私は王のように人の上に立ち、豊かな生活を得ることを望み、そして何度も挫けた。自
分への疑いの気持ちは強くなる一方だった。
私は疲れている。自分を疑い、諦めながら生きていくことにとても疲れている。
ソラよ。高く望むな。
神は望む者を罰する。これは、私の実感だ。神の言いなりになれ。神の僕となれ。穏や
かな日々を送れ。
私はお前に、村に伝わる伝説を以前話した。覚えているだろうか。
『善き人が帰り来て、吾らに命を与え、過去を変え、未来を知る力を与えてくれる。そし
て分かれていたものを再びひとつにする』
人と万物が一体であったこの世の初め、人に寿命はなく、望むだけ生きることができた。
若く勇ましい二人の王子がいた。どちらも賢く力自慢だった。兄は、選ばれた者である
と自らを信じ、この世を治めようとした。これを弟はよしとしなかった。兄と弟は争いを
起こした。
兄は物陰から弓矢で弟を射ようとした。弟は兄の弓の弦に毒を塗っておいた。兄が自分
に矢を向けることを察していたのだ。
兄が弓を引き、矢を射った時、弦の毒が跳ねて自らの目に入った。兄は両手で顔を覆い
苦しみ悶え転げまわった。兄の目の玉は溶けて流れた。
そして弟は矢を心臓に受けて仰向けに倒れていた。
兄は、万物の王となったが、周りが何も見えない。絶えず不安でいつも憤っていた。絶
え間ない憤りは、王の精神と肉体を蝕んだ。
盲目の王の下では民も盲目同様でいた。人々の心は荒んでいった。荒んだ心は互いに通
い合うことをなくし、言葉は地域ごとに分かれていった。そして人々は違う言葉を話し出
した。違う言葉は違う心を作り出していった。恨みの言葉を発しながら王は死んだ。
本来、万物と同じ心を持つ人間であったが、それを忘れてしまっていった。人にとって
万物は戦う相手であり征服する対象となった。
今の世は、それ以来続く世なのだと言い伝えは言う。いつの日か、何らかの条件が満た
された時、死んだ弟王子が蘇り、この世を元に戻すという。全てのものの心と言葉をひと
つに戻すという。再生の条件とその時期は誰も知らない。
私は自らが弟王子であることを夢想した。
私が王となってこの世界を統治することを夢想したのだ。ただし、毎日の生活に追われ
ているうちにその夢もどこかに忘れてしまった。
ただ、今は夢想していた幸せな若い頃を懐かしんでいるのだ。そしていまでもこの伝説
は私の生活の拠りどころになっているのだ。私の古い懐かしい夢だ。
ソラ、おまえに伝えておく。
最悪の状態になり得ることを、いつでも考えながら生きていくのだ。
熟れた果実と萎れた果実を選ぶ時には、迷わず萎れたものを選ぶのだ。そしてそれに満
足しなければならない。熟れた果実には必ず毒が入っている。後から毒は効いてくる。熟
れた果実が労なく食べられるほどこの世は優しくないのだ。
おまえには私のような失敗をしてほしくはない。今でも夢をこころの片隅から外せない
私は幸福ではない。それでも私は実現するはずのない夢を持ち続けているだけで満足して
いる。
おまえはこれからの人生でおまえの心が望まない方を選ぶのだ。そうすればおまえは裏
切られない。そうしてこれからの人生を着実に歩んでいくがよい。
あの日、子供の自分に、父は大人に話すような態度で向き合ってくれた。でも、父の言
葉は理解できなかったし、納得もできなかった。いずれ理解出来るようになるのだろうか。
あれから父はどうしているのだろうか。生きていると信じたい。
誰もいなくなった村に仲間達と旅から戻り、村の様子に驚いているのではないだろうか。
盗賊に村が襲われた時、父がいてくれたら一家はばらばらにならなかっただろう。
父はきっとどこかで自分を探してくれている。もしかしたら母や弟達と自分が帰ってく
るのを待っていてくれているのだ。
母や弟たちは自分の前で殺されたはずだ。でもどこかで生きているかもしれない。そん
な気がする。そうでなければいけない。自分を待っていてくれなければいけない。死んだ
はずはない。
母さん、ぼくは森の中にいるよ。でも森から出られないんだよ。出れば誰かに捕まって
しまう。捕まえようとする悪い人が夢の中にまで出て来るよ。怖いんだ。だから、森に隠
れている。
ああ、幼馴染のシラはどうしているだろう。綺麗な顔立ちの娘だった。
放牧の帰り道、シラはぼくを待っていてくれた。いつも同じ時間、同じ道端にたたずん
でいた。そしてぼくたちを見つけると遠くのほうから手を振ってくれた。近づくに従って
彼女がずっと笑顔で手を振ってくれていたことがわかった。ウェーブのかかった亜麻色の
長い髪が揺れていた。
近くまで来た時、ぼくとシラは互いに駆け寄った。ぼくたちはほんの短い時間、じっと
見つめ合った。そして、微笑み合った。
ぼくとシラは互いの心の中を知っていた。
家までの赤土の道を一緒に帰った。
シラは歩きながらきれいな細い声で古い歌を歌ってくれた。弟や妹も一緒に歌った。弟
や妹たちはやさしい姉に対するようにシラに懐いていた。
シラの父親もまた、父の仲間だった。一緒に旅に出かけて行ったし、家にいる時も誘い
合っては話し込んでいるのを何度も見かけた。
シラの父親には三人の娘があり、シラは長女だった。息子を持たない彼は、自分をわが
息子のように扱うことがあった。釣りに誘うことがあったし、網を使った鳩猟にも連れて
行ってくれた。いずれソラは自分の息子になるのだ、と言う事もあった。それだけにシラ
の家には特別に親しい感情を抱いていた。
しかし、今までどうしてシラのことを思い出さなかったのだろう。シラだけではない。
村の幼馴染たちはどうしてしまっているのだろう。彼らのことを今まで思い出すことはな
かった。何人もの顔が頭に浮かぶ。
皆、もの心ついたころからの仲間だった。幼い頃から一緒に遊んだ。二手に分かれて戦
の遊びもしたし、兎狩りの遊びもした。何人かとは激しい喧嘩もした。そして子供らしく
数日もすれば何もなかったかのようにまた遊びに興じるのだった。互いに覚えているのに
忘れたふりをする、という子供同士の知恵だった。
しかし、大きくなるにしたがって自由になる時間が次第になくなり、一緒に遊ぶことも
なくなりかけていた。あのようなことがなければ皆、何も変わらない毎日を送り続けてい
たことだろう。
彼らは今どこで何をしているのだろう。死んでしまっているのだろうか。彼らが生きて
いるにしても、今の自分とは別の世界にいるだろう。
自分はなぜたった一人で隠れて生きなければならないのだろう。ここを出れば本当に誰
かに捕まってしまうのだろうか。一体誰が、何のために、自分を捕まえようとしているの
だろうか。
考えが前にすすまない。この森から出ることが怖くてしかたない。ここから出ることが
どうしてそんなに怖いのだろう。それさえもわからない。
森は初夏を迎えた。
木々の緑は一層輝きを増し、そこに棲む生き物すべてに豊富な糧を与えた。
ソラは森から精気を受け、たくましい心と身体を育みつつあった。驚くほど森を歩き回
り狩りをした。ソラは森のとても広い範囲を見知るようになった。森の中で迷うこともな
くなった。
狩りの腕前はまだまだ未熟で、狙った獲物を手にすることは一割にも達しない。しかし、
確信して放った矢は必ず獲物に命中した。
確信できる矢が増えれば、狩りの精度は上がるはずだとソラは考えた。どのような条件
が合えば確信できる矢を放つことができるのか。考え続け答えを導き出した。
第一に自分の存在が獲物に気付かれていないこと。
自分が風上にいた場合、風下の獲物には先に気付かれている。風下にどんな獲物がいよ
うともそれは決して射ることはできない。常に風上に獲物を探すことが必要だった。
第二に自分の矢が届く範囲に獲物がいること。
第一の条件に叶っている場合でも矢が届かなければ意味を成さない。獲物に届く強い矢
を放たなければならない。そして矢が正しく飛ばなければこれも意味を成さない。
第三に狙いを定めてから矢を射るまでに獲物が動かないこと。
第一、第二の条件に叶っている場合でも、引き絞られた弓から指を離す瞬間に獲物が少
しでも動けばそれに対応できない。狙いを定め即座に矢を放つことが必要だった。
第四に自分の呼吸が乱れていないこと。
第三までの条件に叶っている場合でも、呼吸が乱れていれば自ずと肩が動き矢は正しく
放たれない。どのような場合にあっても、呼吸を乱すことなく矢を放つまでの一連の動作
をこなさなければならず、息を吸う時ではなく、息を吐く時に矢を放つべきだということ
をソラは知った。
これらの条件がすべて叶う時、確信は生まれた。
そしてこれらの条件が揃わない時、矢を放つことを止めた。意味のない矢を放たなくな
ったソラは狩人として第一歩を踏み出した。
森には多くの生き物が棲んでいる。
森に逃げ込んできた暫くの間は野ねずみや虫がソラの空腹を満たしてくれた。一年が経
とうとする今では野兎や野鳩、鶉がソラの獲物となっていた。そして冬の為に食料を保存
しておくことも忘れなかった。
森の中で、まれに狐と出会うことがあった。狐は利口そうな眼差しをソラにしばらく向
けると踵を返し茂みの中に入っていった。思惑のありそうな狐の表情との交歓をソラは愉
しんだ。そして声を上げて笑った。
誰とも言葉を交わさなくなって久しい。
独り言を言うようになっていた。自分でもそれに気がついており、不自然だとは思った
が止めようとはしなかった。むしろそれに没頭した。
ねえ、母さん、ぼくは一人で暮らしているよ。
一人でいることはとても寂しいけれど我慢しているよ。
だって仕方がないもの。
自分ではどうしゆもないのだから。
このまま死ぬまでこの森で暮らしていくのかもしれないよ。
とても長い年月かもしれないし、それは明日かもしれない。
それがどんなに長くとも、どんなに短くとも、こうして母さんがぼくのそばにいてくれ
るのなら平気かもしれない。
ずっと一緒にいてくれるよね。
ピス、ピノ、ピナ。兄ちゃんは狩りが上手になったんだよ。
おまえたちにも弓の引き方を教えて上げられるよ。
森は深くて暗いけれど兄ちゃんは平気だよ。
怖くなくなったよ。森を知ったからだ。
いろんな生き物が隠れているよ。
今は兄ちゃんもその仲間だよ。
ピナ、抱っこしてあげるよ。もう離さないよ。
泣かないで。もう大丈夫だから。ほら笑ったね。
ぼくたちが皆一緒だと嬉しいね、楽しいね。
父さんももうすぐ帰ってくるから、またみんな一緒だよ。
ソラは森の中を歩きながら独り言を言う。ソラにとって独り言は別れてしまった肉親と
の会話だった。そして自問自答だった。ソラはこれによって自らを慰めた。
ソラは自信に溢れた夏を過ごした。
弓の腕前は日に日に上達している。森の中を駆け抜けても息は切れない。腕、腰、足の
筋肉はひと回りもふた回りも厚く太くなっていった。
遠くの獲物を見極める視力や、物音に反応する聴力も研ぎ澄まされている。何よりも森
の中を走り回ることで寂しさや不安はまぎれた。それに気がついたソラは尚一層、森に親
しんだ。
陽が西に傾く頃、住処に帰り着くと心地よく疲れていて、食事をするとすぐに眠りにつ
くことができた。
以前のように悪い夢を見ることもなく、朝日が昇る前には目を覚ました。両親のもとで
暮らしていた頃のことを毎朝思い出した。
母親が用意してくれた、炙ったイナゴや山羊乳、硬いパン、野蜜などがのった食卓を思
い出す。にぎやかに弟や妹達と朝食を頬張ったことを思い出す。そして悲しくなる。悲し
くなるとソラの独り言が始まる。
母さん、今日は少し遠くまで山羊たちを連れて行こうと思うんだ。
近頃、やけに草の食いがいいんだよ。だから乳の出もいいよね。
よく草を食ませてもっと運動させてやるんだ。
みんな、今日は少しだけ遠出だよ。
ピナ、沢山歩くからね。泣いちゃいけないよ。
がんばって沢山歩いたら帰り道は兄ちゃんがおぶってあげるよ。
さあ、みんな、食べたら出かける準備をするよ。
ひとしきりひとり言を言ってソラは自分の心を満足させ、寂しい心をその時だけ、忘れ
させた。
騒々しいほどの鳥の鳴き声を聞きながら、ソラは泉に身を沈める。
泉の水はこんこんと湧き出ていて、頭の芯が痛くなるほど冷たい。手でごしごしと顔を
洗い、口をすすぎさっぱりとした気分で身体を拭く。
“今日もうれしい一日が始まる”
毎朝、ソラはこの言葉を唱えるように口にする。最初のきっかけは偶然だった。たまた
まある朝、そう言った。するとそのようになる気がした。
独り言から発展した言葉遊びが最初と言えた。一人でいることは様々な遊びを生じさせ
た。住処で膝を抱えながらうれしい言葉を探していった。他にもいろいろ見つかった。
綺麗、明るい、正しい、楽しい、大切、満足、感謝、喜び、正直、穏やか……。
うれしい言葉を毎日繰り返して言ってみる。するとうれしいことが広がっていく。また、
出来事や物にこれらのうれしい言葉を与えてやると、それらは元々の価値を上回るように
感じた。
ソラは、言葉自体に物や出来事を左右させるような力があるような気がしていた。日に
日にその思いは強まっていった。そして、言葉がこの世界を支配していたら面白いのに、
などと考えてもみた。
“今日は酷い日だ”
こう思った瞬間から、酷いことが襲いかかる気がした。実際、そうしたことが何度も起
こった。だから決してこの言葉は考えないようにしていたが、そういうわけには上手くい
かなかった。
自分が見つける前に獲物に気付かれ逃げ去られてしまった時や、放って見失ってしまっ
た矢を探し回る時、今日は酷い日だ、とつい口走ってしまう。すると次々に酷いことが襲
い掛かってくるのだった。
その日は一切、獲物を見かけることもなくなった。住処に戻れば貯蔵してある乾した木
の実などが何ものかに食い散らされていた。
これらのことは誰に教わったことでもない。一人で暮らしているうちに感じ出したものだ
った。そしてお祈りのように、美しいこの言葉、“今日もうれしい一日が始まる”を口にす
るようになった。
ソラはこれを、“うれしい言葉”と名づけた。うれしい言葉を口にするとうれしいこと
が起こると半ば信じ、ある時は半ば疑った。
言葉を発しながら良きことが起こらない時は、この言葉に対する疑いが生まれた。それ
が度重なると疑いは強まり、言葉への信頼は薄まる。同様に良きことが起こればこの言葉
に対する信頼は回復する。
全く、半信半疑だった。そして、悪い言葉のほうが良い言葉よりも力が強いという印象
があった。
良い言葉は唱えても確実に良いことが起こるとは限らない。そして良いことが起こらな
ければ良い言葉への信頼はどんどん弱まり、言葉を唱える頻度も減る。良い言葉には信頼
感を与え続ける必要があると思われた。
悪い言葉は口に出せば高い確率で悪いことが起こった。そしてさらに悪い言葉が口から
放たれる。分かってはいながら悪い言葉は心に生まれ口から放たれた。悪い言葉は何も与
えなくても力を増し範囲を広げるようだった。
一日が終わる寝床の中で、今日はうれしい一日だった、明日もうれしい一日であります
ようにと唱えた。
この言葉は違和感なく唱えることができた。どのような一日であったとしても、眠りに
つく前には素直な言葉が言えた。
秋になった。
ソラがこの森に辿り着いてから一年が経つ。辛い思いを繰り返した一年だった。何とか
生きながらえた。そして最近になってやっと少しの気持ちの余裕が生まれた。
いつものようにソラは住処を出て狩りに出かける。清清しい気分で、心配することは何
もない。
森の藪の中をずんずん進んで行く。
見上げれば高い木々の先に青空が広がっている。今日は獲物がなくてもいい。森を歩く
だけでいい。
昼まで歩いて何も見つからなければ住処に帰ろう。泉で身体を洗い休息しよう。
笑顔になる。なぜだか歌い出したくなるような気分だ。
思えばずいぶん長く森に隠れている。誰かに見つけ出され捕らえられてしまうのではな
いかとどれほど心配したことだろう。
心配する必要などなかったのだ。意味のない恐怖にどれだけ怯えたことだろう。心配は
自ら作り出したものだったのだ。実際には何もないところに恐怖を自ら作り出したものだ
ったのだ。そのことが今はわかった。これは珠玉のような知恵だった。これを得られた。
だから気分が晴れ晴れとしている。
そろそろ森を出る時期なのかもしれない。
村に帰れば皆が待っているかもしれない。あれはみんな夢だったんだ。何もかもが夢だ
ったんだ。そう思うと心地よかった。
鳥のさえずりが耳に楽しい。この辺りで少し休もうか。
ソラは大きな木の根元に腰を下ろす。
全部夢だったんだ。そうだ、夢だったんだ。みんなが待っている。どこに行っていたの?
心配したよ。その口々が言う。ああ、もう大丈夫なんだ。良かった、良かった。
ソラは心地よい風に吹かれて眠ってしまった。
どれだけ時間が経ったか分からない。
誰かの声が聞こえてきて、薄目を開ける。じっと身を硬くする。荒くなろうとする息を
整える。弓と矢には手が届かない。手を伸ばすことができない。身体を動かすことが出来
ない。身体を固くしてじっとしているしかない。
何人かの男の声が聞こえてくる。すぐ近くを歩いている。話声が聞こえる。
「小僧はこの森の中にいる。小僧がこの森の中のどこかに隠れて息をしているのが見える。
小僧はまだ、目覚めていない。目覚めることに気づいてもいない。目覚めてしまったら手
に負えなくなる。恐ろしいほどの力を持つだろう。今ならまだ間に合う。探し出すのだ。
探し出して小僧が手に入れるはずの力を封じ込めなければならない。そうしなければ我々
は滅ぼされる」
「首領、この森は深すぎます。どれだけこの森をくまなく歩いても小僧と出会うことは難
しい……。そして、ここは何だか息苦しい。呼吸の度に力を抜かれていくように思えて仕
方ありません。この森は不思議な森です。ここでは走ることができません。小僧と出会っ
ても、きっと、戦うこともできないでしょう。いえ、探し出せないはずはありません。出
会えば戦わなければなりません。ただ、ここはおかしな森だと……」
話し手は言葉の途中で相手の鋭い一瞥に怖気づいた。
「安易にそのようなことを口に出すな。言葉がその通りに成就してしまう。あの小僧はま
だ気が付いていないが、この世界の言葉を司る身だ。だから小僧の領域に決して入っては
ならない。小僧の口から出た言葉は、まともに受けてしまえば恐ろしいほどの力を持って
我々を焼き尽くす。私はあの小僧が隠れ家に連れてこられた時、歓喜した。その気持ちを
隠すことにどれほど注意を払ったことか。捜し求めていた人物が手下によって我が手の中
に納まったのだから。しかし、みすみす逃してしまった。すぐに殺してしまうべきだった
のだ。我が神の降臨を待ち、儀式に則って始末することを考えた為に逃してしまった。儀
式を通さずとも我が手で、我が呪文で始末してしまうべきだったのだ。今となってはもう
遅い。探し出すほかはないのだ。奴はこの森にいる。深い森といえども限られた地域だ。
必ず探し出せる」
ソラの動悸は高まり、体中から冷や汗が噴き出している。瞼を閉じることもできない。
息が荒くなるのを必死に堪える。身体が動かない。目の先が真っ暗になる。鼓動の音だけ
が体中に響く。幸福なひと時は吹き飛んでしまっていた。うすく開けた口の中が乾き切っ
ている。
声の主たちはもうこの近辺にはいないと確信できるまでソラは動けなかった。その時間
がどれほど長かったことか。
待つことに耐え、やがて辺りを見回しながらそろりと立ち上がる。しばらくじっと耳を
すませる。ゆっくりと大木の根元から離れる。弓と矢を拾う。そして住処を目指して足音
を立てずに逃げ帰った。
住処の近くまで来て、草薮に隠れて辺りを窺う。しばらく中腰の姿勢で洞窟の入口を注
視する。誰も来てはいないようだ。洞窟の入口から中を窺う。ここは大丈夫のようだ。倒
れるように中に入った。
忘れかけていた恐怖が蘇った。自分は誰かに捕らえられようとしている。自分を探し出
そうとしている者がいる。
あれは誰だろう。声には聞き覚えがある。確かに聞いた声だ。その声の主にいつか見つ
かってしまうかもしれない。そして、殺されるに違いない。
それは寝床で休んでいる時かもしれない。泉で水浴びしている時かもしれない。弓も矢
も剣も手に届かない時に襲われるかもしれない。大勢に襲われたらどれほど怖いだろう。
洞窟の奥で膝を抱えて震えた。ここを出て逃げるべきだろうか。しかし、なぜ、あの声
は遠ざかっていったのにいつまでもはっきりと聞こえたのだろう。
大きな木の根元で眠りから覚め、息を荒くして怯えているソラとは遠く離れた場所を往
きながら、額に十文字の傷のある男は考えていた。
私の声は思念となって、森のどこかにいる小僧に届いただろう。すぐそばにいるように
聞こえたはずだ。
愚かに、怯えていることだろう。
怯えは持っている力を削ぐ。
小僧よ、怯えるがよい。怯え切って力をなくしてしまうがよい。
戦う前に怯え切らせていれば、こちらが優位に立てる。
小僧は本来持つ力を出せないまま、我らに四肢を押さえつけられて身動きもできなくな
るだろう。
命乞いをするがよい。涙声で我らに懇願するがよい。
じっくりと時間をかけて首を落としてやる。
首が落ち切るまで、命乞いをするがよい。
じっくり楽しもう。
だが、この森の強さは何ということだろう。
この森は我が力を縛り付けるようだ。
手下が言うように、ここでは力を存分に出すことはできない。
逆に小僧に力を与えているのだろう。
この森で小僧を探し続けることはできない。
もう限界だ。森を出よう。
しかし私の思念は奴に届いている。それは分かる。
これでよい。いつか必ず小僧は森を出る。遠い先かもしれない。しかし、その時まで私
が送った思念を小僧は覚えているだろう。
小僧は私を恐怖の対象として見る。不安の対象として見る。
恐れや不安は本来持っている力を縛りつけて働けないようにしてしまう。
自ら払拭しない限り、恐れや不安は増殖していく。
強い意志がなければ払拭はできない。
日に日に増殖していくことだろう。
私はこれで優位に立つことができる。
すでに私は戦いに大方勝ったといえるだろう。
あの日以来、ソラはずっと重く濃い恐怖のなかにいた。もう、決して心が楽しむことは
なかった。
住処から顔を出すことにも怯え、籠りきっている。
焚き火をすることなどは最も控えなければならない事だった。当然、弓を持って狩りに
出かけることもしなくなった。自分の足音や弓矢の音で自分を探している誰かに気づかれ
てしまうことを恐れた。
すでに泉で水を浴びることもなくなった。水音で気づかれるかもしれないし、誰かに襲
われた際、裸では抵抗することも出来ないからだ。
いつ、どこで恐ろしい襲来を受けるのか全くわからなかった。だから気が休まるひと時
もなかった。
そんな日が続き、怯えは形を変え、投げやりな不貞腐れた気持ちに移っていった。
住処の一番奥で顔を膝に埋めて悶々と考える。今まで起こった全てのことが恨みがまし
い。村が襲われたことが全ての不幸の発端だった。そこから次々に辛いことが連鎖し増幅
していった。
あの時、父さえいてくれたらと、父さえも恨みの対象となった。
いったいあの人は今頃どこにいるのだろう。なぜ、自分を救い出してはくれないのだ。
あの人のせいで家族皆が死んでしまったのだ。
何の為に旅などに出かけていたのだ。村で一番の働き手であり戦い手である父と仲間達
が留守にするからあのような惨事が起きたのだ。
ソラは一日中不平不満を口にする。
壁に向かって声を殺して怒鳴ったし、拳を振り上げて何かを殴りつける動作をした。
ある朝、珍しく泉に出た。水面には自分の顔が映っているようだ。
それはとても嫌らしい狡猾そうな男の顔だった。
髪は艶を失い棘のように伸び、目は赤く充血し吊り上り、口は両端が耳の端まで伸びて
いる。顔色はどす黒く、まるで人の顔とは思えないような有様だった。
それでもソラは驚かなかった。
ずっと以前から自分の顔はそうなっていたのだと思った。何も変わったようにも思えな
かった。しばらくじっと無表情に自分の顔を見据えると、住処に戻ってごろりと横になっ
て目を閉じた。
何もかもが嫌になっている。もうどうでもよくなった。
やがて冬が来るようだ。
厳しい季節が訪れる。今度こそ冬に埋もれてしまうかもしれない。それも仕方がないか
……。どうしようもない。たった一人で辛い思いをしながら隠れ住んでいても何の意味も
ない。生きている甲斐もない。もう、がんばれない……気力も湧かない。
思えばあの大きな木の根元であの声を聞いて以来、一つの季節が過ぎようとしているの
だ。木々を渡る風の匂いも変わった。
あれからずっと自分はやりきれない気持ちで毎日を過ごしている。もう疲れた。疲れ切
ってしまった。
すでに森は冬にすっぽりと包まれている。雪の訪れも近いはずだ。
雪が降れば辺り一面が白く覆われる。洞窟の入口が雪で覆われれば誰にも探し出されな
い。これでやっと安心できる。もう誰も来ない。ソラは思った。
しかし、人の心はなんと不安定なものだろう。あの時までは何もかもが嬉しく朗らかな
ことばかりだった。あんな日はもう来ることはない。仕方ないことだ。もう諦めている。
いつから食べていないのだろう。
忘れてしまった。
どうせ食べるものは何もなくなっているはずだし、食べる気もしない。
空腹を感じることもないから苦痛も感じない。排泄もしていない。
ただ一人、ずっと、何日も住処の中で座り続けている。
さぞかし身体は痩せ細ってしまっているのだろうな。
ずっと目を閉じているので自分の身体も見ていない。
こうしているのが心地よい。いや、それさえもわからない。苦痛を感じていないだけか
もしれない。
腰の感覚も、足の感覚もない。
気持ちだけがここにいるようだ。
うつらうつらしている。
夢の中にいるのか、起きているのか、わからない。
村で生まれ、村で育ち、過ごしてきた思い出が脳裏を駆け巡る。
あの頃は、楽しかった、嬉しかった。
でも、今は違う。
指一本を動かす力も湧いてはこない。
死んでいくのかな……。
ソラの脳裏に最後に浮かんだのはこの言葉だった。
洞窟の天井から黒い霧のようなものが降ってきてソラを覆い隠した。
そして、ソラは死んだ。
どす黒く変色した肌のまま、引きつった邪悪な面相のまま、足を組んで座ったままソラ
は、死んだ。
洞窟の入口から大きな白い野兎が覗き込んでいる。かつてソラであった骨の浮き上がっ
た皮と筋の塊をじっと見据えている。
野兎は何を考えてソラだった塊を見ているのだろう。
やがて野兎は踵を返し、雪に覆われた森の中に駆け込み、見えなくなった。
冷たい森の空気が洞窟の中に吹き込んでも、死んでしまったソラは身動きしない。
そして日は落ちて辺りは暗闇に覆われた。
ソラの魂は身体を離れると、しばらく躊躇するように身体の回りをさ迷った。
そして上に向かって昇っていった。
彷徨うソラの魂の前に、一条の光が降ってきた。
光はやがて少女の姿になる。
肩まで伸びた黒い髪、黒く濡れた大きな瞳、白く輝く肌、薄く赤く小さな唇、白い衣は
光を放っていて眩しい。
とても懐かしい……。そうだ……この人とは、ピナを背負って逃げた山の中で会った。
ソラの魂はそう感じた。
少女がソラに語りかける。口は動かない。言葉が伝わってくる。
おまえはまた私と会った。
だが、私はおまえのそばにずっと一緒にいた。
おまえはそれに気づかなかった。
私が誰であるか覚えているか。
覚えてはいまい。もう一度聞かせよう。
私はおまえであり、おまえは私だ。
そしておまえはすべてだ。
おまえは永遠であり、一瞬である。
おまえは思念であり、法則である。
おまえはすべてのものすべてだ。
そしておまえはこの宇宙の魂だ。
おまえは、おまえの周りの世界を恨んだ。
しかし、生れ落ちた時からおまえに訪れた出来事はすべて必然だ。
偶然は一つもない。
すべての出来事にそれぞれの意味がある。偶然はない。
おまえに起こった出来事を無駄にしてはいけない。やり過ごすことは許されない。
心を鎮めよ。
心を鎮めて思いを深めよ。
そして出来事の意味を探し出すのだ。
出来事がおまえに何を伝えているのか考えるのだ。
私の言葉を聞いているソラの魂よ。
おまえはもう一度目を覚まし、肉体へ戻る。
おまえは蘇り、生き続ける。
生き続けて、おまえは約束を果たす。
おまえは生まれ出る前に主と約束をしてきた。そのことはすでにお前に伝えてある。
おまえはこの世に留まらなければならない。
約束を果たすために、おまえは何度でも使命を背負って生まれ変わらなければならない。
しかし、おまえはこの生で約束を果たす、と決めてきたのだ。
この世に生まれたとき、一旦は約束を全て忘れてしまう。
思い出して約束を果たす魂もある。
思い出さずに一生を終える魂もある。
思い出さずに帰ってきた魂は、同じ約束を持って再度この世に生まれいずる。
これを数十、数百と繰り返す魂もある。
おまえはこの生で約束を思い出し、約束を果たさなければならない。
おまえはあと十年、この森に留まり、約束を思い出す為の生活を送らなければならない。
おまえが果たす約束のために、出来事はおまえに降りかかった。
おまえの果たす約束のために、おまえの周りの多くの人は死んだ。
しかし、それもそれぞれの約束のうちだ。
沢山の約束事が、この世界で果たされる時を待っている。
おまえの約束の言葉は、ある日突然おまえに訪れる。
おまえが受け入れる準備が整った時に、それは訪れる。
伝えたはずだ。強い気持ちを持て、そしてそれを瞳に現せ。
くじけない気持ちを瞳に現せ。
心と瞳がつながっていることを忘れてはいけない。
いずれおまえを助ける魂の群れがおまえに寄り集まる。
それはおまえに準備ができた時だ。
おまえに与えた玉を思い出すがよい。
これより先、玉はおまえを助ける。
主からおまえが預かったものだ。
玉は正しい約束を持つ者の印だ。
いつも心安らかにあれ。
おまえは調和であり、平安であり、正しい力であることを、知っておくがよい。
ソラよ……では、身体に戻れ。
少女は光に包まれ、その光はソラを覆った。
光の中ですべては見えなくなった。
ソラは住処である洞窟の中で目を覚ました。
膝に顔を埋めたままの姿に、戻ってきた。
まぶしい陽光が洞窟の入口から差し込んでいる。朝だ。
ソラは身体を離れ魂となって出会った少女の言葉を覚えていた。そしてそれを決して忘
れまいと思った。その言葉をこれからの生活の支えとしていこうと思った。
続く……