ガラスの靴で舞踏会
夥しい雲々が大雨を降らせている。
薄明るいテラスから、黒空を見上げていると首が痛くなった。痛いのは、首に限ったことではないのに。
蒸した夏の夜にはそぐわない長袖のドレス。華やかで煌びやかで雅やかな、如何にも貴族然とした緋色の裾に、歩きづらいガラスのヒール。
メリイは、ひとりで居たいからひとりでテラスに出ていたのに、背後、重厚な扉が開いて、
「Shall we dance?」
跪く紳士にそう提案された。こちらも、肩パッドがいかつく、皺のひとつも見当たらない、紺青色のスーツで。
――貴族然とした、人だ。
整髪料の光沢がいやに眩しかった。
「……It's raining」
メリイは、そう言い残して、紳士のとなりを通り過ぎた。
テラスもテラスで、華美な装飾の施された目のチカチカする様相だったが、中も中で、ありとあらゆるところが技巧の凝らされた装飾品で溢れていた。
絨毯はもちろん真紅で、壁面には同じ模様が右に左に上下に、繰り返されている。昼間の太陽より明かりの強いこの大広間では、ざっと二十人ほどだろうか、似たり寄ったりの服装で個性のまるでない男女が踊ったり、小さな料理を口にしたり、ぬるいワインを嗜んだりしていた。
そんなところでは、当然だろう。両の頬にそばかすの浮いたメリイは、そばかすみたいに浮いていた。
テラスから戻ったメリイを見て、ひとりの淑女は何かをぼやいている。聞えよがしに言っている風だが、メリイの耳には届いていなかった。
その淑女と共にいた偉丈夫は、快活に笑っていた。
きっと、面白いジョークを披露してみせたのだろう。メリイを虚仮にして。
大広間の中央、豪華なシャンデリアの下――から少し横に逸れた絨毯の上を、ガラスのヒールで歩いていると――歩いていただけで――「How local!」なんて。
(Ahh……)
もう、その声の主を、見ようとも思わなかった。メリイは、俯いたままに歩みを進める。コン、コンと鳴る足音がまるで、硝子の心を打ち砕かんとする残響にも聞こえて。
「All right?」
ふと、聞き馴染みのある声がした。メリイを案じる、透明な高い声。
「Mary」
メリイが、顔を上げたのと同時、エマがメリイの名前を呼んだ。会うたびに若干異なる金毛の巻き毛は、けれどいつもと変わらないような。
「――Emma」
痛々しく痩せ細ったような声音のメリイに気づいてか、エマは途端、睫の長い瞳を丸くした。――が、
「You're pretty tidy!」
エマは、メリイの、病的な面持ちについて驚いたようにそう言った。“すごく、きれいだ”と。
(I,……I'm not)
――どうやら、エマの褒め言葉が周囲の貴族たちの耳朶に触れたらしい。くすくすと、せせら笑う吐息が広がる。
ひっそり閑とした湖の中央付近で、小石が落とされたように、それは波及していき――、
「Certainly,it'll be sunny」
と、大言壮語も甚だしい“溢美”をエマが口にしたところで、会場はドッと盛り上がった。
メリイの顔が、火でも出たみたいに、真っ赤に染まっていく。見通しのいいこの大広間には、隠れられるほどの穴なんてなかった。
「……?」
訝しげにエマが辺りを見渡す。首を傾げながら、どうして笑っているの? と言わんばかりに。
「I,I have to go……」
エマは悪くないのに、どうしても後ろめたい思いが拭い切れなくて、メリイは逃げるように一歩踏み出す。
と、勢い余って、その一歩を踏み外した。ガラスのヒールが平衡を失う。そのまま足を捻って、盛大に転んだ。
そして、会場は大盛況。
「A――are you okay?」
周りの笑い声に、一瞬怒りの色を瞳に灯して、けれどすぐエマは、屈んでメリイを心配した。
(I'm not――I'm not――I'm not――)
「……Okay」
口を衝いて出たのは、小さな虚勢だったけれど、エマは「You aren't」とその虚勢を否定しながら、メリイの肩に手を伸ばした。
それを、気が引けたけれど、メリイは、
「I'm,――okay」
拒んで、立ち上がる。
まだ波紋の残る大広間で、コツコツと足早にメリイは進む。唇を尖らせながら周囲を一瞥したエマは、やり切れない憤懣を堪えて、その後ろ姿を追う。
数秒もしないうちに追いついて、
「Mary!」
肩を掴んだ。季節外れの紅葉を散らしたメリイの頬に、若干の怒気が浮かぶ。そばかすを、覆い隠したりはしないが。
「Just wait!」
そう言われ、おもむろに振り返る、メリイ。
その、気色ばんだ表情に、エマは少し気圧されたらしかった。
「Don't look so ――like that……」
――そんな顔、しないで……?
エマから浴びせられた、突然の“罵倒”に、メリイは俄然として血相を変えた。別に、なりたくてなった“こんな顔”じゃない。
エマみたいに、周りの皆みたいに、小綺麗な顔で生まれたわけじゃない。それに、好き好んであんな貧乏な家に生まれたわけでもない。あなたたちは偶然、他の貴族があまり権力を持っていなくて、たまたま、他の家庭がそこまで裕福な生活をしていないだけの、普通の一族じゃない――と、ひとしきり不満が溢れて、けれど決壊のすんでのところで、メリイは思い止まった。
「Sorry,but I,……but I am okay」
潤む声で、さもなけなしの声を振り絞るかのように、メリイはそう弁解する。エマは、何かを言わんとしたが、けれど、躊躇いがちに口を開きかけただけで、何も言わなかった。
肩を掴む力が、緩んでいた。
すっと抜けて、メリイは、踵を返したまま大広間を後にした。階段を下りて、誰もいない、ロビー。
歩きづらいガラスの靴を、脱ぎ捨てた。
重たい扉を開ける。
ぽたぽたと、雨水が庇からこぼれ落ちていて、ざあざあと、容赦なくタイルを叩きつけていた。雨音だけが空気を震わせている。
傘なんてない。昼間はあんなに晴れていたのに、誰がこんな雨模様を予測できただろうか。
一歩、タイルを踏む。
一瞬、冷たくて、けれどしばらくすれば、慣れる程度の冷たさだった。ひんやりと、足の裏を冷気が漂う。ヒールがないからか、この場から立ち去れるからか、メリイの足取りは軽く、歩きやすいようだった。
三歩目、四歩目、そして――。
庇と天蓋の、境界線の如く、その先は雨だ。きっと帰るまでは止まない雨、依然として降り続ける。
色の変わったタイルが、まるで世界が変わったみたいに、黒々と雨粒に打たれていて。その先を、世界の変わるその先を、踏み出すのに躊躇いが要らないなんてことはなかった。
「It won't……」
すぐ落ちる雨に向かって呟いた。嘆息も混じっていた。
「――You forgot」
はっと、息を呑んだ。誰もいないと思っていた。雨に掻き消されてか、背後に立つ紳士に気づけなかったらしい。
整髪料の、どことなく眩しい紳士に。
振り返って、見ると、その紳士は、メリイがさっき脱ぎ捨てたガラスの靴を持っていた。“忘れてますよ”なんて、言われても――。
「……It's raining」
ぺたぺたぺたと、裸足のままに闇夜に消えた。