1st:EP11:ガラスのダイニング
1
いつの間に入って来たのか、少年はダイニングチェアで天井を見上げて息絶えている年の離れた兄の死体に近づくと、その手の甲に小さな指を這わせた。まるでお気に入りのオモチャを愛でるかのような指の動きに合わせて、くりくり動く澄んだ瞳は好奇心であふれんばかりに見開かれている。
また、少年の足元には、もう一体の射殺体が横たわっているが、それには興味がないのか、目もくれない。
「お目覚めのようね」
優しい呼びかけの先には、頭の後ろに束ねた黒髪のこめかみ部分から太い銀髪が帯状に流れた老齢の女性が微笑んでいた。少年は女性の深緑色の目を上目遣いに覗き込んだ。
「うん。もうすっかり目が覚めたよ、お母さん」
母親は数年前に養子にしたこの少年から、今しがた自分が射殺した実の息子の死体に視線を転じた。死体の額には早くも、効力を失った呪術文様が浮き出しはじめ、そこからどす黒い血が滲みだしはじめていた。
*
始まりは十二年前になる。
赤く染まったスーパームーンが夜空に浮かび上がった、あの夜に。
2
「で、どうしたんですか、母さん」
息子は無造作につかんだティーカップから紅茶を一口すすると、ダイニングテーブルの向こう側に腰かけた母親に静かに語りかけた。
「あなたは誰なの。あの子は、いったいどこにいるの。お願いだから、私の大切な一人息子を返してちょうだい」
「いやだな。僕は僕ですよ」
「いえ、あなたは違うわ。あの子じゃない」
首を激しく振った母親の黒髪の中に銀髪が躍った。
「何度も同じことを言わせないでくださいよ。僕は僕です。あなたが甦らせてくれたじゃないですか。忘れたんですか」
「忘れるものですか……あぁ、私はなんて愚かな事をしてしまったの」母親の目から涙が流れた。「姿かたちは同じでも中身は違う。あなたが本当に、あの子なら、ダーレス教授に、なぜあんな惨い事をしたの。あなたを止めようとしたハワードとフィリップにまで、あんな……あんなことを。あなたは断じて、私の息子じゃない」
*
ミスカトニック大学の図書館司書である母親は、夫が南極で遭難死した後も勤勉さと実直さでは抜きんでた存在だった。もちろんそれは亡き夫のことを思い出す辛さを仕事に熱中することで紛らわせようとする行動ではあった。しかし、そんな人物だからこそ、探究熱心な教授たちから絶大な信頼と少なからぬ憐憫を寄せられ、慰めや気遣いの言葉だけでなく、現代科学では説明のつかない話などを彼らから吸収することができたのも自然の成り行きだった。そして二カ月後、母親は悲しみを紛らすために仕入れたに過ぎなかった知識を不本意ながらも実践することを決断せざるを得なくなった。
突然訪れた一人息子の交通事故死だ。
*
「もう終わりよ……えぇ、終わりにしましょう」
母親は震える手で手帳を取り出すと、中に書かれた呪文を声に出して読もうとした。教授たちから教えてもらった閲覧厳禁のあの書物から秘かに書き写したものだ。だが手帳は彼女の手からポロリと落ちた。信じられないという顔を息子に向けて息を喘がせはじめた。自らが蘇らせた息子を滅ぼす呪文は母親の口からは一向に出てこない。
「呪文だけでは心もとなかったんですね。完璧を期そうとしたんでしょうが、残念でしたね。さっき母さんのティーカップと僕のをすり替えておいたんですよ」
息子の言葉が終わらないうちに、母親はテーブルに突っ伏すと動かなくなった。
やはり毒殺を狙ったようだ。
衝動的に殺意を抱くことがない限り、女性の凶器は毒が多いと統計が出ている。生前には興味がなかったことだが、甦ってからは、そんな反社会的なことにも興味がもてるようになった。母親が違和感を抱いたのは、そんな些細なことがきっかけだったのかもしれない……だからこそ彼女は目の前に存在する息子の中身が入れ替わったなどという妄想を抱いたのだろう。しかし彼は異世界から来た精神寄生体でもなければ、人の姿を借りた異形の化物でもなかった。そう、ただの人間だ。たまたま向こうの世界で人類という種の愚劣さと矮小さを思い知らされた一個の人間にすぎない。答えは出ている。それゆえに新たな段階に進化するために荒療治を施す者が人類には必要不可欠なのだ。すべてを根本から作り変えてしまう強力なウィルスのような存在が。
「さてと」
息子は母親の額に果物ナイフで、自分が施されたのと同じ、死人返りの呪術紋様を彫りつけると、彼女の手帳を拾い上げ、滅ぼしの呪文が書かれたのとは別のページを開いた。そして息を大きく吸い込むと呪文を唱えはじめた。自身の協力者を創り出すために。
3
「さぁ、目を覚ますんだ……」
「目を覚ますんです……早く目を覚まして……さん。起きてください……さん」
「起きろ。あと一息なんだ、頑張ってくれ……」
あれは息子なのだろうか……いえ、どうも違う。
深淵から微かに漏れ聞こえる息子ならざる声。
いつか、どこかで聞いたことのある懐かしさと安心感。南極で亡くなった夫だろうか……心惹かれる声……。
*
今のは、いったい何だったのだろうか。
十二年前のあの夜のことを思い出した途端、一瞬、意識を失ったのだろうか。白日夢……まるで弱々しい母親を演じているかのような幻覚。私はいったい何者なのだ。
*
「どうしたの、お母さん」
養子の少年の声は心配とは程遠いものだった。それもそのはずだ。目の前にいる少年は以前の無邪気で愛らしい少年ではない。役に立たなくなった実の息子を滅ぼす少し前、母親が自分の新たな協力者とするために殺害し、蘇らせた存在だからだ。
それにしても愚かな人類に進化の福音をもたらすはずの息子が、なぜ変節してしまったのか。せっかく母子で血のにじむ努力の末、州の下院議員から党の最年少の大統領候補の指名まで勝ち取ることができたのに……。
理由はわかりきっている。ダイニングの床に壊れた人形のように横たわる息子の恋人だ。この宇宙の真理の欠片さえ理解し得ない愚かなる存在が息子を蝕んだのだ。でも、なぜそんなことが可能だったのかわからない。愛だの正義だの、安っぽいドラマの中にしかないものに息子が惑わされるはずは絶対にないのだ。もっと他に何かあったはずだ。自分が知らない何かが……。
4
ベッドの中で延命装置に繋がれた老齢の女性の周りでは、一分ごとに弱まってゆく彼女のバイタルを安定させようと白衣姿の男女が忙しく動きまわっていた。ただ、制服姿の数名の軍人と巨大なモニター、それにそれを制御する複雑怪奇な装置が据え付けられていなければ、そこは普通の病室に見えたかもしれない。
こめかみから太い銀髪の帯を枕にたらした老齢の女性に白衣の壮年男性が懸命に話しかけている。
「さぁ、気がつくんだ。早く目を覚ましてくれ。もう残された時間がない」
「脳波活性化。またです。対象はレム睡眠に入りかけてます、ダーレス教授」
モニターの制御装置を操作している若い技術者がダーレス教授と呼ばれた壮年男性の注意を喚起した。それでもなお老齢女性に声を掛け続ける彼に、軍人が堪りかねて声を掛けた。囁き声ではあるが、それがより一層の緊迫感を漂わせた。
「ぐずぐずしている暇はないぞ、ダーレス。また駄目なのか」
しばらく努力を続けていたダーレスは力なく頷いた。その様子に軍人は遂に怒りを爆発させた。
「なんてことだ。世界の命運が、この老女一人の生き死にに左右されているとは」
「生き死にではなく、目覚めるかどうかだよ、将軍」
「どちらでも同じことだ。彼女の命は、今まさに尽きようとしている。目覚めることなく死んでも、世界は終わる。そうなんだろ」
荒々しく部屋のカーテンを引き開けた将軍の前に、ガラスのようにひび割れ、所々が絵の具のように剥がれ落ちた青空が広がっていた。しかも剥落した部分から覗く異空間は地獄のように赤黒い炎が渦巻く未知の世界だった。今また空の一部が剥がれ落ちて異空間に吸い込まれて砕け散った。青空の下には捨て去られた車が蟻の列のように無人と化したオフィス街に繋がっている。オフィス街の数か所からは火災の煙が激しく立ち上り、空のひび割れから異空間へ吸い出されている。絶望に陥った人々は自殺をするか、自宅に引きこもって、その時が来るのを待つしかなかった。
「彼女が使った秘術は事故死した息子を蘇らせるものではなかった」ダーレスは自分に言い聞かせるように淡々と語り始めた。「そう。それは人体の蘇生ではなく、創世の秘術だった。夢の世界を創るものだ。ただし、その夢は現実世界を侵食する欠点を持っている。優しい世界が創り出されるのか、それとも過酷なものができあがるのか、使った本人にもわからない。だがどんな世界ができるにせよ、その前に存在した世界……我々の世界は終わる。くそっ、夢の中では誰しも自身に与えられたキャラクターを演じるしかないのだ。我々が助かるには、本人が夢から覚めるか。それとも夢の中で本人が死ぬか。または向こうの世界を終わらせる滅ぼしの呪文を誰かに唱えさせるかことしか方法はない。目覚めさせることが難しいなら、残された方法は二つしかない。まだだ。まだ諦めるわけにはいかん」
「息子は彼女を毒殺したと思った途端に呪文で蘇らせてしまったぞ。あと一息だったのに。二回目のチャンスなど逆に返り討ちにあったじゃないか。こちらが用意した夢の中のキャラクターが思い通りに動かせんのでは彼女を滅ぼすどころか、呪文を唱えるなど不可能だ」
反論した将軍はモニターに目を戻した。モニターは色のない夢の世界のダイニングで対峙する老齢の母親と養子の子供を映し出しはじめていた。
5
目の端に何かが微かに動くのを感じた母親は目を上げた。養子の少年が、死んだ息子の背広のポケットから手帳を取り出したところだった。
「まぁ、そんなものをどうするつもり」
「使おうと思って」
「それが何か知ってるの」
「ぼくは賢いんだよ、お母さん」
動じるどころか、悪びれもせずに答える少年に母親が詰め寄ろうとした。少年は挑戦的な視線を投げ返しながら後ずさった。
「それに足も速い」
「わかったわ。で、何が望みなの、あなたは」
「呪文を読まなきゃならないんだ」
「あら。蘇りの呪文は、二度は効かないのよ。とても残念だけど、あなたのお義兄さんは……」
「ぼくが読むのは滅ぼしの呪文だよ」
母親は思わず噴き出した。
「賢いだなんて、やっぱり子供ね。その呪文を読めば、一度蘇ったあなたも私も死ぬことになるのよ。自分だけで世界を創り変えようと思う気持ちは立派だわ。でも、それは私と一緒に……」
母親がしゃべっている間に少年は呪文が書かれたページを開いた。それに気づいた母親は思わず声をあげた。
「何をするの」
「さっきも言ったよ」
「なぜ……」
「世界を救うんだよ」
「それは、あなたと私がすることなのよ」
少年はゆっくり首を振った。
「たぶん、お母さんには理解できないよ」
「わかったわ……けど、理解できるのは」母親の手には、いつの間にか二十五口径の小さな小型拳銃が握られていた。「あなたが賢くはなかったってことよ」
少年は、ぎくりとしたものの、すぐに不敵な表情に戻った。
「さっきも言ったでしょ。ぼくは足が速いんだって」
「銃弾より早く動ける人間はいないわよ」
「ぼくは子供だから的は小さいよ、当たるかな」
「それは、どうかしら」
「そうだね」
互いに凶器を携えた母子は射すくめるように笑いあった、何かの破滅をもたらす一瞬の隙を伺いながら。
了